[1]仏の相好を観て発心すとは、若し如来を見て父母の生身の身相昞著にして明了処を得、輝麗灼爍として毘首羯磨も作ること能はざる所、転輪王の相好、纒絡して世間に希有なるにも勝る、天上天下仏に如くは無し、十方世間にもまた比ひ無し。願くば我、仏を得て聖法王に斉しからん、我衆生を度すること無數無央ならんと。是を応仏の相好を見て上求下化する発菩提心と為す。若は如来を見て如来に如来無しと知り、若は相好を見て相好も相好に非ずと知り、如来及び相好皆虚空の如し、空の中には仏無し、況んや復相好をや。如来は如来に非ずと見るは即ち如来を見るなり。相は相に非ずと見るは即ち諸相を見るなり。願くば我仏を得て聖法王に斉しからん、我衆生を度すること無数無央ならんと。是を勝応の相好を見て上求下化する発菩提心と為す。若し如来の身相を見るに一切現ぜざる所なく、明浄の鏡の衆の色像を観るが如き、一一の相好凡聖其辺を得ず、梵天も其頂を見ず、目連も其声を窮めず。論に云はく、「無形第一の体、荘厳にあらずして荘厳す」と。願くば我、仏を得て聖法王に斉しからんと。是を報仏の相好を見て上求下化する発菩提心と為す。若し如来を見て、如来の智は深く罪福の相に達し遍く十方を照す、微妙浄の法身は相を具すること三十二を具し、一一の相好即ち是れ実相なり、実相法界具足して減ずること無しと知る。願くば我仏を得て聖法王に斉しからんと、是を法仏の相好を見て上求下化する発菩提心と為す云云。

 [2]云何が仏の種種の神変を見て菩提心を発するや。若し如来を見るに、根本禅に依る、一心に一を作し衆多なることを得ず、若し一の光を放って阿鼻獄より上有頂に至るまで火光晃耀して天地洞明なり、日月も重輝を戢め、天光も隠れて現せず、願くば我仏を得て聖法王に斉しからんと云云。若し如来を見るに如来は無生の理に依る、二相を以て諸の衆生に応ぜず、能く衆生をして、 各各仏独り其前に在るを見せしむ、願くば我仏を得て聖法王に斉しからんと云云。若し如来を見るに如来蔵に依りて三昧正受したまふ。十方の塵刹に四威儀を起せども、而も法性に於て未だ曾て動揺せず、願くば我仏を得て聖法王に斉しからんと云云。若し如来を見るに諸の神変と二無く異無し、如来神変を作し神変如来を作す、無記化化、化復化を作して窮尽すべからず、皆不可思議なり、皆是れ実相にして而も仏事を作す、願くば我仏を得て聖法王に斉しからんと云云。

 [3]云何が種種の法を聞きて菩提心を発するや。或は仏及び善知識に従ひ、或は経巻に従ふ。生滅の一句を聞きて即ち世、出世の法、新新生滅し、念念遷移し、戒慧解脱寂静にして乃ち真なりと解す。願くば我仏を得て能く浄道を説かんと云云。或は生滅を聞きて、即ち四諦皆不生不滅、空の中に刺無し、云何が抜くべけん、誰か苦、誰か集、誰か修、誰か証、畢竟清浄にして、能所寂然なりと解す。願くば我仏を得て能く浄道を説かんと云云。或は生滅を聞きて即ち 生滅を不生滅に対して二と為し、生滅に非ず不生滅に非ざるを中と為す、中道は清浄なり、独り抜けて生死、涅槃の表に出づと解す、願くば我仏を得て能く衆生の為に最上の道を説かん、独り抜けて出づること、華の水より出づるが如く、月の空に処するが如しと云云。或は生滅を聞きて 即ち生滅、不生滅、非生滅、非不生滅、雙べて生滅不生滅を照し、一に即して而も三、三に即して而も一、法界祕密常楽具足すと解す、願くば我仏を得て能く衆生の為に祕密蔵を説くこと、福徳の人の石を執りて宝と成し、毒を執りて薬と成すが如くならんと云云。若し無生を聞くに、二乗は三界の生無く、菩薩は未だ無生ならずと謂ふ、若し無生を聞くに三乗皆三界の生無しと謂ふ、若し無生を聞くに二乗は分に非ず、但菩薩に在り、菩薩は先に分段の生無く次に変易の生無しと、若し無生を聞くに、一無生一切無生なりと。若し無量の一句を聞くこと例して此の如し、若は無量を聞くに、二乗の方便道、四諦、十六諦等、以て無量と為すと。若は無量を聞くに二乗は自ら用ひて惑を伏するも他を化すること 能はず、菩薩は此の無量を用ひて自ら惑を去り亦他を化す。若は無量を聞くに二乗は分無く但菩薩のみに在り、菩薩は用ひて界内の塵沙を断じ亦界外の塵沙を伏すと謂ふ。若は無量を聞くに二乗は分無し但菩薩に在り、菩薩は用ひて界内外の塵沙を断じ亦無明を伏すと謂ふ。若は無量を聞くに但菩薩のみに在り。菩薩は用ひて無明を伏断すと謂ふ。若し無作の一句を聞くこと例して亦此の如し、若し無作を聞くに仏、天、人、修羅の所作に非ず、二乗此無作を証すと謂ふ。「思益」に云はく、「我等、無作を学して已に証得を作す、而も菩薩は証得すること能はず」と云云。若は無作を聞きて、三乗皆能く証得すと謂ふ。若は無作を聞きて二乗の境界に非ず、況んや復凡夫をや、菩薩は 権の無作を破して実の無作を証すと謂ふ。若は無作を聞きて権の無作に即して実の無作を証すと謂ふ。若し此意を得れば、一句を聞くにしたがって諸句に通達す、乃至一切の句、一切の法而も障礙無し云云。夫れ一説衆解、是義明らめ難し、更に論の偈に約して重ねて之を説かん。若し「因縁所生法我説即是空」と言ふは、既に因縁所生と言ふ、那ぞ即空なることを得ん、須らく因縁を析し尽してまさに乃ち空に会すべし、まさに空を呼んで即空と為すなり。「亦名 為仮名」とは、有為虚弱にして勢ひ独り立せず、衆縁を仮りて成ず、縁に頼るが故に仮なり、施権の仮に非ず。「亦名中道義」とは、断常を離るを中道と名く、仏性の中道に非ず。若し此の如きの解を作さば三句皆空なりと雖も、尚ほ即空を成ぜず、況んや復即仮即中をや、此れ生滅の四諦の義なり。若し因縁所生の法は破滅を須ひずして体即ち是れ空なり、而も即仮即中なることを得ず、設ひ仮中と作すとも皆入空に順す。何となれば諸法皆即空なり。主我無きが故に。仮も亦即室なり、施設を仮るの故に。中も亦即空なり、断常の二辺を離るが故に。此三番の語は異なりと雖も倶に入空に順す、退きては二乗の析法に非ず、進んでは別に非ず、円に非ず、乃ち是れ三獣渡河、共に空の意なるのみ。若し即空即仮即中なりと謂はば、三種邐迤として各々異り有り。三語皆空とは、主無きが故に空なり、虚設の故に空なり、無辺の故に空なり。三種皆仮とは、同じく名字有るが故に仮なり。三語皆中とは、中真、中機、中実の故に倶に中なり。此は別を得て円を失ふ云云。若し即空即仮即中なりと謂はば、三なりと雖も而も一、一なりと雖も而も三、相妨礙せず。三種皆空とは言思の道断えたるが故に。三種皆仮とは但名字有るが故に。三種皆中とは即ち是れ実相なるが故に。但空を以て名と為せば即ち仮中を具す、空を悟れば即ち仮中を悟る、余も亦是の如し。当に知るべし一法を聞きて種種の解を起し、種種の願を立つ、即ち是れ種種の発菩提心なり、此れ亦解すべし。

 [4]其浄土、徒衆、修行、法滅、受苦、起過等の発菩提心、前に例して解すべし。復委く記せず。

 [5]上来に説く所既に多し、今三種の止観を以て之を結ぶ。然るに法性尚一法に非ず、云何ぞ三四を以て之を推さんや。今一二三四を言ふは、法性は是れ所迷、苦集は是れ能迷、能迷に軽重あれば所迷に即離有ることを説く。界の内外に約して分別するに、即ち四種の苦集有り。根性の理を取るに約して即ち一二三四の不同有り云云。若し界内の鈍人は真に迷ふこと重ければ苦集も亦重し、利人は真に迷ふこと軽ければ苦集も亦軽し、界外の利鈍軽重も亦是の如し。法性は是れ所解、道滅は是れ能解なり。所解に即離有り、能解に巧拙有り、界内の鈍人の所解は能解に離るれば則ち拙し、利人の所解は能解に即すれば亦巧なり。界外の利鈍、即離、巧拙も亦是の如し。所以は何ん、事理既に殊なれば昏惑も亦甚だし、譬へば父子両ながら路人と謂へば瞋り打つこと倶に重きが如し。瞋りは以て集に譬へ、打つは以て苦に譬ふ。若し煩悩即法性と謂へば事理相即して苦集則ち軽し、実に骨肉に非ざれども両ながら父子と謂へば瞋り打つこと則ち薄し。麤細、枝本、通別、遍不遍、難易等も亦是の如し。或は云はく、界内の苦集は底滞を重と為し、界外の升出を軽と為す。或は界内は皮惑なり、故に浅と為す。界外は肉惑なり、故に深と為す。或は言はく、界内は随他意の故に拙と為し、界外は随自意の故に巧と為す。或は言はく、界内は機に称ふが故に巧と為し、界外は機に称はざるが故に拙と為す。或は言はく、界内は能所有るが故に麤と為し、界外は能所無きが故に細と為す。或は言はく、界内は小道、極まること 化城に在るが故に細と為し、界外は大道、極まること宝所に在るが故に麤と為す。或は言はく、界内は客塵なるが故に枝と為し、界外は同体なるが故に本と為す。或は言はく、界内は初に在るが故に本と為し、界外は後に在るが故に枝と為す。或は言はく、界内は小大共にするが故に通と為し、界外は独り大に在るが故に別と為す。或は言はく、界内は偏なるが故に小と為し、浅なるが故に別と為す、界外は円なるが故に大と為し、隔たること無きが故に通と為す。或は言はく、界内は短なるが故に不偏と為し、界外は法界に周きが故に遍と為す。或は言はく、界内は一切賢聖に在りて共ずるが故に遍と為し、界外は独り大縁に在るが故に不遍と為す。或は言はく、界内は二乗の方便を用ふるが故に断じ難しと為し、界外は但無礙の慧に依るが故に断じ易しと為す。是の如き等、種種に互に説く、今若し之を結せば則ち解す可きこと易し。若し浅深軽重を作すは漸次観の意なり。若し一実の四諦と為して分別せざるは円観の意なり。若し更互の軽重を作すは不定観の意なり。皆是れ大乗の法相なり、故に須らく之を識るべし。若し此意を見れば即ち三種を知る、漸次の顕是、不定の顕是、円頓の顕是なり云云。

 [6]問ふ、集、既に四有り、苦の果何ぞ二なる。答ふ、惑が解に随へば集則ち四有り、解が惑に随へば但二死を感ず。例せば小乗の惑は解に随へば則ち見諦思惟有り、若し解が惑に随へば但是れ一の分段生死なるのみなるが如し。問ふ、苦集は是は因縁所生の法なる可し、道滅は何が故ぞしかるや。答ふ、苦集は是れ所破なり、道滅は是れ能破なり。能破は所破に従へて名を得たり。

 [7]倶に是れ因縁生の法なり。故に「大経」に云はく、「無明を滅するに因つて即ち熾然たる三菩提の灯を得」と、亦是れ因縁なり。問ふ、法性は是れ所迷なり、何が故ぞ二なるや、何か故ぞ四なるや。答ふ、法性は権実に随ふ、是故に二なり。法性は根縁に随ふ、是故に四なり云云。若し此意を見て、見相、聞法、乃至起過に例す。例して四種を作して分別して広く説く云云。

 [8]中に弘誓に約して是を顕はすとは、前の法性を推して法を聞く等に其義已に顕る。未了の者の為に更に四弘に約す。又、四諦の中には多く解に約して上求下化を明し、四弘の中には多く願に約して上求下化を明す。又、四諦の中には通じて三世の仏に約して上求下化を明し、四弘の中には多く未来の仏に約して上求下化を明す。又、四諦の中には多く諸根に約して上求下化を明し、四弘の中には専ら意根に約して上求下化を明す。此の如く分別して解し易からしむ、意を得る者は俟たざるなり。

 [9]夫れ、心は孤り生ぜず、必ず縁に託して起る。意根は是れ因、法塵は是れ縁、所起の心は是れ所生の法なり。此の根塵能所三相遷動す、竊に起り竊に謝し、新々に生滅し、念念に住せず、睒爍なること電耀の如く、遄疾なること奔流のごとし。色の泡、受の沫、想の炎、行の城、識の幻、所有の依報、国土田宅、妻子財産、一念に喪失す。倏ちに有り、倏ちに無し、三界は無常なり、一篋偏へに苦なり、四山合せ来って逃れ避くる処無し、唯当に心を戒定智慧に専にすべし。豎に顛倒を破し、横に死海を截り、有流を超度す。経に言はく、「我、昔汝等とともに四真諦を見す、是故に久しく廻転す」と。火宅は此の如し、云何が耽湎し縦逸嬉戯せんや。是故に慈悲をもって四弘誓を起し、苦を抜き楽を与ふ。釈迦の耕墾を見るが如く、弥勒の毀台を観るに似たり、則ち其義なり。明かに四諦を了するを以ての故に九縛に非ず、四弘誓を起すが故に一脱に非ず、是を非縛非脱にして真正の菩提心を発すと為す。顕是の義明かなり矣。

 [10]次に、ただ根塵相対して一念の心起るを観ずるに、能生所生即空ならざること無し。妄りに心起ると謂ふも、起るに自性無く、他性無く、共性無し、無因性無し。起る時、自他共離より来らず。去る時、東西南北に向つて去らず。此心、内外両中間に在らず、亦常に自ら有らず、但名字のみ有り、之を名けて心と為す。此字住せず、亦住せざるにあらず。不可得なるが故に生即ち無生、亦無生無く、有無倶に寂なり。凡愚は有と謂ひ、智者は無と知る。水中の月、得て喜び失ふて憂ふるが如し。大人は去取都て欣慘無し。鏡像幻化も亦是の如し。「思益」に云はく、「苦は無生なり、集は無和合なり、道は不二なり。滅は不生なり」と。「大経」に云はく、「苦に苦無しと解して而も真諦有り、乃至滅に滅無しと解して而も真諦有り」と。集既に即空なり、まさに彼の渇鹿の馳せて颺燄を逐ふが如くなるべからず。苦既に即空なり、まさに彼の癡猴の水中の月を捉ふが如くなるべからず。道既に即空なり、まさに我即空を行じ、不即空を行ぜずと言ふべからず。筏の喩の如きは、法尚捨つべし、何に況んや非法をや。滅既に即空なり、まさに衆生の寿命と言ふべからず、誰か此滅に於て而も彼滅を証せん、生死即空なり、云何が捨つべけん、涅槃即空なり、云何が得べけん。経に言はく、「我無生の法の中に、修道の若は四念処乃至八聖道有らしめんと欲せず、我れ無生の法の中に得果の若は須陀洹乃至阿羅漢有らしめんと欲せず」と。依りて例するも、亦まさに我無生の法の中に色受想行識有らしめんと欲せず、我無生の法の中に貪欲瞋恚癡有らしめんと欲せずと言ふべし。但衆生を愍念して誓願を興し、両苦を抜き二楽を与ふ。苦集は空なり達するを以ての故に九縛に非ず、道滅は空なりと達するが故に一脱に非ず、是を非縛非脱にして真正の菩提心を発すと為す。顕是の義明かなり矣。

 [11]ただ根塵一念の心起るを観ずるに、心起るは即ち仮なり、仮名の心は迷解の本と為り、四諦に無量の相有りと謂ふ。三界に別の法無し唯是れ一心の作なり。心は工なる画師の種種の色を造るが如し、心は六道を構へ、分別 校計するに無量の種別あり。謂く、是の如きの見愛は是れ界内軽重の集の相、界外軽重の集の相なり。是の如きの生死は是れ分段軽重の苦の相、界外軽重の苦の相なり。還つて此心を翻じて而して解を生ず。譬へば画師の諸色を洗蕩して塗るに墡彩を以てするが如し。所謂る、身不浄なりと観じ、乃至、心無常なりと観ずるに、是の如きの道品は紆げて化城に通ず。身を観ずるに身空なり、乃至、心を観ずるに心空なり、空の中に無常無く、乃至、不浄無し。是の如きの道品は直に化城に通ず。身を観ずるに無常なり、無常即空なり、乃至、身を観ずるに法性は常に非ず無常に非ず、空に非ず不空に非ず、乃至、心を観ずることも亦是の如し。是の如きの道品は紆げて宝所に通ず。身を観ずるに法性は浄に非ず不浄に非ず、雙べて浄不浄を照す、乃至、心を観ずるに法性は常なり無常なり、雙べて常無常を照す。是の如きの道品は、直に宝所に通ず。是人、見諦滅するを須陀洹と名け、是人、思惟滅するを三果と名け。是人、見滅するを見地と名け、この人、思滅するを薄と名け、離と名け、已弁と名け、乃至、習を侵すを辟支仏と名く、是人、見思滅するを十住と名け、塵沙滅するを十行、十回向と名け、無明滅するを十地、等覚、妙覚と名け、是人、見思、塵沙滅するを十信と名け、無明滅するを十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚と名く。十六門の道滅の不同を分別す、及び一切恒沙の仏法、分別校計するに不可説不可説なり、掌の果を観るが如くにして僻謬有ること無し、皆心より生じて余処より来らず。此一心を観ずるに、能く不可説の心に通ず、不可説の心は能く不可説の法に通ず、不可説の法は能く不可説の非心非法に通ず、一切の心を観ずることも、亦復是の如し。九縛の凡夫は覚らず知らず、大いに富める盲児は、宝蔵の中に坐するも都て見る所無く、動転罣礙して宝の為に傷つけらるるが如し。二乗の熱病は、諸の珍宝、是れ鬼虎竜蛇なりと謂うて、棄捨して馳走す、竛竮辛苦すること五十余年、縛脱の殊りありと雖も、倶に如来無上の珍宝に貧し。大慈悲の誓願を起して抜苦与楽す。是を非縛非脱にして真正の菩提心を発すと為す。顕是の義明かなり矣。

 [12]次に根塵相対して一念の心起るに即空即仮即中なりとは、若は根、若は塵も並に是れ法界なり、並に是れ畢竟空、並に是れ如来蔵、並に是れ中道なり。云何が即空なるや、並に縁より生ず、縁生は即ち無主なり、無主は即ち空なり。云何が即仮なるや、無主にして而も生ず、即ち是れ仮なり。云何が即中なるや、法性を出です、並に皆即中なり。当に知るべし一念は即空即仮即中、並に畢竟空、一並に如来蔵、並に実相なり。三に非ずして而も三、三にして而も三にあらず、合に非ず散に非ず、而も合而も散、非合に非ず非散に非ず、一異なるべからずして而も一而も異なり。譬へば明鏡の如し、明は即空に喩へ、像は即仮に喩へ、鏡は即中に喩ふ。合せず散ぜず、合散宛然なり、一二三にあらずして二三妨げ無し。此一念の心は縦ならず、横ならず、不可思議なり、但己のみ爾るに非ず、仏及び衆生も亦復是の如し。「華厳」に云はく、「心仏及び衆生是三差別無し」と。当に知るべし己心に一切の仏法を具すと云ふことを矣。「思益」に云はく、「陰入界に愚にして而も菩提を求めんと欲す、陰入界は即ち是なり、是を離れて菩提無し」と。「浄名」に曰はく、「如来の解脱は当に衆生心行の中に於て求むべし、衆生は即ち菩提なれば復得べからず、衆生即ち涅槃なれば復滅すべからず、一心既に然り、諸心も亦然なり、一切の法も亦爾なり」と。「普賢観」に云はく、「毘盧遮那、一切処に遍す」と、即ち其義なり。当に知るべし一切の法は即ち仏法なり、如来法界なるが故に。若し爾らば、云何が復心を法界に遊ばしむること虚空の如しと言ふや。又、無明と明とは即ち畢竟空なりと言ふや。此れ、空を挙げて言の端と為す、空は即ち不空なり、亦即ち非空非不空なり。又言はく、一微塵の中に大千の経巻有り、心中に一切仏法を具すること地種の如く香丸の如しとは、此れ、有を挙げて言の端と為すなり、有は即ち不有なり、亦、即ち非有非不有なり。又言はく、一色一香も中道に非ざること無しとは、此れ、中道を挙げて言の端と為すなり、中に即して而も辺、即ち非辺非不辺なり、具足して減ずること無し。語を守りて円を害し、聖意を誣罔すること勿れ。若し、此解を得れば根塵一念の心起るに、根に即ち八万四千の法蔵を具す、塵も亦爾なり、一念の心起るに亦八万四千の法蔵あり、仏法界が法界に対して法界を起すなり、法界は、仏法に非ずといふこと無し、生死即涅槃なり、是を苦諦と名く。一塵に三塵有り、一心に三心有り、一一の塵に八万四千の塵労門有り、一一の心も亦是の如し、貪瞋癡も亦即ち是れ菩提なり、煩悩も亦即ち是れ菩提なり、是を集諦と名く。一一の塵労門を翻ずれば即ち是れ八万四千の諸三昧門なり、亦是れ八万四千の諸陀羅尼門なり、亦是れ八万四千の諸対治門なり、亦八万四千の諸波羅蜜を成ず。無明転ずれば即ち変じて明となる。氷を融じて水と為すが如し、更に遠き物に非ず、余処より来らず、但一念の心に普く皆具足せり。如意珠の宝有るに非ず、宝無きに非ず、若し無しと謂はば即ち妄語なり、若し有りと謂はば即ち邪見なり、心を以て知る可からず、言を以て弁ず可からざるが如し。衆生は此不思議、不縛の法の中に於て、而も思想して縛と作し、無脱の法の中に於て、而も脱を求む。是故に大慈悲を起し、四弘誓を興して両苦を抜き、両楽を与ふ。故に非縛非脱にして真正の菩提心を発すと名く。前の三は皆四諦に約して語を為す、今は法蔵、塵労、三昧、波羅蜜に約す、其義宛然たり。

 [13]問ふ、前に非ず簡ぶに併べて非と言ふ、今は是を顕すに何が故ぞ併せて是と言ふや。答ふ、言ふ所の併べて是とは、皆非縛非脱なり、故に併べて是と言ふ。通じて皆上求するが故に、又、次第に漸く入りて実に到る、故に併べて是と言ふ。又、実は知り難ければ権を借りて実を顕す。故に併せて是と言ふ。此三番は世界悉檀に擬して併べて是と言ふなり。又、権は実を摂せず、実は則ち権を摂す、摂をして顕に見易からしめんと欲す、故に併べて是と言ふ、此の一番は為人悉檀に擬す、故に是と言ふなり。又、一の菩提心は一切の菩提心なり、若し説かずんば一切を知らず、故に併せて是と言ふ、一番は対治悉檀に擬して是を明す。若し究竟して論ぜば前の三の是は権に約し、後の一は実に約す。譬へば良医の一祕法有り、総じて諸法を摂す。阿伽陀薬の功は諸薬を兼ねるが如し。乳糜を食すれば更に須うるところ無きが如く、一切具足せること如意珠の如し。権実の顕是、其義知る可し。

 [14]又、一の是とは一大事因縁の故なり。云何なるをか一と為すや、一実不虚の故に、一道清浄の故に、一切無礙の人、一道より生死を出づるが故なり。云何なるをか大と為すや、其性広博にして含容する所多く、大智なり、大断なり、大人の所乗なり、大師子吼して、大いに凡聖を益す、故に言ひて大と為す。事とは大方三世の仏の儀式なり、此を以て自ら仏道を成じ、此を以て衆生を化度す、故に名けて事と為す。因縁とは衆生此因を以て仏を感ず、仏は此縁を以て応を起す、故に因縁と言ふ。又、是とは、三と言ふ可からず、一と言ふ可からず、非三非一と言ふ可からずして而も三一と言ふ、故に不可思議の是と名くるなり。又、是とは、作法に非ず、仏に非ず、天人修羅の所作に非ず、常境は無相、常智は無縁、無縁の智を以て無相の境を縁じ、無相の境は無縁の智に相たり、智境冥一にして而も境智と言ふ、故に無作と名くるなり。又、是とは、「文殊問経」に云ふが如き、一切の発を破するを発菩提心と名く、常に菩提の相に随ひて菩提心を発す、又、発すること無くして而も発す、随ふこと無くして而も随ふ、又、一切の破を過ぎ、一切の随を過ぎ、雙べて破随を照すを発菩提心と名く。此の如きの三種、一ならず異ならず、理に如し、事に如し、非理非事に如す、故に名けて是と為す。若し此義に例せば、無作、不可思議、一大事因縁等の諸の法門は、皆破と言ひ、皆随と言ひ、皆破に非ず随に非ず雙べて破随を照すと言ふ。

 [15]又、前の三は是れ上中下智の所観、後の一は是れ上々智の所観なり。前の三は是れ共、後の一は是れ不共なり。前の三は浅近にして曲、後の一は深遠にして直なり云云。前の三の是は小の中の大、後の一の是は大の中の大、上の中の上、円の中の円、満の中の満、実の中の実、真の中の真、了義の中の了義、玄の中の玄、妙の中の妙、不可思議の中の不可思議なり。若し能く此の如く非を簡び是を顕し、権を体し実を識りて而うして発心するものは、是れ一切諸仏の種なり。

 [16]譬へば、金剛は金性より生ずるが如し、仏菩提心は大悲より起る、是れ諸行の中の先なり。阿娑羅薬を服するに先づ清水を用ふるが如し、諸行の中の最なり。諸根の中に命根を最と為すが如し、仏の正法正行の中に此心を最と為す。太子の生れるに王の儀相を具すれば大臣恭敬して大声名有るが如く、迦陵頻伽鳥の穀中にて鳴く声已に諸鳥に勝るが如し、此菩提心に大勢力有り。師子筋の弦の如く、師子の乳の如く、金剛の槌の如く、那羅延の箭の如く、衆宝を具足して能く貧苦を除くこと如意珠の如し。少しく懈怠し、少しく威儀を失すと雖も、猶二乗の功徳に勝る。要を挙げて之を言はば、此心に即ち一切菩薩の功徳を具し、能く三世無上の正覚を成ず。若し此心を解せば、任運に止観に達す、発無く礙無きは即ち是れ観、其性寂滅なるは即ち是れ止なり。止観は即ち菩提、菩提は即ち止観なり。「宝梁経」に云はく、「比丘、比丘の法を修せざるは大千に唾もする処無し、況んや人の供養を受けんをや」六十の比丘、悲泣して仏に白さく、「我等乍ちに死すとも、人の供養を受くること能はず」と。仏の言はく、「汝、慚愧の心を起す、善い哉善い哉」と。一の比丘、仏に白さく、「何等の比丘か能く供養を受けん」と、仏の言はく、「若し、比丘の数に在りて僧の業を修し、僧の利を得ん者は、是人、能く供養を受けん。四果、四向は是れ僧の数なり、三十七品は是れ僧の業なり、四果は是れ僧の利なり」と。比丘重ねて仏に白さく、「若し、大乗の心を発せん者は復云何」と。仏の言はく、「若し、大乗の心を発して一切智を求むれば、数に墮せず、業を修せず、利を得ざるとも能く供養を受く」と。比丘驚きて問う、「云何ぞ是人能く供養を受けん」と。仏の言はく、「是人、衣を受け、用ひて大地に敷きて搏食を受くること須弥山のごとくなるとも、亦能く畢く施主の恩に報ひん」と。当に知るべし、小乗の極果は大乗の初心に及ばざることを。又、「如来密蔵経」に説く、「若し人、父の縁覚と為るを而も害し、三宝物を盗み、母の羅漢と為るを而も 汗し、不実の事を以て仏を謗り、両舌して賢聖に間り、悪口して聖人を罵り、求法の者を懐乱し、五逆初業の瞋、戒を持する人の物を奪ふの貪、辺見の癡なる、是を十悪の悪なる者と為す。若し能く、如来の因縁の法は我人衆生寿命無く、生無く、滅無く、染無く、著無く、本性清浄なりと説きしを知り、又、一切の法に於て本性清浄なりと知り、解知し信入せし者は、我、是人は地獄及び諸の悪道の果に趣向すと説かず。何を以ての故ぞ、法は積聚無く、法は集悩無し、一切の法、生ぜず住せず、因縁和合して而も生起することを得、起り已つて還つて滅す。若し心生じ已つて滅すれば一切の結使も亦生じ已つて滅す。是の如く解すれば犯ずる処無し、若し、犯有り住有らば是処有ること無し。百年の闇室に若し灯を燃す時、闇「我は是れ室の主、此に住すること久し、而うして肯て去らず」と言ふ可からず、灯若し生ぜば闇即ち滅するが如し、其義も亦是の如し。此経は具に前の四の菩提心を指す。若し、如来因縁の法を説きしを知るといはば、即ち初の菩提心を指す。若し生無く滅無しといはば、第二の菩提心を指す。若し、本性清浄なるは、第三の菩提心を指す。若し、一切の法に於て本性清浄なりと知るといはば、第四の菩提心を指すなり。初の菩提心に已に能く重重の十悪を除く、況んや、第二、第三、第四の菩提心をや。行者、此の勝妙の功徳を聞きて当に自ら慶幸すべし。闇処の伊蘭に光明の栴檀を得るが如し。問ふ、因縁の語は通ず、何の意ぞ初観独り其名に当るや。答ふ、最初なるを以て名に当つるのみ。又、因縁は事相なれば初観を便と為す、若し、生滅と言はば即ち別なり。後の三、例するに通別有り、而うして別に従うて名を受くるのみ。

 [17]六即に約して是を顕さば、初心を是と為んや、後心を是と為んや。答ふ、論の焦炷の如し、初に非ずして初を離れず、後に非ずして後を離れず。若し、智信具足して一念即ち是なるを聞けば、信の故に謗らず、智の故に懼れず、初後皆是なり。 若し、信無くんば高く聖境に推して已が智分に非ず。若し、智無くんば、増長慢を起し、己は仏に均しと謂ふ。初後倶に非なり、此事の為の故に須らく六即を知る可し。謂く理即、名字即、観行即、相似即、分真即、究竟即なり。此六即は凡に始まり聖に終る、凡に始まるが故に疑怯を除く、聖に終るが故に慢大を除く云云。理即とは、一念の心即ち如来蔵の理なり、如の故に即ち空、蔵の故に即ち仮、理の故に即中なり、三智、一心の中に具して不可思議なり。上に説くが如し、三諦一諦、三に非ず一に非ず、一色一香にも一切の法を具す、一切の心も亦復是の如し。是を理即是の菩提心と名く。亦是れ理即の止観なり。即ち寂を止と名け、即ち照を観と名く。名字即とは、理は即ち是なりと雖も日に用ひて知らず、未だ三諦を聞かざるを以て全く仏法を識らず、牛羊の眼の方隅を解せざるか如し、或は知識に従ひ、或は経巻に従ひて上の説く所の一実の菩提を聞き、名字の中に於て通達解了して、一切の法は皆是れ仏法なりと知る。是を名字即の菩提と為す。亦是れ名字の止観なり。若し未だ聞かざる時は処処に馳求し、既に聞くことを得已んぬれば攀覓の心息むを止と名く。但、法性を信じて其諸を信ぜざるを名けて観と為す。観行即の是とは、若し但名を聞き口に説くは、虫の木を食ひて偶字を成することを得れども、是虫は是字と非字とを知らざるか如し。既に通達せず、寧ぞ是れ菩提ならんや。必ず須らく心観明了にして理と慧と相応じ、所行は所言の如く、所言は所行の如くすべし。「華首」に云はく、「言説多きは行ぜず、我れ言説を以てせず、但心に菩提を行ず」と。此心口相応は、是れ観行の菩提なり。「釈論」の四句に聞慧具足を評せり、眼、日を得て照了するに僻無きが如し、観行も亦是の如し、未だ理に契はずと雖も観心息まず、「首楞厳」の中の射的の喩の如し。是を観行の菩提と名く。亦、観行の止観と名く。恒に此想を作すを観と名け、余の想の息むを止と名く云云。相似即の是の菩提とは、其逾観じ、逾明かに、逾止、逾寂なるを以て、射を勤むるに的に隣きが如くなるを、相似の観慧と名く。一切世間の治生、産業相違背せず、所有の思想籌量、皆是れ先仏の経の中の所説なり。六根清浄の中に説くが如し。円に無明を伏するを止と名け、似の中道の慧を観と名く云云。分真即とは、相似の観力に因りて 銅輪の位に入る。初めて無明を破して仏性を見、宝蔵を開きて真如を顕すを発心住と名く、乃至、等覚には無明微薄にして智慧転た著る。初日より十四日に丕りて、月の光円なるに垂んとし、闇尽くるに垂んとするが如し。若し、人応に仏身を以て得度すべき者には即ち八相成道し、応に九法界の身を以て得度すべき者には、普門を以て示現す。経に広く説くが如し。是を分真即の菩提と名く。亦、分真の止観、分真の智断と名く。究竜即の菩提とは、等覚一たび転じて妙覚に入る、智光円満して復増す可からざるを菩提の果と名く、大涅槃断にして更に断ず可き無きを果果と名く。等覚は通ぜず、唯、仏のみ能く通ず。荼を過ぎて道の説く可き無し。故に究竟の菩提と名く。亦、究竟の止観と名く。

 [18]総じて譬を以て之を譬ふるに、譬へば、貧人の家に宝蔵有りて、而も知る者無し、知識、之を示すに即ち知ることを得、草穢を耘除して之を堀り出すに、漸漸に近くことを得、近き已つて蔵を開き、尽く之を取り用ふるが如し、六喩を合すること解す可し云云。

 [19]問ふ、「釈論」の五菩提の意や云何。答ふ、「論」は竪に別の位を判じ、今は竪に円の忱を判ず、之を会すれば発心は名字に対し、伏心は観行に対し、明心は相似に対し、出到は分真に対し、無上は究竟に対す。又、彼の名を用ひて円の位に名けば、発心は是れ十住、伏心は是れ十行なり。問ふ、住、已に断ず、行、云何が伏せんや。答ふ、此は真道を用ひて伏するなり、例せば、小乗の見を破するを断と名け、思惟を伏と名くるが如し云云。明心は是れ十回向、出到は是れ十地、無上は是れ妙覚なり。又、十住より五菩提を具す。乃至、妙覚は究竟の五菩提なり。故に「地義」に云はく、「初の一地より諸地の功徳を具す」と、即ち其義なり。問ふ、何の意ぞ円に約して六即を説くや。答ふ、円に諸法を観ずるに皆六即と云ふ、故に円の意を以て一切の法に約して悉く六即を用ひて位を判ず。余は爾らず、故に之を用ひざるなり、其教に当つて之を用ふれば、なんぞ得ざらん、而も浅近の故に教の正意に非ざるなり。

 [20]然るに、上来非を簡ぶに、先には苦諦の世間に升沈するに約して簡ぶのみ、次には四諦の智の曲拙浅近に約して簡ぶのみ、次には四弘の行願に約し、次には六即の位に約す。展転して深細に、方に乃ち是を顕す。故に知んぬ。明月の神珠は九重の淵の内なる驪竜の頷下に在り、志有り、徳有りて方に乃ち之を致す。豈世人の麤浅浮虚にして、瓦石草木を竸ひ執て妄に謂ひて宝と為すが如くならん。末学の膚受、甚だ知る所無し。