[1]第九巻に凡夫の仏性は牛の新たに生じて血乳の未だ別れざる如く、声聞の仏性は清浄の乳の如く、支仏は酪の如く、菩薩は生・熟蘇の如く、仏は醍醐の如しと。此の譬は別教の五位なり。乳は無明を譬へ、血は四住を譬ふ。凡夫は此を具するが故に雑血と言ふ。十住に已に四住の血を断ず、二乗と斉し。故に声聞は乳の如しと言ふ。十住の後心は理明かに智利なり、支仏の習を侵すに類す。故に酪の如しと言ふ。十行に塵沙を破するは、生蘇の如し。十迴向に界外の塵沙を破するは、熟蘇の如し。故に菩薩は生・熟蘇の如しと言ふ。登地に無明を破して仏性を顕はし、一身無量身を得て百仏世界に八相作仏す。故に仏は醍醐の如しと言ふ。二十五に云はく、「雪山に草あり、名けて忍辱と為す。牛若し食すれば即ち醍醐を得」と。牛は凡夫を喩え、草は八正を喩う。能く八正を修すれば即ち仏性を見るを、醍醐を得と名く。此は円教に大直道を行じ、一切衆生を観るに即ち涅槃の相復た滅すべからざるを譬ふ。円かに信じ円かに行じて歴別に由らず、一生の中に於て即ち初住に入り、仏性を見ることを得。牛の忍草を食するは、四見を歴ずして草より醍醐を出すが如し、故に知んぬ、円教の意なることを。忍草は境妙を譬へ、牛は智妙を譬へ、食するは行妙を譬へ、醍醐を出すは位妙を譬ふ。此れ円の意なり。牛、余草を食すれば血乳転変す。四味を歴已つて方に醍醐を成ず。余の方便教の境・智・行・位は皆な麁なるの意なり。前の四譬に即ち四処に醍醐を明すことあり。四教に仏智を明すこと各各異なれども、倶に既に仏と称し、同じく仏智を指して以て醍醐と為す。蔵・通の二仏は中道を明さず、但だ果頭の仏の二諦の智を取りて醍醐と為す。別教は登地に無明を破し、即ち能く作仏す。中道の理智を以て醍醐と為す。円教は初住に中道智を得、亦た称して醍醐と為す。纓珞に云はく、「頓悟の世尊」と、即ち此の初任の智を醍醐と為すなり。前の両の醍醐は是れ権にして実に非ず、故に教あつて人無し。別教の醍醐は名は権にして理は実、円教の醍醐は名理倶に実なり。是の義を以ての故に前の三位は五味皆な麁、円教の一味は皆な妙なり。

 [2]第二十七巻に云はく、「譬へば人あり、毒を乳の中に置けば則ち能く人を殺し、乃至醍醐も亦た能く人を殺す」と。此れ両用を譬ふ。一には通じて漸頓に約して不定教を明す、処処に皆な仏性を見ることを得るなり。二には行の不定なるに約す、行人の心行は之を譬ふるに乳の如し。実相の智は之を譬ふるに毒を以てす。毒に命を殞するの能あり、此の智に無明を破するの力あり。久遠劫来、実相の毒を説きて凡夫の心乳に置く。毒の慧開発すること定と為すべからず、或は初味に於て発し、或は後味に於て発す。次第に往いて判ずることを得ず。故に毒を乳の中、乃至醍醐に置くに、五味の中に遍じて悉く殺の義ありと言ふ。若し衆生、始め凡地に於て華厳を聞くことを得て即便ち理を見て仏慧に入るは、此は是れ血乳人を殺すなり。若し先に十住を得て、今華厳に悟を得るは、即ち是れ酪の中に人を殺す。十行に悟る者は、是れ生蘇に人を殺す。十迴向に悟る者は、是れ熟蘇に人を殺す。諸地に更に悟るは、是れ醍醐の中に人を殺すなり。若し過去に先に是れ円教の中の仮名・相似の位にして、今、華厳を聞きて悟を得るは、亦是れ乳中に人を殺す。亦是れ酪・生・熟等の蘇の中に人を殺す。若し先に是れ諸住・諸行等の位にして、今更に華厳を聞きて増道損生を得るは、即ち是れ醍醐の中に於て人を殺す、云云。若し三蔵教の中の凡夫、及び方便位、及び菩薩位を歴て三蔵教を聞き、中に於て即ち能く密かに中道を見るは、即ち是れ乳中に人を殺す。若し四果の位に密かに中道を見るは、即ち是れ酪の中に人を殺す。顕露の教の中には此の事無し。若し通教の中の凡夫、及び三乗方便の位に、若し通教を聞きて密かに仏性を見るは、即ち是れ乳の中に人を殺す。若し入位の者、秘密にして去るは、即ち是れ酪の中に人を殺す。若し菩薩道種智の中より去つては、即ち是れ生蘇に人を殺す。九地の中より去るは、即ち是れ熟蘇の中に人を殺す。十地の中より去るは、即ち是れ醍醐の中に人を殺す。通教の声聞は但だ秘密の中に人を殺すことあり、顕露不定の殺無きなり。若し別教の中に歴るに、十信聞教より去つては即ち是れ乳の中に人を殺す。三十心の中より去つては、即ち是れ酪に人を殺し、生蘇・熟蘇等に人を殺す。登地より去つては、即ち是れ醍醐に人を殺すなり。若し円教の中に、発の始めに経を聞きて即ち無明を破し、仏性を見るは、是れ乳の中に人を殺す。六根清浄より去つては、是れ酪・生・熟蘇等に人を殺す。若し初住より去つては、是れ醍醐に人を殺す。若し行人ありて、諸教四譬・五味に歴、過ぎ已つて方に円教の醍醐の中に殺人に入ることを得るは、此は是れ三を破して一を顕はし、相ひ形待して妙と為す。若し毒を乳の中に置けば、味味に悉く人を殺すとは、此は是れ開権顕実なり。一切法の中に於て即ち中道を見る。故に文に云はく、「汝等の所行は是れ菩薩の道なり」と。更に途を改め轍を易ふることを須ひずして、而も真実を求め、麁に即して妙を見る。故に毒を置くを以つて喩と為す。

 [3]諸経に悉く秘密置毒の妙ありて而も未だ顕露に味に歴て妙に入ることあらず。亦た顕露に麁を決して妙に即する無し。此の法華に至りて方に二意あり。同じく宝乗に乗じ、皆な仏の知見を開く。顕露の事彰はなり。是の故に独り称して妙と為す。其の意此に在り。次第入妙、開麁即妙に各各両意あり。按位して開入し、有るは増進して開入す。若し声聞法を決了するに、是れ諸経の王、聞き已つて諦かに思惟し、無上道に近づくことを得と言ふは、即ち是れ按位に妙を顕はす。増道損生は即ち是れ升進に妙に入る。故に法華独り妙と称するなり。

 [4]十に妙位の始終を明すとは、真如法の中には詮次無く、一地・二地無し。法性平等にして常に自ら寂然なり。豈に初後・始終を分別すべけんや。良に平等大慧、法界を観ずるに、若干あること無きに由つて、能く若干の無明を破して、若干の智慧無きを顕出す。此の智慧に約して無始にして而も始なるは即ち是れ初の阿、無終にして而も終なるは即ち是れ後の荼なり。無中にして而も中を論ずるは、即ち是れ四十心なり。復た差別すと雖も則ち差別無し。故に不思議位と名くるなり。下の文に云ふが如し。声聞・縁覚は竹林の如くなるも、新発・不退の菩薩等皆な知ること能はず。諸の菩薩衆の信力堅固の者を除くと。声聞・縁覚の知ること能はざる所とは、此れ三蔵・通教両種の二乗を簡ぶなり。三蔵の菩薩は真を縁ずること声聞に及ばず。声聞尚ほ知らず、此の菩薩那んぞ知ることを得ん。通教の菩薩は入真の智、二乗と殊ならず。二乗も知らざれば、彼の菩薩も亦た知らず。今、二乗の不知を標するに、両処の菩薩も亦た測ること能はず。発心も知らずとは、即ち別教の十信を指す。不退も知ること能はずとは、即ち別教の三十心を指す。十住は位不退、十行は行不退、十迴向は念不退なり。此の三不退は皆な知ること能はず。三蔵の中の不退は尚ほ二乗に及ばず。通教の中の不退は止だ二乗に等し。二乗は知らず、豈に重ねて菩薩を挙げんや。今、発心と不退とを標するは、則ち別教の中の人に擬するなり。信力とは是れ仮名の位、堅固とは是れ鉄輪の位なり。此の如き等の位は、経を聞きて即ち解す、故に妙似位の始と為ることを得。初に仏の知見を開き、是の宝乗に乗じて東方に遊ぶは、即ち是れ真位の始めなり。三方は是れ中位なり、直に道場に至り、荼を過ぎて字の説くべき無きは、即ち是れ終位なり。此の如きの諸位は、何等の乗にか乗ずる、乗に三種あり、教・行・証を謂ふ。若し是の乗は三界より出でて、薩婆若の中に到りて住すと言ふは、住に二義あり。一には証を取るが故に住す、即ち通教の意なり。二には所乗極まるが故に住す、即ち別・円の意なり。初心は教の所詮に憑り、教を信じ行を立てて三界を出づることを得。無明未だ破せざれば、未だ所証あらず、故に真を見ず。但だ教乗に乗じて此に来至するのみ。我が円教の中、其れ誰か是れなるや。謂はく五品弟子の能善く大心を発して長く三界の苦輪海に別るるは、即ち其の人なり。教乗既に息し証乗未だ及ばず。似解の慧を以て進んで衆行を修するは、即ち行を以て乗と為す。方便三界の中より出でて、初住薩婆若の中に到つて住す。我が円教の中には、其れ誰か是れなるや。謂はく、十信心、六根浄の者、即ち其の人なり。初住乃至等覚の更に増道損生する者は此れ証を以つて乗と為し、因縁の三界乃至無後の三界の中より出でて、妙覚の中に至つて荼を過ぎて字の説くべき無し。故に薩婆若の中に到つて住すと言ふ。前来の諸乗は猶ほ上法あれば、住と称することを得ず。荼は無上の法なり、是の故に住と言ふ。無住の処に住す、即ち妙位の終りなり。復次に別教の十住は、見思を破す。是れ三百由旬を行く。十行は塵沙を破す、四百と為す。十迴向に無明を伏するは五百と為す。十地に無明を断ずるは、此れ分に中道を見て即ち宝所と為すなり。円教の六根清浄の時は是れ四百を行く。無明を破して初住に入るは是れ五百を行く。二乗の経を聞きて無明の惑を破し、仏知見を開き、記を得て作仏するは、即ち是れ諸の麁位を決了す。五百由旬を過ぎ、来つて初住に入る。即ち是れ妙位の始めなり。証乗を得て東方に遊ぶ。若し本門の中に至つて増道損生し、更に証乗に乗じて南方に遊ぶは、是れ進んで十行の位に入るなり。西方は是れ進んで十迴向に入り、北方は是れ進んで十地に入るなり。又た文に云ふが如し。「是の如来の寿命の長遠を説く時、六百八十万億那由他恒河沙の人、無生法忍を得」とは、即ち是れ十住なり。復た千倍の菩薩の聞持陀羅尼を得るは、即ち十行なり。復た一世界微塵数の菩薩ありて、楽説辯才を得るは即ち十迴向なり。復た一世界微塵数ありて、旋陀羅尼を得るは即ち初地なり。三千大千微塵の不退を得るは即ち二地なり。二千の国土微塵に能く清浄の法輪を転ずるは即ち三地なり。小千国土の微塵八生に当に菩提を得べきは即ち四地なり。七生に当に得べきは即ち五地なり。六生に当に得べきは即ち六地なり。五生に当に得べきは即ち七地なり。四生に当に得べきは即ち八地なり。三生に当に得べきは即ち九地なり。二生に当に得べきは即ち十地なり。一生に当に得べきは即ち等覚なり。此の一生を過ぐれば即ち是れ荼を過ぎて字無し。即ち是れ妙覚地にして、妙位の終りなり。前の位を列ぬる中に、法華経の文を引くを将つて此の中に入れて共に一科と作すは、即ち煩はしくせず。

 [5]第五に三法妙とは、斯れ乃ち妙位所住の法なり。三法と言ふは即ち三軌なり。軌は軌範を名く。還つて是れ三法を軌範すべき耳。此に即ち七意あり、一には総じて三軌を明し、二には歴別に三軌を明し、三には麁妙を判じ、四には麁を開して妙を顕はし、五には始終を明し、六には三法に類し、七には悉檀料簡なり。一に総じて三軌を明さば、一には真性軌、二には観照軌、三には資成軌なり。名は三ありと雖も、秖だ是れ一の大乗の法なり。経に曰はく、「十方に諦かに求むるに、更に余乗無く唯だ一仏乗なり」と。一仏乗に即ち三法を具す。亦た第一義諦と名け、亦は第一義空と名け、亦は如来蔵と名く。此の三は定んで三ならず、三にして一を論ず。一は定んで一ならず、一にして三を論ず。不可思議不並不別、伊字・天目なり。故に大経に云はく、「仏性とは亦は一、一に非ず、一に非ず非一に非ず」と。亦た一とは一切衆生悉く一乗なるが故なり。此れ第一義諦を語す。非一とは是の如きの数法なるが故なり、此れ如来蔵を語す。非一非非一とは数・非数の法決定せざるが故なり、此れ第一義空を語す。而して皆な亦と称するは鄭重なり。秖だ是れ一法なるを、亦た三と名くる耳。故に単にして取るべからず、複にして取るべからず、不縦不横にして而も三、而も一なり。前の諸諦の若は開、若は合、若は麁、若は妙等を明すは、已に是れ真性軌の相なり。前に諸智の若は開、若は合、若は麁、若は妙を明すは、是れ観照軌の相なり。前に諸行の若は開、若は合、若は麁、若は妙を明すは、已に是れ資成軌の相なり。前に諸位を明すは、秖だ是れ此の三法を修して、証する所の果なるのみ。若し然らば、何を以てか重ねて説くや。重ねて説くに三義あり。一には前の境・智・行は是れ因中所乗の三軌なり。今は是の大乗に乗じて已に道場に至ることと明せば、証果所住の三軌なり。二には前には境・智等の名を作して別して説く、今は法の名を作して合して説く。三には前は直爾に散説して本末を論ぜず。今は遠く其の本を論ずれば、即ち是れ性徳の三軌なり、亦た如来の蔵と名く。極めて其の末を論ずれば、即ち是れ修徳の三軌なり、亦は秘密蔵と名く。本末に一切の諸法を含蔵す。性徳の三法より名字の三法を起し、名字の三法に因つて観行の三法を修し、観行の三法に因つて相似の三法を発し、乃至分証の三法、究竟の三法あり。自成の三法、化他の三法あり。是の義の為の故に、宜しく応に重ねて説くべし。私に謂はく、一句は即ち三句、三句は即ち一句なるを円の仏乗と名く。記の中には既に如来蔵の一句より諸の方便を出す。此れ乃ち別して判ず。例するに応に通じて開すべし。非一とは数法なるが故に、此を指して如来蔵と為し、三蔵の中の三乗事相の方便を開出す。非一非非一とは不決定の故に、此の一句を指して第一義空と為し、通教の三人の事に即して真なるを開出す。亦た一とは、一切衆生悉く一乗なるが故に、此の一句を指して第一義諦と為し、別教の独菩薩乗を開出す。此の諸の方便は悉く円より出づ。故に経に言はく、「一仏乗に於て分別して三と説く」と。即ち此の義なり。

 [6]二に歴別に三法を明さば、先に須らく如来開合の方便を識つて、然して後に乃ち総じて三法を攬つて、一大乗と為ることを解すべし。仏は何れの法よりして諸の権乗を開する。大経に、仏性非一を明すが如き、是の如きの数法は三乗を説くが故なり。当に知るべし、諸乗の数法を如来蔵の所摂と為す。仏、此の蔵に於て声聞・縁覚、及び諸の菩薩の通・別等の乗を開出す。何となれば、諸乗は既に是れ方便なり、如来蔵は又是れ事なり。事より方便を出す、故に諸権を如来蔵の摂と為すと言ふのみ。又た経に依るが故に。大経に云はく、「声聞僧とは有為僧と名く」と。又た云はく、「六波羅蜜は福徳荘厳なり」と。又た云はく、「声聞の人は定力多きが故に、仏性を見ず」と。当に知るべし、定力は即ち是れ福徳、福徳は秖だ是れ有為なり。勝鬘には称して有漏と為す。例せば界内の見思未だ破せざれば、起作ありと為す、故に有為と名く。理を取ること当らず、故に有漏と名く。智慧の法に非ず、故に福徳と名くるが如し。今、下を以て上に望むるに亦応に是の如くなるべし。二乗は未だ変易を破せざれば、猶ほ是れ有為なり、無明未だ脱せず、故に有漏と言ふ。中道智に非ざるが故に福徳と名く。是を以ての故に知んぬ、方便の諸乗は悉く資成の所摂なることを。皆な大乗の一句より偏に出す、究竟の法に非ざるが故に「一仏乗に於て分別して三と説く」と云ふは、即ち此の意なり。亦た是れ一仏乗に於て分別して五と説き、亦是れ分別して七と説き、亦是れ分別して九と説く。若し此の釈に依れば、如来蔵の句より種種の方便、諸の権乗の法を開出するなり。

 [7]次に四教に歴て各三法を論ずるは、三蔵の中には無為の智慧を以て観照軌と名け、正しく乗の体と為す。助道の乗を成ずるの具を資成軌と名く。正助の乗の惑を断じて真に入る、真は是れ真性軌なり。教来つて此を詮す、故に教を以て乗と為すなり。縁覚も亦た爾り。菩薩は無常観を以て観照と為す。功徳の肥ゆるを資成と為し、道場に坐して結を断じて真を見るを真性と為す。此の教は真を詮し、是の教乗に乗じて三界の中より出で、薩婆若の中に到つて住す。言教已に尽く、故に教乗無し。真は運ぶこと能はず、故に証は乗に非ず。故に索車の意あり、云云。

 [8]二に通教は真性軌を以て乗体と為す。何を以ての故に、色に即して是れ空なれば、事の中に理あり、此の理は即ち真なり、故に乗体と為す。即空の慧を以て観照と為し、衆行を資成と為す。此の教は真を詮す。是の教乗に乗じて三界より出で、薩婆若の中に到つて住す。菩薩は三界を出で已つて行を用つて乗と為し、仏国土を浄め衆生を教化す。乃至道場、乃ち住と名くべし。亦是れ教あつて人無く、誰の住する者無し。亦是れ教謝し証寂にして復た運の義無し。亦た索車の意あり、云云。

 [9]三に別教の三法を明さば、縁修の観照を以て乗体と為す。諸行は是れ資成、此の二法を以て縁修の智慧と為す、慧は能く惑を破して理を顕はす、理は惑を破すること能はず。理若し惑を破せば一切衆生悉く理性を具す。何が故に破せざる。若し此の慧を得れば則ち能く惑を破す、故に智を用つて乗体と為す。故に大経に云はく、「無為無漏を菩薩僧と名く」と。即ち是れ一地・二地、乃至十地の智慧を智慧荘厳と名く。此の智慧を以て運んで十地に通ず、故に乗体と為す。然るに摂大乗に三種の乗を明す。理乗・随乗・得乗なり。理とは即ち是れ道前の真如、随とは即ち是れ真如を見る慧、境に随順す。得とは一切の行願熏習して無分別智に熏じ、無分別境に契ひて真如と相応す。此の三意は一往は乃ち三軌に同じく、而して前後未だ融ぜず。何となれば、九識は是れ道後の真如なり、真如は事無し。智行の根本の種子、皆な梨耶識の中にあり、熏習成就して無分別智光を得て、真実性を成ず。是れ則ち理乗は本有、随と得とは今有なり。道後の真如は方に能く物を化す。此れ豈に縦の義に非ざらんや。若し三乗悉く黎耶の為に摂せらるるは又是れ横の義なり。又た冥初に覚を生ずるに濫ず。既に縦、既に横なり、真伊と相ひ乖く。元夫れ如来、初めて出でて便ち実を説かんと欲す。堪へざる者の為に先に無常を以て倒を遣り、次に空・浄を用つて著を蕩かし、次に歴別を用つて心を起し、然して後方に常・楽・我・浄を明す。龍樹は論を作りて仏の此の意を申ぶ。不可得空を以て封著を洗蕩し、一切法空に習応す、是を般若と相応すと名く。此の空豈に無明を空ぜざらんや。無明若し空ならば、種子安んぞ在らん。諸法を浄うし已つて空を点じて法を説くに、四句の相を結せよ。此の語は虚玄なり、亦た住著無し。病除くこと已れば乃ち食を進むべく、食も亦た消化するが如し。那んぞ発頭より阿黎耶に拠つて一切法を出すことを得ん。本の見慢全く自ら未だ降らず。此の新文に封ぜられて長氷に水を添ふるが若し。故に知んぬ、彼の論は末代重著の衆生に逗ずるに非ず。乃ち是れ界外一途の法門のみ。又た阿黎耶若し一切法を具せば、那んぞ道後の真如を具せざるを得ん。若し具すと言はば、那んぞ真如は第八識に非ずと言はん。恐らくは此れ猶ほ是れ方便にして、如来蔵の中より開出するのみ。若し方便ぞ執せば、巨いに真実を妨げん。若し是れ実なる者も、之を執すれば又た語見を成ぜん。多く児に蘇を含ましめば、恐らくは将に命を夭せん、云云。若し能善く破立の意を解すれば、諸の経論に於て浄うして滞著無かん。

 [10]四に円教の三法を明さば、真性軌を以て乗体と為す。偽はらざるを真と名け、改まらざるを性と名く。即ち正因常住なり。諸仏の師とする所とは、此の法を謂ふなり。一切衆生も亦た悉く一乗なれば、衆生即ち涅槃の相なり。復た滅すべからず。涅槃即ち生死にして無滅不生なり。故に大品に云はく、「是の乗は動ぜず出でず」とは、即ち此の乗なり。観照とは、秖だ真性の寂にして而も常に照なるを点ずるに、便ち是れ観照、即ち是れ第一義空なり。資成とは秖だ真性法界を点ずるに、諸行無量の衆具を含蔵す、即ち如来蔵なり。三法一異ならざること、如意珠を点ずる中に、光を論じ宝を論ずるに、光宝と珠と一ならず、珠と異ならずして、縦ならず横ならざるが如く、三法も亦た是の如し。亦は一、亦は非一、亦は非一非非一にして不可思議の三法なり。若し此の三法に迷はば、即ち三障と成る。一には界内・界外の塵沙なり、如来蔵を障ふ。二には通別の見思なり、第一義空を障ふ。三には根本無明なり、第一義の理を障ふ。若し塵沙の障に即して無量の法門に達するは、即ち資成軌顕はるることを得。若し見思の障に即して第一義空に達するは、観照軌顕はるることを得。若し無明の障に即して第一義諦に達するは、真性軌顕はるることを得。真性軌の顕はるることを得るを名けて法身と為し、観照の顕はるることを得るを名けて般若と為し、資成の顕はるることを得るを名けて解脱と為す。此の両は即ち是れ定慧の荘厳なり、法身を荘厳す。法身は是れ乗体、定慧は是れ衆具なり。下の文に云はく、「其の車高広にして衆宝をもつて荘校す」と、是を円教の行人、所乗の乗、薩婆若に到り荼を過ぎて字の説くべき無しと名く。字の説くべき無くんば、亦た乗の運すべきこと無かるべきや。若し自行運し畢れば、乗の義則ち休す。若し権化未だ畢らざれば、他を運すること休まず。故に文に云はく、「仏、自ら大乗に住す、其の得る所の法の如きは定慧の力荘厳し、此を以て衆生を度す」とは、即ち其の義なり。譬へば御者は車を運して達到すれども、猶ほ名けて車と為すが如し。果乗も亦た爾り、猶ほ名けて運と為す。復次に何んぞ必ずしも一向に運の義を以て乗を釈せん。若し真性を取らば、動ぜす出でざれば則ち運に非ず、不運に非ず。若し観照・資成を取らば、能く動じ能く出づるは、則ち名けて運と為す。秖だ動出即ち不動出なれば、不動出に即して是れ動出なり。用に即して而も体を論ずれば、動出是れ不動出なり。体に即して用を論ずれば、不動出に即して是れ動出なり。体用不二にして而も二なるのみ。例せば転・不転皆な阿鞞跋致、動・不動皆な是れ毘尼なるが如し。是の義を以ての故に、発趣・不発趣を皆な名けて乗と為すなり、云云。

 [11]三に麁妙を明さば、三蔵は有為福徳に於て三法を論じて乗と為す。四念処は是れ聞慧、教乗に乗じて四善根に到る。四善根は行乗に乗じて見諦に到る。見諦は証乗に乗じて無学に到る。既に是れ権法なり。三界の外に出でて真を以て証と為す。証するときは則ち運せず。実乗を見ざれば鳴呼して自ら責む。世尊に問はんと欲す、失とせんや不失とせんやと。即ち此の意なり。半字漸く引きて究竟の義に非ず、是の故に三法皆な麁なり。通教は即空の慧、三法を乗と為せば巧みなり。余の意は大いに同じ。乾慧地は教乗に乗じ、性地は行乗に乗じ、八人と見地は証乗に乗ず。此れも亦た偏説なり。是の故に麁と為す。別教は資成を以て観照を資け、観照は真性を開す。三法を乗と為す。十信は教に乗じ、十住は行に乗じ、十地は証に乗じ、妙覚薩婆若の中に到つて住す。縁修成ずれば即ち謝し、唯だ真修のみ在り。若し爾らば資成は前に在り、観照は次に居し、真性は後に在り。此の三豎別なれば縦にして大乗に非ず、此の三並異なれば横にして大乗に非ず。是れ方便の法なり、是の故に麁と為すなり。円教は実相を点じて第一義空と為し、空を名けて縦と為す。第一義空は即ち是れ実相なれば実相は縦ならず。此の空豈に縦ならんや。実相を点じて如来蔵と為し、之を名けて横と為す。如来蔵は即ち実相なれば、実相は横ならず。此の蔵豈に横ならんや。故に縦を以て思ふべからず。横を以て思ふべからず。故に不可思議の法と名く。即ち是れ妙なり。秖だ空・蔵を点じて実相とすれば、空は縦、蔵は横なり、実相那んぞ縦横ならざらん。秖だ空を点じて如来蔵とすれば、空既に横ならず、蔵那んぞ横なることを得ん。如来蔵を点じて空とすれば蔵既に縦ならず、空那んぞ縦なることを得ん。実相を点じて空・蔵とすれば、実相は縦に非ず横に非ず、空・蔵も亦た縦に非ず横に非ず。宛転相即して不可思議なり。故に名けて妙と為す。秖だ如来蔵を点じて広と為し、第一義空を点じて高と為す、故に其の車高広と言ふ。如来蔵は即ち実相なり、故に其の車広に非ず、第一義空即ち実相なり、故に其の車高に非ず。秖だ実相是れ空なり、那んぞ高に非ざることを得ん。秖だ実相是れ如来蔵なり、那んぞ広に非ざることを得ん。又た実相を点じて如来蔵と為す、故に衆宝荘校し、又た僕従多くして之を侍衛すと言ふ。実相を点じて第一義空と為す、故に大白牛あつて肥壮多力、行歩平正にして其の疾きこと風の如しと言ふ。智慧の染無きを名けて白と為し、能く惑を破す、故に多力と名け、中道の慧を平正と名く。無功用に入るが故に、其の疾きこと風の如し。不思議の三法は共に大車と成る。豈に縦横並別の異りあらんや。是の如きの教乗は不縦不横なり、五品の所乗は似解に到る。是の如きの行乗は不縦不横なり。似解の所乗は十住に到る。是の如きの証乗は不縦不横なり、十住の所乗は妙覚薩婆若の中に到つて住す。故に妙乗と名く。又た云はく、「是の乗は微妙にして清浄第一なり」と。故に瓦官の講を建つるに、人夢みらく、聴く者乗に駕し、門に闐ちて出づと。彼の処に講を建つるに、人夢みらく、黄衣路に満つと。相を以て之に測るに邪正明かなり。若し此の麁妙等の乗を将つて五味に約せば、乳教は一麁一妙、酪教は一麁、生蘇は三麁一妙、熟蘇は二麁一妙なり。衆経悉く縦横の方便を帯して、不縦不横の真実を説く、故に言つて麁と為す。今の経は正直に方便を捨つ、故に之に加ふるに妙を以てす、云云。

 [12]四に麁を開して妙を顕はすは、大経の三句に約す。経に言はく、「仏性とは亦た一」とは、一切衆生悉く一乗なるが故なり。此は是れ不動不出の一乗なり、故に三法の不縦不横を具す。夫れ心ある者は、皆な此の理を備ふ。而して其の家の大小は、都べて知る者無し。是の故に麁と為す。今、衆生に諸覚の宝蔵を示し、草穢を耘除して蔵金を開顕す。一切無礙の人は、一道より生死を出づ。十方に諦かに求むるに、更に余乗無く唯だ一仏乗なり。是の故に妙と為す。経に言はく、「仏性は亦た一に非ず非一に非ず」と。数・非数の法、決定せざるか故なり。若し縁修の智慧定んで能く理を顕はすと執せば、慧は自ら理に非ず。則ち照用明かならざれば仏性を見ず。是の故に麁と為す。今、定執の慧を開するに即ち不決定の慧なり。慧に即して而も理、理に即して而も慧なり。数の定三・定一に執著せず、非数の非三・非一に著せず。此の如きは即ち無著の妙慧と名け、能く一切の定相及び不定相を破して、亦た能破・所破無し。輪王の能く破し能く安んずるが如く、日の闇を除き物を生ずるが如き、医の膜を除き珠を養ふが如し。即ち是れ大乗不縦不横の妙慧なり。経に言はく、「仏性も亦た一に非ず、三乗と説くが故に」と。即ち是れ三乗・五乗・七乗等の諸の方便乗なり。若し諸乗に住すれば、但だ是れ事善、及び偏真なり、通入する処近し、是の故に麁と為す。今若し諸乗を決了すれば、即ち是れ如来蔵なり。蔵を仏性と名く。人天の善より乃至別乗まで皆な本法を動ぜざれば、即ち是れ妙に於てす。当に知るべし、三句に一切の法を摂して仏性に非ざること無く、悉く皆な是れ妙なり。麁の待すべき無し、即ち絶待妙なり。

 [13]五に始終を明さば、五品の教乗を取りて始めと為さず。乃ち凡地の一念の心に、十法界、十種の相性を具するを取つて、三法の始めと為す。何となれば、十種の相性は秖だ是れ三軌なり。如是体は即ち真性軌なり、如是性は性は内に拠るを以て即ち是れ観照軌なり、如是相は相は外に拠るを以て即ち是れ福徳、是れ資成軌なり。力は是れ了因、是れ観照軌なり。作は是れ万行の精勤、即ち是れ資成の因とは是れ習因なれば観照に属し、縁は是れ報因なれば資成に属し、果は是れ習果なれば観照に属し、報は是れ習が報なれば資成に属す。本末等は空等は即ち観照、仮等は即ち資成、中等は即ち真性なり。直ちに一界の十如に就いて三軌を論ず。今但だ凡心の一念即ち皆な十法界を具することを明す。一一の界悉く煩悩の性相、悪業の性相、苦道の性相あり、若し無明煩悩の性相あるは、即ち是れ智慧観照の性相なり。何となれば、明に迷ふを以ての故に無明を起す。若し無明を解すれば、即ち是れ明に於てす。大経に云はく、「無明転じて即ち変じて明と為る」と。浄名に云はく、「無明即ち是れ明なり」と。当に知るべし、無明を離れずして而も明あることを。氷は是れ水の如く、水は是れ氷なるが如し。又た凡夫の心の一念に即ち十界を具し、悉く悪業の性相あり。秖だ悪の性相は即ち善の性相なり。悪に由つて善あり、悪を離れて善無し。諸悪を翻ずれば即ち善の資成なり。竹の中に火の性あれども、未だ即ち是れ火の事ならざるか故に、有れども焼けず。縁に遇ひて事成ずれば、即ち能く物を焼くが如し。悪即ち善性なれども、未だ即ち是れ事あらず、縁に遇ひて事を成ずれば、即ち能く悪を翻ず。竹に火あり、火出でて還つて竹を焼くが如し。悪の中に善あり、善成ずれば還つて悪を破す。故に悪の性相に即して是れ善の性相なり。凡夫の一念に皆な十界の識・名色等の苦道の性相あり。此の苦道に迷ひて生死浩然たり。此は是れ法身に迷ひて苦道を為す、苦道を離れて別に法身あるに不ず。南に迷ひて北とするが如き、別の南無きなり。若し生死即ち是れ法身なりと悟れば、故に苦道の性相即ち是れ法身の性相と云ふなり。夫れ心ある者は、皆な三道の性相あり、即ち是れ三軌の性相なり。故に浄名に云はく、「煩悩の儔を如来種と為す」とは、此の謂なり。若し如是力、如是作と言ふは、菩提心発するなり。即ち是れ真性等の萌動するなり。如是因とは、即ち是れ観照の萌動するなり。如是縁とは、即ち是れ資成の萌動するなり。如是果とは観照に由つて萌動して習因を成じ、般若の習果満を感得す。如是報とは資成に由つて萌動して縁因を成じ、解脱の報果満ずるを感得す。果報満ずるが故に、法身も亦た満ず。是を三徳究竟満と為し、秘密蔵と名く。本末等とは、性徳の三軌は冥伏の不縦不横、修徳の三軌は彰顕の不縦不横なり。冥伏の如等・数等・妙等・彰顕の如等・数等・妙等なり。故に等と言ふなり。亦是れ空等・仮等・中等なり、云云。

 [14]六に類通三法とは、前は三軌の法を以て始めより終りに至る、即ち是れ豎に通ずること無礙なり。今は横に諸法に通じて悉く無礙ならしめんと欲して、諸の三法に類通す。何となれば、縁に赴いて名異なれども、意を得れば義同じ。粗ぼ十条に通ずれば、余は領すべし。三道・三識・三仏性・三般若・三菩提・三大乗・三身・三涅槃・三宝・三徳なり。諸の三法無量なれども止だ十を用ふるは、其の大要を挙げて始終を明すのみ。三道の輪迴は生死の本法なり、故に初と為す。若し生死の流に逆らはんと欲せば、須らく三識を解し、三仏性を知り、三智慧を起し、三菩提心を発し、三大乗を行じ、三身を証し、三涅槃を成ずべし。是の三宝は一切を利益し、化縁尽きて三徳に入り、秘密蔵に住す、云云。

 [15]一に類通三道とは、真性軌は即ち苦道、観照軌は即ち煩悩道、資成軌は即ち業道なり。苦道即ち真性とは、下の文に云はく、「世間の相常住」と、豈に彼の生死に即して、而も是れ法身ならざらん耶。煩悩即ち観照とは、観照は本と惑を照す、惑無きときは則ち照無し、一切法空是れなり。文に云はく、「諸法は本より来た常に自ら寂滅の相なり」と。即ち煩悩是れ観照なり。照は薪の火を生ずるが如し、文に云はく、「諸の過去仏に於て、若し一句をも聞くことあれば皆な已に仏道を成ず」と。又た云はく、「深く罪福の相に達すれば、遍く十方を照す」と。即ち是れ煩悩に体達するの妙句を聞くなり。資成即ち業道とは、悪は是れ善の資なり、悪無ければ亦た善も無し。文に云はく、「悪鬼其の心に入りて、我を罵詈毀辱す。我等仏を念ずるが故に皆な当に是の事を忍ぶべし。悪来り加へざれば、念を用ふることを得ず。念を用ふるは悪の加はるに由る」と、云云。又た威音王仏の所の著法の衆は、不軽の言を聞きて罵詈打拍す。悪業に由るが故に還つて不軽に値ふ。不軽、教化するに皆な不退を得。又た提婆達多は是れ善知識なり、豈に悪即ち資成に非ざらんや。三軌即ち三道とは、是れ理性、非道を行じて仏道に通達すと為す。五品は観行に非道を行じて仏道に通達し、六根清浄は出似に非道を行じて仏道に通達し、十住より去りては分真に非道も行じて仏道に通達し、妙覚は究竟に非道を行じて仏道に通達す、云云。

 [16]二に類通三識とは、菴摩羅識は即ち真性軌、阿黎耶識は即ち観照軌、阿陀那識は即ち資成軌なり。若し地人の明さく、阿黎耶は是れ真常浄識なりと。摂大乗の人の云はく、是れ無記無明随眠の識なり。亦た無没識と名け、九識は乃ち浄識と名くと。互ひに諍ふ、云云。今、近に例して遠を況す。一人の心の如き、復何んぞ定まらん。善を為さば則ち善識、悪を為さば則ち悪識、善悪を為さば即ち無記識なり。此の三識、何んぞ頓に水火に同ずべけんや。秖だ善に背くを悪と為し、悪に背くを善と為し、善悪に背くを無記と為す。秖だ是れ一人の三心のみ。三識も亦た応に是の如くなるべし。若し阿黎耶の中に生死の種子ありて、熏習増長して即ち分別識を成ず。若し阿黎耶の中に智慧の種子ありて、聞熏の習増長して即ち依を転じて道後の真如と成るを名けて浄識と為す。若し此の両識に異なるは、秖だ是れ阿黎耶識なり。此れ亦た一法に三を論じ、三の中に一を論ずるのみ。摂論に云はく、「金土染浄の如き、染は六識を譬ヘ、金は浄識を譬へ、土は黎耶識を譬ふ」と。明文茲に在り、何んぞ労はしく苦ろに諍はん。下の文に「譬へば人あり、親友の家に至り、酒に酔ひて臥するが如し」と。豈に阿黎耶識に非ずや。世間の狂惑分別の識起り已つて遊行し、以て衣食を求む。豈に阿陀那識に非ずや。聞熏習の種子稍く起つて増長し、親友に会遇して示すに衣珠を以てするは、豈に菴摩羅識に非ずや。菴摩羅識を無分別智光と名く。若し黎耶の中に此の智の種子あるは、即ち理性の無分別智光なり。五品は観行の無分別智光、六根清浄は相似の無分別智光、初住より去つては分真の無分別智光、妙覚は究竟の無分別智光なり。麁妙は、云云。

 [17]三に類通三仏性とは、真性軌は即ち是れ正因の性、観照軌は即ち是れ了因の性、資性軌は即ち是れ縁因の性なり。故に下の文に云はく、「汝は実に我子、我は実に汝が父なり」と、即ち正因の性なり。又た云はく、「我れ昔し汝に無上道を教ふるが故に、一切の智願猶ほ在りて失せず」と、智は即ち了因の性、願は即ち縁因の性なり。又た云はく、「我れ敢て汝等を軽んぜず、汝等は皆当に作仏すべし」と、即ち正因の性なり。是の時に四衆、衆経を読誦するを以て即ち了因の性なり。諸の功徳を修するは即ち縁因の性なり。又た云はく、「長者の諸子、若は十・二十乃至三十」と、此れ即ち三種の仏性なり。又た云はく、「種種の性相の義、我已に悉く知見す」と、既に種種の性と言ふ、即ち三種の仏性あるなり。若し三軌即ち三仏性と知るは、是を理仏性と名く。五品は観行に仏性を見、六根は相似に仏性を見、十住より等覚に至るまで分真に仏性を見、妙覚は究竟に仏性を見る。是の故に妙と称す、云云。

 [18]四に類通三般若とは、真性は是れ実相般若。観照は是れ観照般若、資成は是れ文字般若なり。具さには上に境・智・行の三妙の相を釈するが如し。故に下の文に云はく、「止みなん、止みなん、説くべからず、我が法は妙にして思ひ難し」と、又た云はく、「是の法は示すべからず、言辞の相寂滅す」と、即ち実相般若なり。「我れ及び十方の仏、乃ち能く是の相を知る。唯だ仏と仏とのみ乃ち能く究尽す」と、又た云はく、「我が得る所の智慧は微妙最第一なり」と、即ち観照般若なり。又た云はく、「我れ常に衆生の行道・不行道を知り、随つて度すべき所に応じて為に種種の法を説く、若干の言辞、随宜方便」と、即ち是れ文字般若なり。又た云はく、「如来の知見は広大深遠なり」と。広大深遠は即ち実相般若なり、如来の知見は広大深遠に称ふ、即ち観照般若なり。若し「方便知見、皆な已に具足す」と言ふは、即ち文字般若なり。故に知んぬ、三軌は亦た三般若の異名なるのみ。若し三智の三心に在るを三人に属するは、是れ則ち麁と為す。三智一心の中に在りて不縦不横なるは、是れ則ち理妙なり。五品は観行の三般若、六根浄は相似の三般若、四十心は分真の三般若、妙覚は究竟の三般若なり。

 [19]五に類通三菩提とは、真性軌は即ち実相菩提、観照軌は実智菩提、資成軌は方便菩提なり。故に下の文に云はく、「我れ先に言はずや、汝等、皆な阿耨三菩提を得。非実・非虚・非如・非異なり、三界の如く三界を見ず」と、即ち実相菩提なり。「我れ成道してより已来た甚大久遠なり」と、即ち実智菩提なり。「我れ説く、少くして出家し、伽耶城に近く、三菩提を得」と、即ち方便菩提なり。若し弟子に就て三菩提を明さば、「若し我れ衆生に遇はば、尽く教ふるに仏道を以てす」とは、即ち実相菩提なり。「実智の中に安住して我定んで応に作仏すべし」と。又た云はく、「仏子、道を行じ已つて来世に作仏することを得ん、是の宝乗に乗じて直ちに道場に至る」とは、即ち是れ修成の実智菩提なり。八相の記を授くるは、即ち方便菩提なり。一異ならざるは、之を名けて如と為す。決了せざるを麁と名け、決了するを名けて妙と為す。一切衆生は理性の菩提、五品は名字の菩提、六根は相似の菩提、四十一位は分真の菩提、妙覚は究竟の菩提なり、云云。

 [20]六に類通三大乗とは、真性は即ち理乗、観照は即ち随乗、資成は即ち得乗なり。故に下の文に云はく、「仏、自ら大乗に住す、其の所得の法の如きは定慧の力をもつて荘厳す」と、住大乗は即ち理乗、定慧荘厳は即ち随乗、所得法は即ち得乗なり。仏自住大乗は是れ理乗、於道場知己は是れ随乗、導師方便説は是れ得乗なり。又た舎利弗、本願を以ての故に三乗の法を説くとは、是れ得乗と随乗なり。又た是の乗微妙、清浄第一とは、是れ理乗なり。於一仏乗は是れ理乗、分別説三は是れ得乗と随乗なり。不縦不横の妙は開麁の妙なり、七位を歴、云云。五品は名字の乗、六根は相似の乗、四十一位は分真の乗、妙覚は究竟の乗なり、云云。

 [21]七に類通三身とは、真性軌は即ち法身、観照は即ち報身、資成は即ち応身なり。若し新金光明に云はく、「法身に依つて報身あることを得、報身に依つて応身あることを得」と、此れ即ち前に明ず所の如く、境妙に依つて智妙あることを得、智妙に依つて行妙あることを得るなり。彼の文に云はく、「仏の真法身は猶ほ虚空の如し、物に応じて形を現ずること水中の月の如し」と、報身は即ち天月なり。此の文に云はく、「仏、自ら大乗に住す」とは、即ち是れ実相の身、虚空の如きなり、「定慧の力荘厳」とは、慧は天月の如く、定は水月の如し。又た云はく、「唯だ仏と仏とのみ、乃し能く諸法実相を究尽す」とは、即ち是れ法身なり。「我が所得の智慧は微妙最第一」とは、即ち是れ報身なり。「名称普く聞ゆ」とは、即ち是れ応身なり。又た「生に非ずして生を現ず」等とは、是れ応身なり。「或は己身を示す」とは、即ち法身と報身なり。「或は他身を示す」とは、報・応なり。「我れ荘厳身を以て光明十方を照し、為に実相印を説く」とは、実相印は即ち法身、照十方は即ち応身、相厳身は即ち報身なり。又た「深く罪福の相に達し、遍く十方を照す」とは、即ち報身なり。「微妙浄法身」とは、即ち法身なり、相三十二を具す」とは即ち応身なり。三軌の名異なれども、義は即ち三身なり。故に普賢観に云はく、「仏の三種の身は、方等より生ず」と。法界性論に云はく、「水銀は真金に和して能く諸の色像を塗る」と。功徳は法身に和して処処に応現して往く。若し此の三身は不縦不横の妙なり。三身は決了して法身妙に入つて、七位の妙を歴るなり、云云。

 [22]八に類通三涅槃とは、地人の言はく、但だ性浄・方便浄のみあり、実相を名けて性浄涅槃と為し、修因所成を方便浄涅槃と為すと。今、理性を以て性浄涅槃と為し、修因所成を円浄涅槃と為す。此れ則ち義の便なり。薪尽き火滅するを方便浄涅槃と為す。此れ文の便なり。若し修因所成を将つて、方便涅槃と為さば、薪尽き火滅するを以て何等の涅槃と為さん。故に知んぬ、応に三涅槃あるべし。三涅槃は即ち是れ三軌なり。文に云はく、「是の法は示すべからず、言辞の相寂滅す」と。又た云はく、「諸法は本より来た、常に自ら寂滅の相なり」と、是れ性浄涅槃なり。又た云はく、「皆な如来の滅度を以て之を滅度す」と、即ち円浄涅槃なり。又た云はく、「我れ成仏してより已来た甚大久遠なり。久修業の得る所の慧光照すこと無量なり」と。亦た是れ円浄涅槃なり。「数数生を唱へ、処処に滅を現ず。此の夜に於て滅度するは、薪尽き火滅するが如し」と、豈に方便浄涅槃に非ずや。大経の題に大般涅槃と称するは、翻じて大滅度と為す。大とは其の性広博、即ち性浄に拠る。度とは彼岸に到る、智慧満足す、即ち円浄に拠る。滅とは煩悩永く尽きて断徳成就す、即ち方便浄に拠る。此の三涅槃は即ち是れ三軌なり。

 [23]九に類通一体三宝とは、真性は即ち法宝、観照は即ち仏宝、資成は即ち僧宝なり。故に法性動ぜざるを不覚と名く。仏智は理に契ふ故に、仏を名けて覚と為す。事和し理和す、故に僧を和合と名く。思益に云はく、「覚を知るを名けて仏と為し、離を知るを名けて法と為し、無を知るを名けて僧と為す」と、此は是れ一体の三宝なり。故に下の文に云はく、「仏、自ら大乗に住す」とは、仏は是れ仏宝、大乗は是れ法宝なり。「其の所得の法の如く、此を以て衆生を度す」とは、即ち是れ理と和す。復た衆生と和するは、即ち是れ僧宝なり。「世間相常住」は法宝と名け、「於道場知已」は仏宝と名け、「導師方便説」は上は理と和し、下は衆生と和するを、僧宝と名く。一体三宝は、非一の一、不三の三なり。此の三一は不縦不横なり、之を称して妙と為す。七位を歴るは、云云。

 [24]十に類通三徳とは、大経の三徳は共に大涅槃を成ず。此の経の三軌は共に大乗を成ず。彼は法身の徳を明す、此は実相と云ふ。彼に仏性と云ふは亦は一なり。「一切衆生、悉く一乗なるが故なり」と。亦た是れ実相を指して一乗と為す。彼の処には般若の徳を明し、此の経には其智慧門難解難入と。我が所得の智慧は微妙最第一なりと、乃至、声聞法を決了するに是れ諸経の王なりと明す。皆な是れ般若なり、彼の経には解脱の徳を明し、此の経は数数示現して、生を現じ滅を現ずることを明す。衆生を調伏する所の処に随つて自ら既に累無く、他をして解脱せしめ、乃至万善の事の中の功徳を収取して悉く果を証することを得と。豈に解脱に非ずや。二経の義合せり。碌碌の徒は名に随つて異解す、天帝を聞きて憍尸を識らざるに譬ふ。唯だ涅槃仏性の文を知りて、双樹に一乗あるの旨を見ず。彼の文親しく仏性亦た一なり、一は即ち一乗なりと説く。而して人云はく、此れ乃ち涅槃の一乗は是れ仏性、法華の一乗は仏性に非ずと。若し法華に仏性を明さずと言はば、涅槃に遙かに指して八千の声聞、法華の中に於て記莂を受くることを得て、秋収冬蔵するが如く、如来性を見て更に所作無しと云ふべからず。而して人云はく、涅槃に遙指の文あるも、此の中には仏性の語無しと。今、此の文に拠るに、「種種の性相の義は我れ皆な已に見る」と、既に種種と言ふ、何んぞ独り仏性を簡ばん耶。又た「世間の相は常住なり、道場に於て知り已つて導師方便して説く」と、豈に仏性の文に非ざらん耶。論に仏性の水と言ひ、常不軽は衆生に仏性あることを知ると。又た涅槃の三徳を秘密蔵と為し、諸子を秘密蔵の中に安置して、我も亦た久しからずして当に其の中に入るべし」と。此れ即ち自他倶に秘密に入る。此の経に云はく、「仏、自ら大乗に住し、此を以て衆生を度す、終に小乗を以て諸の衆生を済度せず、悉く如来の滅度を以て之を滅度す」と。是の如く自他倶に如来の滅度に入る。滅度は秖だ是れ涅槃、涅槃は秖だ是れ秘蔵なり。釈論に云はく、「法華を秘蔵と為す」と。両経の文義、宛宛として恒に同じ。何が故に諸人は苟くも異を抗せんと欲するや。若し文義舛隔するに、同の想ひを作すは罪無し。今は文義本と合するに、之を離するは何の福ぞ。但だ涅槃は仏性を以て宗と為すも、一乗の義を明さざるに非ず。今の経は一乗を以て宗とすれども、仏性の義を明さざるに非ず。機に赴きて異説するも、其の義常に通ず。若し三徳縦横なるは即ち是れ麁、不縦不横なるは即ち是れ妙なり。七位を歴るは、云云。

 [25]七に悉檀料簡とは、問ふ、十種の三法及び余の一切は、皆な是れ三軌ならば、唯だ応に三軌のみなるべし。何の意ぞ異説する。答ふ、衆生の機宜不同なれば、機に随つて設逗して悉檀の方便引接すべき耳。俗に随ふが故に異なり、便宜に称ふが故に異なり、対治を逐ふが故に異なり、人をして道に入らしむるが故に異なり。朝三暮四、衆狙を撫して皆な悦ばしむ。苦を塗り水に洗ひて嬰児を養ひ、以て時に適ふ。善巧に機に赴く故に方円を物に任す。千車の轍を同じうするに譬ふ、豈に一を守つて諸を疑はんや。今通じて四悉檀を用ひて、十法を歴て妙・不妙を論ず。具さに三軌を説いて共じて大乗を成ず。大乗の中備さに三法及び一切法ありて、相ひ混乱せざるは即ち是れ世界悉檀なり。資成は資けて智慧を発し以て善を生ずるが故に、是れ為人悉檀なり。観照は惑を破し諸の悪滅するが故に、是れ対治悉檀なり。真性の実理を第一義悉檀と為す。一段の衆生、宜しく大乗の名を以て説くに、四の利益を得べきなり。備さに三徳を説きて大涅槃と為す。三点と雖も上下にして、而も縦無く、表裏にして而も横無く、一にして相ひ混ぜず、三にして相ひ離れず、即ち世界悉檀なり。善は則ち殃釁干さず、故に累の表に挺然たることを得、是の故に解脱は即ち為人悉檀なり。般若は金剛の如く、擬する所に随つて皆な砕く。即ち是れ対治悉檀なり。法身は即ち第一義なり。一段の衆生、三徳の名を聞けば、即ち四の利を獲。初を挙げ後を挙ぐれば、中間例して然り。次に妙・不妙を明さば、論に云はく、「三悉檀は是れ世諦にして、心所行の処なれば破すべく壊すべし。第一義悉檀は是れ心不行の処、諸仏聖人の心に得る所の法なれば破壊すべからず」と、即ち是れ真諦なり。若し然らば此の四悉檀は、二諦の為に摂せらる。更に中道あり、云何んぞ摂せん。若し中を摂せずんば、但だ是れ蔵・通の意なれば、此の悉檀を麁と為す。今、俗は有、真は無と言はば、是れ隔異の法なり。便ち是れ三悉檀心所行の処なり、破すべく壊すべし。中道第一義は有に非ず無に非ず、有無不二にして則ち隔異無し。無異は即ち真諦なり。前の三悉檀の通ずる所は、止だ化城に至る。化城は実に非ざるが故に破すべく壊すべし。壊すべきを麁と為す。今の中道は異無ければ、又た通じて宝所に至る。能く過ぐること無く、能く滅すること無し。故に壊すべからず。之を称して妙と為す。若し余経に中道第一義悉檀を説くは、此の経と殊ならず。但だ余経は阿羅漢の所得を帯して第一義悉檀と為す、故に妙と称せず。此の経は正直に方便を捨てて、但だ円実の四悉檀のみあり、是の故に妙と為す。若し三悉檀を決して第一義に入れずんば、是れ復た麁と為す。若し一一の悉檀、皆な第一義ありと決するは是れ則ち妙と為す。五品弟子は仮名の四悉檀、六根浄は相似の四悉檀、初住より等覚に至つては分真の四悉檀、妙覚は究竟の四悉檀なり。是の故に妙と称す。此の五番に妙を明す。因より果に至りて以て自行の妙を辨ず。半如意珠竟んぬ。