◎寿量品を釈す。

 [1]先に異解を出さん、叡師の序に云く、寿無量劫は未だ以て其久しきを明すに足らず、分身無数も以て其体を異にするに足らず、然れば則ち寿量は其非数を定め、分身は其不異を明す、普賢は其無成を顕はし、多宝は其不滅を明すのみと。

 [2]河西の道朗の云く、法身は真化と異ならず、存没の理一なることを明す、多宝の現ずるは、法身の常に存することを明す、寿量は大虚と量を斉しくすることを明すと。

 [3]道場観の云く、三を会して一に帰するは乗の始めなり、滅影澄神は、乗の終なり、減影は、迹を息むるを謂ひ、澄神は則ち本を明す、故に迹は無常にして而して本は常なりと。」

 [4]注者の云く、存亡の数に非るを寿と曰ひ、修夭の限に出るを量と称す、法身は形年の摂する所に非ず、大士をして践極の照を修せしむ、伽耶を以て成仏と為して百年を期頤と為さゞるなりと。

 [5]竺道生の云く、其色身の仏は、応現して而も有り、実形有ること無し、既に形実ならず、豈に寿有らんや、然れば則ち、万形は致を同うし、古今一たり、古も亦今なり、今も亦古なり、時として有らざること無く、処として在らざること無し、若し時として有らざること有り、処として在らざること有らば、衆生に於て然るのみ、仏は爾らざるなり。是を以て極めて長寿を譚じて伽耶是なりと云ふなり、伽耶是なれば復伽耶に非ず、伽耶既に非なり、彼長何ぞ独り是ならんや、長短斯に亡じ、長短恒に存すと。

 [6]前代の匠は、向に説く所の如し、多く無量に約して常を明す、近世の人師は多く寿は是れ量法にして前は恒沙に過ぎ、後は上数に倍す、終に限極に帰して而して無常を明すと云ふ。

 [7]又惑ふ者は、品は寿量を明し、量は是れ無常なり、那ぞ常の解を作さんと執す。

 [8]今為めに之に答へん、品は直に寿量と道て、寿に量有りと道はず、寿に量無しと道はず。爾は無常と作し、他は常の解を作す、此れ復何の咎かあらん。

 [9]鷸蚌相扼ぐ、我れ其弊に乗ず、応に四解を具すべし、謂く実に有量にして而して無量と言ふは、弥陀是れなり、実に無量にして而して量と言ふは、此品及び金光明の如き是れなり、実に無量にして而して無量と言ふは涅槃に唯仏と仏とのみ其寿無量なりと云ふ是れなり、実に有量にして而して量と言ふは、八十にして滅を唱ふるが如き是れなり。品の文具に此義有り、豈に一を是として而して三を非す可んや。

 [10]問ふ、若し寿量に常を明すときは涅槃と何の異ある。今之を反質す、法華の一乗と勝鬘の一乗と何の異かある云云。若し分別して答へば、法華は略して常を明し、涅槃は広く常を明す、勝鬘は一の為めに一を明す、法華は三を会して一を明す云云。

 [11]問ふ、近成は是れ方便、遠成は是れ真実ならば、華厳の寂滅道場、大経の超前九劫は皆方便と成る。若し爾らば、法華は遠を開し竟る、常不軽那ぞ更に近き、当に知るべし、法華已に復方便なることを。若し爾らば、三を会して一に帰し竟らば亦応に三を会して一に帰せざるべし、若し爾らば、開三顕一は諸仏の道同じく、開近顕遠も亦諸仏の道同じからん。若し爾らば、諸仏皆爾り、独り釈迦のみに非ざらん、若し独り釈迦のみたらば、前の諸義は壊せん。答へて云く、是れ我が方便にして諸仏も亦然り。又諸の菩薩は寿量を聞て発願す、願くは我れ未来に於て寿を説んことも亦是の如くならん。此れ即ち諸仏の道同じきなり。亦偏へに一近一遠と言はず、故に知ぬ、無始無終無近無遠に寄せて法身の常住を顕はし、有始有終有近有遠もて其応迹を論ずることを。此義を用ひて諸経に望むるに、対縁異りと雖も、終に異らざるなり、既に衆経を了す、諸師を師とす可らずと。

 [12]問ふ、義もて推するに常は然る可し、文に徴して何なる拠がある。答ふ、 明者は其理を貴び、暗者は其文を守る、但だ詮を尋ねて宗に会す、是れ教の正意なり、苟も糟糠を執し橋を問はゞ何ぞ益あらん、又教は本と縁の為めにす、縁異なれば説異なり、或は欣に随ひ宜に随ひ、治に随ひ悟に随ふ、悟れば則ち達到するのみ、那ぞ更に阡陌に盤桓して何にかせん、故に泥洹の真の法宝は衆生種々の門より入ると云ふはの此謂なり。又文に多少有り、涅槃は未来の常住を以て宗と為す、其文則ち多し、過去の久成を以て宗と為さざれば其文則ち少し、若し多に随て少を棄てば、則ち是れ魔説にして仏説に非るなり。此経は過去の久成を以て宗と為せば、點塵もて界を数ふること其文則ち多し、未来の常住は其文則ち少し。若し多に従て、少を棄てば、頭破れて七分と作ること阿梨樹の枝の如くならん、譬へば天子の勅は若しは多若しは少、倶に違す可らず、之に違すれば罪を得ん。方便品に云く、世間の相常住なり、道場に於て知しめし已て、導師は方便して説きたまはんと此文即ち未来常住不滅なり。又云く、我れ常に此に住すと。又云く、常に霊鷲山及び余の諸の住処に在りと。普賢観に云く、常波羅蜜に摂成せらるる処なり、我波羅蜜に安立せらるる処なりと、此の如きの常の文も亦復少からず、又此経の処々に法身を明す、法身豈に常ならずや。

 [13]問ふ、既に法身を明す、応に三徳を論ずべし。答ふ、権実の二智は豈に般若に非ずや、三世の示現は豈に解脱に非ずや、実相の本地は即ち是れ法身なり、三徳の明文、此の若しと為すなり。

 [14]品を釈せば、如来とは十方三世の諸仏二仏三仏本仏迹仏の通号なり。

 [15]寿量とは詮量なり、十方三世の二仏三仏本仏迹仏の功徳を詮量するなり。今正しく本地三仏の功徳を詮量す、故に如来寿量品と言ふなり。

 [16]如来の義甚だ多し、且らく二三の如来を明す、余は例して解す可し。

 [17]二如来とは、成論に云く、如実の道に乗じ来て正覚を成ず、故に如来と名くと。

 [18]乗は是れ法如々の智、実は是れ法如々の境、道は是れ因、覚は是れ果なり、若し単に乗を論ぜば、如々にして所知無し、単に実を明さば、如々にして能知無し、境と智と和合すれば、則ち因果有り、境を照して未だ窮らざるを因と名く、源を尽くすを果と為す。道と覚の義成ず。即ち是れ如実の道に乗じ、来て正覚を成ずるなり、此れ真身の如来なり。

 [19]如実の智を以て如実の道に乗じて三有に来生して正覚を成ずることを示すは、即ち応身の如来なり。

 [20]三如来とは、大論に云く、法相の如く解し、法相の如く説く、故に如来と名くと。

 [21]如とは法如々の境は非因非果にして、有仏無仏、性相常然なり、一切処に遍じて而して異り有ること無きを如と為し、動ぜずして而して至るを来と為す、此れを指して法身如来と為すなり。

 [22] 法如々の智もて如々真実の道に乗じて来て妙覚を成ずるに、智は如の理に称ふ、理に従て如と名く、智に従て来と名くるは即ち報身の如来なり、故に論に云く、法相の如く解す故に如来と名くるなりと。

 [23]如々の境と智と合するを以ての故に、即ち能く処々に正覚を成ずることを示す。水銀は真金に和して能く諸の色の像を塗る、功徳は法身と和して処々に応現して往く。八相成道して妙法輪を転ずるは、即ち応身の如来なり、故に論に云く、法相の如く説く故に如来と名くるなりと。

 [24]法身の如来を毘盧遮那と名く、此には遍一切処と翻ず、報身の如来を盧舎那と名く、此に浄満と翻ず、
応身の如来を釈迦文と名く、此に度沃焦と翻ず。

 [25]是三如来は若し単に取らば則ち不可なり。

 [26]大経に云く、法身も亦非、般若も亦非、解脱も亦非、三法具足するを秘密蔵と称し、大涅槃と名くと、一異縦横並に別なる可らず、円に三法を覧て仮名の如来に称ふなり。

 [27]梵網経は華厳教を結成す、華台を本と為し、華葉を末と為す、別して一縁の為めに此の如きの説を作す、而して本末相離るゝことを得ず。像法決疑経は涅槃を結成す。文に云く、或は釈迦を見て毘盧遮那と為し、或は盧舎那と為すと、蓋し前縁異見にして、仏の三なるに非るなり。普賢観は法華を結成す、文に云く、釈迦牟尼を毘盧遮那と名くと、乃ち是れ異名にして別体なるに非るなり。

 [28]衆経の意を総ぶるに、当に知るべし、三仏は一異に非ること明けし。

 [29]問ふ、此品に三の仏名無し、那ぞ此釈を作す。答ふ、名を標せずと雖も、而も其義を具す。文に云く、非如非異非如三界見於三界と、此れ偏如に非ずして円如を顕はす、即ち法身如来の義なり。又云く、如来如実知見三界之相と、即ち是れ如々の智、如々の境に称ふ。一切種智は知なり、見は即ち仏眼なり、此れは是れ報身如来の義なり。又云く、或示己身己事、或示他身他事と此れ即ち応身如来の義なり。

 [30]若し但だ性徳の三如来ならば是れ横但だ修徳の三如来たらば是れ縦なり、先に法、次に報、後に応なるは、亦是れ縦なり。

 [31]今経は円に不縦不扠の三如来を説くなり。

 [32]縦横の如来を揀ぶこと、尚今の義に非ず、況んや三蔵通教の如来をや。

 [33]又法華の前にも亦円の如来を明すは、同じく是れ迹中の所説のみ。発迹顕本の三如来は、永く諸経に異る。

 [34]論に云く、成大菩提無上を示現するが故に三種の菩提を示す、一に応化の菩提とは随所に応現して即ち為めに示現す、経の出釈氏宮の如くなる故なり。二に報仏の菩提とは十地満足して常涅槃を得、経の我実成仏已来無量無辺劫の如くなる故なり。三に法仏の菩提とは如来蔵性浄涅槃不変を謂ふ、経の如来如実知見三界之相の如くなる故なりと。経に其義を具し、論に其名を出す、上の釈を作らずんば、寧ぞ経論を会せんや。

 [35]次に寿量を明さば、寿とは受の義なり、真如は諸法を隔てず、故に名けて受と為す。又境と智と相応す、故に受と名く。又一期の報得は百年にも断ぜず、故に受と名く。

 [36]量とは詮量なり。

 [37]量の字は則ち通ず、的しく別に拠ること無し、法如来は如の理を以て命と為し、報如来は智慧を以て命と為す、応如来は同縁の理を命と為すことを詮量す。

 [38]諸命の若しは有量、若しは無量、若しは非量非無量を詮量す。

 [39]法身如来の如理の命は、有仏無仏性相常然なり、相応と不相続とを論ぜず、亦有量及び無量無し。文に云く、如に非ず、異に非ず、虚に非ず、実に非ずと、蓋し是れ法身如理の命を詮量するなり。

 [40]報身如来を詮量すれば、如々智を以て如々の境に契ふ、境が智を発するを報と為し、智が境に冥するを受と為す、境は、既に無量無辺常住不滅なれば、智も亦是の如し、函大なれば蓋大なり、文に云く、我が智力は是の如し、久しく業を修して得る所なり、慧光照すこと無量にして、寿命無数劫なりと、此れは是れ報身如来の智慧の命を詮量するなり。

 [41]応身を詮量するとは、応身は縁に同ず、縁長ければ長きに同じ、縁促なれば促に同ず。云云は彼れよりす、我れに於て何かせん。文に云く、数々生を現じ、数々滅を現ず、或は復自ら名字不同、年紀の大小を説くと、此れは是れ応仏の同縁の命を詮量するなり。

 [42]復次に法身は量に非ず無量に非ず、報身は金剛の前は有量、金剛の後は無量、応身は縁に随ふは則ち有量、応用の断ぜざるは則ち無量なり、通途に詮量するに、三句は聖に在り一句は凡に属す、有量無常は都て仏の義に非ず。

 [43]旧来の所説は乃ち是れ増減の両謗にして誣を仏に加ふ、魔に非ずして是れ何ぞや。

 [44]四句をもて詮量するに。其義已に顕はる、未だ解せざる者の為めに、更に常等の四句もて料簡せん、先に別して作り、次に通じて作る。

 [45]別とは常に非ず、無常に非ず、双非の理極まるは即ち法身なり。

 [46]常とは即ち報身なり、報の智と境と合するも亦常に非ず、無常に非ず、但だ正智の円満して不生不滅なるを取る、金剛心の前に過ぐるが故に、常を取て報身と為すのみ。

 [47]亦宮亦無常は応身なり、応用の尽くること無きを亦常と為す、数々涅槃を唱ふるを亦無常と名く。

 [48]無常とは金剛心の已前に智用増進し、乃至凡夫の生滅出没するは、皆是れ無常なり。

 [49]三仏各々一句、凡夫は共に一句なるは、此れ別教に約して別して分別するなり。

 [50]通途に円もて説かば、一々の如来は悉く四句を備へたまふ。法身の四とは、常に非ず、無常に非ず、双て凡聖の八倒を破する故なり、常とは虚空の如く常なる故に、無常とは凡夫の生滅の倒無きが故に、亦常亦無常とは、寂にして而も双照するが故なり。

 [51]報身の四とは、非常非無常とは、智の境に冥するが故なり、常とは二乗に出過するが故なり、無常とは生滅の倒無きが故なり、亦常亦無常とは、能く双照するが故なり。

 [52]応身の四とは、非常非無常とは、報に非ず生死に非ざるが故なり、常とは常に応同するが故なり、無常とは無常に同ずるが故なり、亦常亦無常とは、両存の故なり。

 [53]凡夫は既に無常の一句を得、通途に亦四句を作るも、但だ性徳の理のみ有て、尚四句の名字無し、況んや行用をや、意を以て得可し、説を俟たざるなり。

 [54]一身即ち是三身にして、一ならず異ならず、当に知るべし、一仏身は即ち諸身寿命の功徳を具す。

 [55]縁の感見に随て長短不同なり。大経に云く、凡夫二乗の仏の寿命を見たてまつること、猶冬日の如し、菩薩の見たてまつる所は猶春日の如し、唯仏のみ仏の寿命無量を見ること猶夏日の如しと、然る所以は、凡夫博地は翳障朦朧たり、蔵通の二乗は四住を断ずと雖も中道を見ず、若し分段を捨てゝ法性身を受くるも、未だ無明を破せず、彼土に奉ずる所は猶ほ是れ勝応なり、当に知るべし。二乗は秖だ冬日を見るのみなることを。若し諸の菩薩の未だ地住に登らざるは所見前に同じ、若し無明を破し乃至分の法身を受くるは、与へて而も語を為さば、報身の寿命を見ることを得、奪て而も語を為さば猶ほ是れ勝応なり、未だ報身の源を窮めず、未だ法性の極を尽さず、所見の仏の寿猶ほ是れ春日のごとし、唯仏と仏とのみ、性を窮め源を尽せば、法身の寿を見ること猶ほ夏日の如し。大経に三譬を挙げて之を譬ふ、諸の常の中に於て虚空は第一なり、一切の寿命のなかには如来第一なり、此れは法身の寿命は無始無終性相凝湛にして応報に同じからざるを譬ふるなり。二の譬は、四河皆大海に帰するが如し。此れは報身の所修の万善は皆仏の報の寿命の海中に感ずるを譬ふるなり。三に阿耨達池は四の大河を出す、此れは応身の寿命は法報より出で、他の長短に同ずるを譬ふるなり。

 [56]此品の詮量は、通じて三身を明す、若し別意に従はば、正しく報身に在り、何を以ての故に、義便に文会す、義便とは、報身の智慧は上に冥じ下に契ふて三身宛足す、故に義便と言ふ。文会とは、我れ成仏してより已来甚だ大に久遠なるが故に、能く三世に衆生を利益したまふと、所成は即ち法身、能成は即ち報身、法と報と合するが故に、能く物を益す、故に文会と言ふ。此れを以て之を推すに、正意は是れ報身仏の功徳を論ずるなり。

 [57]復次に是の如きの三身の種々の功徳は、悉く是れ本時の道場の樹下に先に久しく成就するところにして、之を名けて本と為す、中間・今日寂滅道場に成就する所の者、之を名けて迹と為す。

 [58]諸経に説く所の本迹は、即ち寂滅道場所成の法報を本と為す、本より起す所の勝劣の両応を迹と為す、今経に明す所は、寂場及び中間所成の三身を取て、皆名けて迹と為す、本昔の道場に得る所の三身を取て、之を名けて本と為す、故に諸経と異と為すなり。

 [59]本に非れば以て迹を垂るゝこと無く、迹に非れば以て本を顕はすこと無し。

 [60]本迹殊なりと雖も不思議一なり。

 [61]肇師の言は意は寂場の本に在るのみ。

 [62]復次に寂場の本迹復多種有り、或は涅槃を以て本と為し、真より応を起すを迹と為す、迹と本と倶に空にして、言思双断す、故に不思議一なり。

 [63]或は俗を以て本と為し、俗より応を起すを迹と為す、迹と本と深広にして、下地は辺涯を言思すること能はず、故に不可思議一と言ふなり。或は中を以て本と為し、中より応を起すを迹と為す、迹と本と皆言語道断、心行処滅す、故に不思議一なりと言ふなり。

 [64]復次に此三は三に非ず、亦復一に非ず、三に非ず一に非るを本と為し、而も三而も一なるを迹と為す、皆言語の道断へ、心行処滅し、不思議一なり。

 [65]未だ知らず、諸師何処の本迹を指して不思議一とするかを。

 [66]今四番を摂褻するに、皆是れ迹中の不思議一なるのみ、遠く本地の三番四番の不可思議を指して以て其本と為す、箇の本より而して迹を垂れ、箇の迹を将て而して本を顕はす、本迹殊なりと雖も不思議一なり。此の如きの本迹、何ぞ衆経に異らざるを得ん、何ぞ諸師に異らざるを得ん。

 [67]問ふ、諸経に各々位行を説くこと、或は多或は少なり、華厳の四十一位、瓔珞の五十二位は名義皆広し、此経の始末都て此事無し、云何ぞ異と言はん。答ふ、譬へば世人の種々の業を修し、種々の宝を集め、種々の位を求るが如し、若し寿命無くんば財位を用ふることをせんや。大経に云く、譬へば長者一子を生育す、相師之を占ふに短寿の相有り、紹継に任へず、父母知り已て之を忽にすること草の如くするが如し、法門亦爾り、種々の因を行じ種々の果を獲、種々の通を現じ、種々の衆を化し、種々の法を説き、種々の人を度すは、総じて如来の寿命海中に在り、海中の要は法性と智と応なり、喉襟目蒵、異に非ずして是れ何ぞ。

 [68]広く近を開して遠を顕はす、文二と為す、先に誡信、次に正答なり、仏旨は誡を論じたまひ、衆の受くるを信と為す、此文に三誡と三請、重請と重誡と有り、迹門の三請一誡と此中の四請四誡と前後合して五誡七請なり、奇特の大事なれば、殷勤鄭重なり。

 [69]誠は是れ忠誠、諦は是れ審実なり、物を欺かざるの言は則ち真に詣る、昔の七方便は随他意語にして、誠実を告ぐるに非ず、今は随自意語にして、之を示すに要を以てす、故に誠諦と言ふ。菩薩既に誠誡を奉ず、敢て疑を致さず、聞かば必らず信を取り、誠言を信受するなり。

 [70]正答に長行と偈頌有り、長行二と為す、法説と譬説となり、法説二と為す、一に三世の益物、二に総じて不虚を結す。近情は唯現在の八十を見て、過去の無央、未来の不滅を知らず、故に三世に約して開近顕遠す、此の如きの利益は、独り我れのみ然るに非ず、諸仏亦爾り、故に総じて不虚を結するなり。法説の中には未来の語少し、譬説と偈の中には文多し云云。過去の益物の文二と為す、一に如来秘密より下は執近の情を出す、二に然善男子より下は近を破して遠を顕はす、初に又三あり、一に所迷の法を出す、二に能迷の衆を出す、三に遠に迷ふの謂を出す。

 [71]秘密とは、 一身即ち三身なるを名けて秘と為す、三身即ち一身なるを名けて密と為す、又昔説かざる所を名けて秘と為し、唯仏のみ自知するを名けて密と為す。神通之力とは三身の用なり、神は是れ天然不動の理、即ち法性身なり、通は是れ無壅不思議の慧、即ち報身なり、力は是れ幹用自在、即ち応身なり。仏は三世に於て等しく三身有り、諸教の中に於て之を秘めて伝へたまはず。

 [72]故に一切世間の天人修羅は今仏は始めて道樹に於て此三身を得たまふと謂ふ。

 [73]故に近に執して以て遠を疑ふ、此本説の中の復言は二乗に及ぼさず、但だ菩薩に対す、菩薩は天人修羅の三善道の内に摂在す、余の三悪趣は罪重く根鈍少智にして此謂を作すことを知らざるなり、故に大品には但だ摩訶衍は天人阿修羅に勝出すと云ひ、亦三途を言はざるなり。菩薩に三種有り、下方、他方、旧住なり、下方は即ち本日の所化、故に執近の謂無し。他方旧住は倶に二種有り、一に法身より応生すとは、往世に先に無生を得、或は已に先に発迹顕本を聞く、設ひ未だ聞くことを得ざるも、報尽きて法性身を受け、法身地に於て、自ら応に長遠の説を聞くことを得べし。是故に応生の菩薩は、多く執近の謂無し。二には今生に始めて無生忍を得るもの、及び未だ得ざる者は、咸く此謂有るなり。

 [74]然善男子我実成仏已来の下、第二に執を破し迷を遣り、以て久遠の本を顕はすことを明す、上の文の誠諦の誡は即ち是れ此れなり、此れに就て復二あり、一に遠を顕はす、二に自従是来より下は、過去益物の所宜を明す、初めに就て又二あり、一に法説して遠を顕はす、二に譬を挙げて格量す、法説す。成仏已来甚大久遠なれば、伽耶の近謂は即ち破る、近を破し遠を顕はすに略して十意有り、玄義の如し云云。此文正しく破近顕遠を用ひて近謂の情を破す、廃近顕遠は近教を廃するなり。

 [75]譬の中三と為す、一に譬を挙げて問ふ、二に答、三に合して長遠を顕出す。余経は或は数の不可説なることを明して、塵沙等を喩と為す、此と方るに、此れ則ち多と為す。直に塵を下し点ぜらるゝの界は已に説く可らず、況んや塵を下さゞるをや、寧ろ当に説く可けんや、塵を下し塵を下さゞる界、尚説く可らず、塵を下し塵を下さゞるの塵豈に説く可けんや、況んや復是れに過ぐ、寧ぞ説く可けんや。弥勒等の下、第二に答の中は三人の不知を挙ぐるなり。合譬文の如し。

 [76]自従是来より下は益物の所宜を明す、又三あり、一に益物の処、二に迹上の疑を払ふ。三に若有衆生来至我所より下は、正しく益物の所宜を明す。

 [77]処を顕はすことを須ふるは上に譬を引くこと甚だ久し、久しく何の処にか居す、故に常在此土及於他国而作仏事と云ふ、文の如し。

 [78]於是中間の下は、迹に執する上の疑を払ふ、因を疑ひ果を疑ふ、昔の教に説く所の処処の行因、又処々に記を得るは即ち是れ果の疑なり、今は此疑を払除す。然灯仏を指すは即ち因の疑を払ふ。又復言其入於涅槃とは即ち果の疑を払ふ、此の如きの因果は復一条に非ず、皆我が方便にして実説に非るなり、故に疑を払ふと名く。

 [79]或は人有て云く、方便して然灯仏は是れ我れの師なりと説く、然るに実は是れ釈迦の現作なり、生に非ずして生を現じ、滅に非ずして滅を現ず、故に又復言其涅槃と言ふなりと。

 [80]今謂く爾らず、但だ前の釈を取る、何となれば、然灯仏は時に縁熟すれば、仏の像を以て之を化す、我縁未だ熟せざれば、但だ菩薩と為て、仏に従て記を得、記を得るは即ち是れ果の義なり、行々は即ち是れ因なり、文を消して自ら足る、其と言ふは即ち是れ中間の施化の其なるのみ、然灯を謂ふには非るなり。

 [81]又中間に物を益すに即ち形と声の両益有り。若し値然灯仏と言ふは此れ形益有るなり。又復言其入於涅槃とは、彼仏の滅後に、仏を助けて化を揚ぐるなり、即ち声益有るなり。若し爾らば形声の両益は皆中間の因に属するのみ。既に形声の生有り、生は必らず死有り、死は即ち涅槃に入る、此れを名けて果と為すのみ。

 [82]中間に已に仏果を成ずと言ふことを得ず、何となれば、法華の前には未だ成仏を説かず、何ぞ仏果の疑有ることを得ん。旧は然灯は是れ我が現作といふを以てす、此れも亦非解なり、法華の前の経には、未だ昔已に成仏することを論ぜず、何れの教にか然灯は是れ我が所現なりと説て而して此疑を拂はんや。

 [83]若有衆生来至我所の下、第三に正しく益物の所宜を明す、又二と為す、一に感応、二に施化なり。

 [84]至我所とは、即ち是れ過去の衆生の漸頓の両機、冥に法身を如くなり。

 [85]仏限観とは、即ち是れ久しく已に成仏し、仏眼を用ひて鑑照するに、遺差有ること無し。将に劣勝の両応を起して而も之を利益せんと欲す、善機に凡そ二力有り、一には人天の花報を感じ、二には仏道の果報を感ず、若し法眼を以てすれば、万善は其重軽を縁じて各々花報を得ることを観知するも、究竟して其終に種智の果報を得ることを知ること能はず。若し仏限を以てすれば、円に万善を照し其始末を知る、此経は一向に、仏眼をもて衆生の万善は究竟して仏を得ることを観知することを明す、一大事出世の正意なり。

 [86]信等諸根とは信等の五根なり、慧根は即ち了因、余根は即ち縁因なり。

 [87]此二の善根に各々利鈍有り、通じて頓漸の機縁を摂す、頓機の利鈍は即ち是れ円別の根機、漸機の利鈍は即ち是れ蔵通の機縁なり。

 [88]又小乗の根を鈍と名け、大乗の根を利と名く、又小乗の根を利と名け、人天乗を鈍と名く。

 [89]十法界の衆生の所有の善根利鈍を機と為し、悪法を用ひず、悪法は縁了り二因に非るたり。如来は悉く十界の善機を照して応に度すべき所に随て、而して形声を現じて饒益したまふなり。

 [90]処々自説より下は、正しく応化の所宜を明す、又二あり、先に形声の益、次に得益歓喜なり、先の形益に又二あり、先には生に非ずして生を現にずることを、次に滅に非ずして滅を現ずることを明す。

 [91]自説名字不同とは、形既に其れ現ずれば則ち名字有り、名に因て体を召く、機に優劣有れば形に勝負有り、形異る故に名則ち同じからず、年紀大小とは、即ち形の勝負なり、勝とは即ち勝応、負とは即ち劣応なり、名同じからざるは、即ち二仏の寿を現じたまふに量無量有ればなり。処々とは、竪に論ずれば則ち過去の処々の行因の国土なり、横に論ずれば即ち十方の国土なり。

 [92]名字の不同とは、竪の処所に約すれば亦生・法の名字の不同有り、今の応身もて過去の然灯仏等に望むが如し、横の国土に約するに亦生・法の名字有り、今の分身に望むが如し、亦華厳の十号中に列する所の釈迦異名の若干同じからざるが如し、又諸経に辯ずる所の仏に三身の名字不同有り、召く所の法体皆異なり。或は毘那と説き、或は舎那、或は釈迦なり、法身仏を或は如々、実相、第一義、般若、楞厳等と名くる比ひなり。此れは仏法界の身を示現するに約する名字不同なり、若し九法界の身を現ずる名字の不同なるは則ち無量無辺なり、意を以て得可し。

 [93]年紀大小とは、此れは寿命の長短を明す、上の所現の応身を逐はば、或は寿二万なりと説く、迦葉仏の時の如し。或は寿八万の時なりと説く、弥勒仏の時の如し。伝へて互に大小を明す、縦横知る可し、法報応の仏に就て、寿命の大小は玄義の如し云云。或は三身相望めて大小を辯ず、或は三身各別して皆小と為す、合説して名けて大と為す。例せば、三点のごとし云云。此れ皆応に度すべき所に随ふ、其れが為めに身及び命の長短を現ずるのみ。亦復現言当入涅槃とは、滅度を以て度すことを得べき者には、即ち滅度を現ずるなり、其をして恋仰せしめ、而して解脱を得しむ、此義は下の譬説の中に現はる。

 [94]又以種々方便説微妙法とは是れ声益を現ずるなり。小身は短寿、即ち是れ漸教を説く、故に種々方便と言ふなり。大身は長寿、即ち是れ頓教を説く、故に説微妙法と言ふ。

 [95]初め漸を以てすと雖も、終に大に入らしむ、故に皆令得歓喜と言ふ、仍て此の歓喜は即ち是れ施化の得益なり、仏は四悉檀に依て形声の両益を施したまふ、衆生は四利を獲るに機に称へば則ち喜び、機に乖けば則ち悩む、下の文に皆実不虚と云ふは即ち此義なり。

 [96]諸善男子如来見諸衆生より下は、是れ現在の師子奮迅の益物なり、此三昧に十の功徳有り、一に他人の諸根の熟不熟、清浄不清浄を分別す。二に如来の法輪を以て未度者を教へ悉く法律に入らしむ。三に弘誓は十方に遍満す、音声も亦爾り、或は一音もて遍満し、百千万昔も皆亦遍満して普ねく衆類に教ふ。四に無上輪を転じ衆生を化し皆滅度を取らしむ、余人は転ずること能はず、独り仏のみ能く転じたまふ。五に能く出家剃髪して浄戒を持すことを示す、亦能く人をして楽はしむ。六に性行は空に合す。七に光を放て滅を示す、或は存し或は亡ず、或は相好を示し、或は相好を隠す。八に四魔を降伏す。九に他をして至要に入ることを得て止観を増長せしむ。十に上の十善の本を具す、身三口四等なり云云。此文二と為す、一に機感を明し、二に処化を明す。

 [97]如来見とは、即ち仏眼もて照すなり、諸衆生楽小法とは、所見の機なり。

 [98]華厳に云く、大衆清浄なりと雖も、其余の小法を楽ふ者、或は疑悔を生じ長夜に衰悩せん、此れを愍れむが故に黙すと。偈に云く、其余の不久行のものは智慧未だ明了ならず、識に依て智に依らず、聞き已て憂悔を生ぜん、彼れ将に悪道に墜せんとす、此れを念ずる故に説かずと。

 [99]彼経を按ずるに声聞二乗無し、但だ不久行の者を指して小法を楽ふ人と為すのみ。

 [100]師の云く、楽小とは小乗の人には非るなり。乃ち是れ近説を楽ふ者七小と為すのみと。

 [101]今当に通じて之を説くべし、所謂二十五有を貪愛するは、即ち人天の機にして我所に来至するを小法と名くるなり。涅槃を貪楽し自の解脱を求むるは即ち二乗の機にして我所に来至するを亦楽小法と名くるなり。漸次に仏道を紆廻するを楽ふは即ち三菩薩の機にして我所に来至するを亦楽小法と名くるなり。

 [102]徳薄とは、縁了の二善の功用は微劣なり、下の文に云く、諸子は幼稚なりと。垢重とは見思未だ除かざるなり。

 [103]問ふ、生に非ずして生を現じ、備に頓漸の二化を施す、七方便等は是れ小法を楽ふ者なる可し、円頓もて機に赴くは是れ応に大法を楽ふ者なるべし、云何ぞ通判して小法を楽ふと為すや。

 [104]答ふ、向に略其意あり、今広く釈せん、凡そ四義と為す。

 [105]一に往日に約す、大心を発すと雖も專精なること能はず、多く弊欲に著して世を出づることを得ず、弊欲を名けて小法と為すなり。二に現在に約す、仏の未だ出世せざる如き、諸の天人等は大機有りと雖も、而も心は世楽に染し邪見に著す、故に楽小法と名く、此二義下の譬の宛転于地と意と同じなり。三に修行に約す、三界の弊欲の小法を楽はずと雖も、而も三乗の灰断を楽ふことを亦小法と名く、三乗の近果を楽はずと雖も而も歴別に一乗を修せんことを楽ひ、一心円頓に於て普く修すること能はず、故に楽小と名く、此三意は因門に約して小法を楽ふを明すなり。

 [106]四に果門に約す、近成の小は釈氏の宮を出で始めて、菩提を得ることを聞くことを楽ひ、長遠大久の道を聞くことを欲楽せず、故に楽小と言ふ、此等の小心は今日に始るに非ず、若し先より大を楽はゞ、仏は即ち始成を説きたまはず、始成を説くは、皆楽小法の者の為めのみ。

 [107]為是人説の下、第二に現在応化、又二あり。一に生に非ずして生を現ず、二に滅に非ずして滅を現ず、現生に又二あり、一に現生、二に利益なり、現生に又二あり、一に理生、二に非生なり。

 [108]現生とは迹に生を現ず、非生とは始めて生を爾すに非るなり。是人の為めに、我れ始めて菩提を得と説くことは、前には利鈍の二機来て法身を感ずることを明す。今即ち勝劣両応を現ず、劣応は鈍根に応じ、勝応は利根に応ず。

 [109]此両応並に生法の二身の生有り。劣応の二身の生とは、正慧を以て胎に託して、出生し行くこと七歩す、迦旃延子の述する所の如し。乃至六年苦行より已還、是れを生身の生と名くるなり。法身の生とは、即ち三十四心に結習を断じ尽して得る所の五分法身是れなり。

 [110]勝応の生身生とは、華厳大経等に説くが如し、諸の菩薩と魔耶の胎に処し、常に大乗を説き、出でゝ十方に行て各々七歩す、是れを生身の生と名く。法身の生とは、寂滅道場に於て、金剛の後心に無明を断じ尽し、妙覚相応の慧を得て法性を窮め照し、万徳種智円明に普ねく備ふ、是れを法身の生と名く。

 [111]出家とは、劣応は分段の家を出で、勝応は二死の家を出づ。

 [112]得菩提とは、劣応は有作の四諦の所発の無漏の尽無生智を得るを名けて菩提と為す、勝応は即ち三諦一実の道を照す一切種智を菩提と為すなり。

 [113]然我実成の下は、本と実に生ぜざることを明す、但だ天人修羅は、此二種の生法の二身を見て謂く始生と言ふ、此れ則ち然らず、然るに我久しく已に此生法二身を得たり、今日の生は実の生に非るなり、故に久遠若斯と云ふ。若斯とは上の譬の長久の如くなり。

 [114]但以方便の下は、既に実の生に非ず、何が故ぞ生を現ずるは楽小法の人の徳薄く垢重き者を利して仏道を得せしめん為めなるやを明す、故に但以方便教化衆生と言ふ。作如是説とは、生に非ずして而して生を現ず故に作如是説と云ふなり。

 [115]余経は劣応の生身の生は生に非ることを破し、尚ほ劣応の法身の生の生は非ることを破せず、今経は正しく勝応の法身の生は生に非ることを破す、何となれば、我れ実に成仏してより已来久遠なること斯の若しと、故に知ぬ、今日は劣勝の両法身の生は皆破せらることを、故に生は生に非ず、余経と永く異るなり。

 [116]如来所演の下、第二に現生形声の益を明す、先に形声を明し、次に不虚を明す。説は即ち声教、示は即ち形規なり。形声は自他を出でず、若し法身を説かば是れ己身を説き、若し応身を説かば是れ他身を説く。益然灯仏に値ひたてまつると言はゞ即ち是れ己身を説く、然灯は是れ我が師、是れ他身を説くなり。正報を示すは是れ自己の事、依報を示現するは是れ他事を示す、随他意語は是れ他身を説く、随自意語は是れ己身を説く、己他の事を示すこと亦類して此の如し。

 [117]諸所言説皆実不虚とは、又二あり、先に不虚を明し、次に不虚を釈す。初めは偏へに声益不虚に拠る、釈は則ち双て不虚を釈す。

 [118]初めに不虚とは、漸頓の二機は此二種の形声を禀けて皆益すること虚からず。

 [119]上の過去の章の皆歓喜するを明すは世界の益に似如たり、今皆不虚と明すは、勝劣の形声は二機に逗じ、四悉檀を獲ること皆虚しからず。

 [120]大論に四悉檀は並に実なりと明す、世界の故に実、対治為人の故に実なりと。

 [121]篤く而して論を為さば、三は是れ世間の実にして、此実は則ち虚なり、縁の中にも亦世間の三は実、第一義は則ち虚なること有り。

 [122]若し此虚実を以て迹本二門に約せば、漸頓の益の者に虚実あり、昔の方便行は未だ実道の益を得ず、是れ其の因虚なり。近迹に執して未だ本地真実の益を得ず、即ち是れ果虚なり。今は迹門の説を聞て同じく実相に入るは、即ち因中の実益を得。本門の説を聞て即ち執近の情を除くは、長遠果地の実益を得るなり。今は二実を得て昔の二虚に対す、

 [123]円頓の衆生に約せば、迹本二門に於て、一は実一は虚なり、中道の行を得ば、是れ因中の実益を得るなり。而して近果に執するは是れ果に於て虚なり。今因を説くを聞て更に別に真実の益を得ず、遠果を説くを聞て、即ち実果の益を得、昔は一虚有り、今は一実を得故に皆実不虚と云ふなり。

 [124]問ふ、今昔の大乗の顕はす所の実相をば、前後に悟るは応に異り有るべきや。答ふ、初めに入り次に入り、乃至草庵を壊して中道に通入す、但し入に漸頓有り、故に二教を分つ。真諦に入るに例せば、鈍たる者は析法無常等の観に依り、利なる者は体法の空観を用ふ。故に蔵通を分つのみ。

 [125]所以者何如来如実知見より下は、第二に総じて益物の不虚を釈す、先に形益を釈し、後に言益の不虚を釈す、此中六句あり、応身の法身を離れざることを顕はす。法身は形無く亦起滅無し、衆生に起滅の機有て法身を感じ、如来の願力は起滅に応同す、起滅の見は衆生より出づ。故に三界に約して以て諸句を明す、又二と為す、一に理を照すこと虚ならず二に以諸衆生より下は、機に称て虚ならざるを明す、理に達し機に称ひて、教を設け物を化す、必らず虚ならざるなり。

 [126]如実知見は即ち是れ実智如理にして而して三界の実を照す、実なれば則ち三界の因相無きなり。無有生死とは、二死の苦有ること無きなり、集を起すを退と名け、無常の果の現ずるを出と名くるなり。

 [127]亦生死の世に在り、及び涅槃の滅に入ること無し、此二倶に滅す、故に亦無在世及滅度者と云ふ。

 [128]滅度の実に非ず、生死の虚に非ず、故に非実非虚と云ふなり。

 [129]世間の隔異に非ず、出世の真如に非ず、故に非如非異と云ふ。

 [130]此四は中道を明すなり。

 [131]若し双て二辺を非して句を結すれば定んで一辺なり、例せば非生非死は句を結せば生と為る、是生是死は句を結せば死と為る。是退是出は句を結せば退と為る、非退非出は句を結せば出と為る、非虚非実は句を結せば実と為る、是虚是実は句を結せば虚と為るが如し。此の如きの流は今皆之を非す、乃至単複具足も亦之を非し、方に中道の意を顕はすのみ。

 [132]不如三界見於三界とは、二種の三界の衆生の見る所の三界の相の如くならず。

 [133]唯仏一人のみ、実の如く三界の実を窮め照して、内に実智の用を具したまふ、亦是れ随自意語なり、亦是れ或は己身の事を説くなり。故に大品に云く、第一義の中には分別する所無きなりと。如来の権智如量にして三界の相を知見したまふこと、即ち三界の衆生の見の如し、実の如く二死無きことを知見して、而も随他意に二死の身を示して二死有りと説くも退無く出無し、而して随他意に退有り出有りと説くも亦在世及び滅度の者無し、而して随他意に世間に生ずることを示し、涅槃に入らんことを示し、在世有り滅を得る有りと説くも実無くして而して涅槃の実を説き、虚無くして而して三界の虚を説く、三世の異り無くして而して異り有りと説く、真諦の如無くして而して如有りと説きたまふ。同於三界見於三界とは、皆是れ随他意語なり名けて或は他の身事を説き他の身事を示すと為す、如来の二智は明かに二諦を審かにしたまふ。所以に形言の両益皆実にして虚ならざるなり。

 [134]以諸衆生の下、第二に機に称ふこと虚しからざることを釈すに、先に機感を明し、次に施化を論ず。諸の衆生の根機の利鈍、漸頓の不同、性欲行智種々に差別するを以て、各々をして諸の善根を増すことを得せしめんと欲す、故に己他の教を説くこと虚しからず、因縁と譬喩あり。漸頓の根性に各々種々有り、此れ須らく為人悉檀を用ふべし。

 [135]為人悉檀は正しく諸の善根を生ぜんが為めなり、善根は猶ほ是れ性なり、習欲は性を成す。今何故ぞ先に性にして後に欲なる釈して云く、本日の根性有るに因て、能く今日の欲楽を起す、煩悩に因るが故に五陰有り、復五陰に因て更に煩悩有り、前ならず後ならざるが如し。性欲も亦爾り、要らず習欲に因て而しいて性を成すなり。

 [136]欲とは漸頓の二機の若し種々の欲楽同じからざれば、此れ須らく世界悉檀を用ふべきなり。

 [137]行とは業行を起作し、楽欲に随て而して諸行を修するなり、此れ須らく為人悉檀を用ふべきなり。行の中に好んで愛著多ければ、妨障有ることを致す、此れ対治悉檀を須ふ。

 [138]情想とは是れ智慧、即ち相似の解なり、修行に由るが故に、能く解生ずることを得、此れは是れ方便にして、猶ほ未だ理に称へる無言説の道ならず、猶ほ是れ念想の観なり。漸頓の衆生は内外凡位に居在し、諸の善根欲楽有り、欲楽の故に修行し、修行の故に似解を得、此れ須らく第一義悉檀を用ふべし。其所得の憶想の解に随て、更に為めに説法し、即ち朗に第一義を悟ることを得、乃至初地に二地を欲楽し修行する時、亦二地の境を憶想す、即ち是れ念想なり、若し二地の真解を発生するは、即ち是れ念想観除こり言語の法滅す、乃至仏は方に究竟して憶想を離るゝことを得て、常の寂照を獲たまへるのみ。

 [139]欲令生の下は第二に正しく機に対して己他の声益を施す、漸頓種々の根機に於て種々の善根を生ぜしむ、故に若干の己他の身事、若干の自他の声教、若干の因縁譬喩を現ず。

 [140]若し漸機に対すれば、三蔵中の四門、若干の因縁譬喩を以てす、一々の門の中に於て復若干有り、懈怠の者の為めに苦忍を説き、我慢の者の為めに無常忍等を説くが如し、通教の四門も亦是の如し。

 [141]若し頓機に対すれば別円等の如き亦各々四門若干の種々あり、三十二の菩薩各々入不二法門を説き、華厳の中の種々の行類相貌の如し、皆種々の根機の為めに若干の譬喩言辞を施して法を説くなり。

 [142]所作仏事未曾暫廃とは、総じて不虚を結す。

 [143]上の如き若干の己他の形声は皆衆生をして仏知見に入らしめ、人天二乗の小事と為さず、故に所作仏事と云ふなり。若し一人独り滅度を得、余人得ずれぱ、所作の仏事即ち廃有りと為す、廃すれば即ち衆をして実益を得ざらしむ。豈に皆実不虚に曾することを得ん。

 [144]云何ぞ皆実なる、 昔我れ道場に坐して一法の実を得ずと云ふ、 七方便は並に究竟滅に非ず、二涅槃は方便の空拳なり、故に知ぬ、唯虚にして、未だ皆実を見ざることを、若し昔七権を施し遂に一実に入るを得ざれば、其れ虚と言ふ可し、虚に引て出ずることを得させ虚より出で而して実に入らさる者有ること無し、故に知ぬ。昔は虚を実と為すが故なることを

 [145]皆実にして虚ならず、仏事廃すること無しとは即ち此義なり。

 [146]如是我成仏甚大久遠の下は非滅現滅を明す。又二あり、初めに非滅現滅を明し、二に如来以是方便より下は現滅利益を明す、初めに又二あり、先に本は実に滅せざるを明し、次に然今より下は迹中の唱滅を明す。我成仏已来の下は果位の常を明す。

 [147]常の故に滅せず、此四字に寄せて、未来の大勢威猛常住の益物を明すなり。

 [148]我本行より下は、因を挙げて果を況し、以て常住を明す。

 [149]旧人此れに拠て以て無常を証し、前は恒沙に過ぎ、後は上数に倍す、神通延寿にして猶ほ是れ無常と云ふ。

 [150]文の意を僻取して大に失する所有り、経は因を挙げて果を況す、果は数に非るなり。経に久修業所得寿命無数劫と云ふは神通延寿に非るなり、何となれば、仏は円因を修し初住に登る時已に常寿を得たまへり、常寿は尽き叵し、已に上の数に倍す、況んや復果をや。云何ぞ所況の果を棄て、苟も能況の因を執せん、縦令ひ此れ因なるも、已に是れ常に於てす、無常に非ざるなり、譬へば太子の時の禄の如き、已に尽くす可らず、況んや尊極に登て禄用寧ぞ尽くす可けんや。明文茲に在り、何ぞ須らく廻捩して後生を疑誤すべけんや。

 [151]然今非実の下は、第二に池中に滅を唱ふ。三身並に非滅唱滅の義有り。

 [152]浄名に云ふが如し、法は本と生ぜず、今則ち滅無しと、即ち是れ法身の非滅なり。又云く、是れ寂滅の義なりと。即ち是れ滅を唱ふるなり。何となれば、若し已に了達すれば寂滅を唱へず、未了者の為めに唱ふるのみ。若し照寂と言はゞ即ち是れ滅を唱ふるなり。若し寂照と言はゞ即ち是れ生を唱ふ。夫れ法身は、生に非ず滅に非ずと雖も亦生滅有り、若し迷心執著すれば即ち煩悩生じて而して智慧滅す、若し解心無染無なれば、即ち智慧生じ煩悩滅す、惑を滅して解を生ずるは此れは是れ無常の滅、若し解生じ惑滅するは、即ち是れ寂滅なり、此の生滅は悉く法性に約して弁ず。若し迷解の二縁無ければ、則ち此生滅有ることを唱へざるなり。

 [153]報身の非滅唱滅とは、誰か智慧有り、誰か煩悩有て、而して智慧能く破すと言はん。此れ即ち明闇相除かず、即ち報身不滅の義なり、衆生未だ了せず。此れを聞て便ち其れ即ち是れ仏なりと謂ふ。而して憍恣を生じて復道を修せず、故に復唱へて言く、道能く惑を滅すと。煩悩有る時は則ち智慧無し、智慧有る時は則ち煩悩無し、豈に智慧能く煩悩を滅するに非ずや。

 [154]応身の非滅唱滅とは、応は是れ法報の用なり、体既に滅無し、用豈に窮まること有んや、即ち応身の不滅なり。但だ衆生の若し常に仏を見たてまつれば、則ち憍恣を生ずるが為めの故に、我れ今夜に於て当に滅度を取るべしと唱へたまふ。

 [155]又法身は当体に不滅を明す、報身に不滅を説くは、必らず法身に約す、理を以て而して論ずれば、智慧能く破す、到るが故に破すとせんや。到らざるが故に破するや、共とせんや、独とせんや、此の如く理を推すに、能破の功有ること無し。即ち智慧は惑を滅せざるの義なり、智慧有れば則ち煩悩無きに就かば、即ち是れ慧能く惑を滅す。応身に不滅を説くは須らく法報に約すべし、法報常然なれば応用絶へず、衆生尽きざれば即ち滅度せず。

 [156]若し法身は当体に不生滅を論じ、報身は能く生滅する無しと了達す、応身は相続して生滅せず云云。

 [157]以是方便教化より下は、第二に現滅の益物を明す、又二と為す。先に滅せずんば衆生に損有り、二に以方便説比丘当知より下は、若し滅を唱ふれば物に於て益有り、初めに又二初めに滅せざれば損有り、次に広く不滅を釈す。

 [158]損有りとは、前の小法を楽ふ人の如き、仏の常に在すを見れば善根を種へず、貧窮下賤にして二善を生ぜず、故に益無し、見思を断ぜず、二悪を断ぜざれば則ち是れ損有り、五欲に貪著して憶想に入るとは、憶想は即ち是れ見惑、五欲は即ち是れ思惑なり、此衆生の垢重きに由るが故に、須らく滅を唱ふべし、滅を唱へざれば、則ち二悪生じて而も滅せず、二善損じて而も生ぜらん。

 [159]若し四悉檀に依て滅を現ずれば則ち二悪滅し、二善生ず、二悪を滅せん為めの故に対治第一義を用ふ、第一義は未生の悪を滅す。対治は已生の悪を滅す、世界と為人は二善を生ず、世界は未生の善を生じ、為人は已生の善を生ず、又世界は已生の悪を滅し、対治は未生の悪を滅す、禅の五陰の欲界の悪を滅するが如きは、即ち是れ世界は已生の悪を滅し為人は已生の善を生じ、第一義は未生の無為の善を生ず。

 [160]若見の下は第二に広く釈す、若し仏常に在すを見ば便ち憍恣の心等を起さん、故に損有り。恭敬を生ずること能はず、故に益無し。憍恣は即ち見惑を増し、厭怠は即ち思惑を生ず。難遭の想を生ぜざれば即ち見諦の解を生ずること能はず、恭敬せずば即ち思惟道を生ずること能はず、是義の為めの故に、宜しく応に滅を現ずべし。

 [161]若し三仏の不滅を見聞するに、悉く憍恣の義有り。

 [162]便ち衆生の如と弥勒の如と一如にして二如無し、平等にして即ち真なりと謂ふ。是れに由て憍心上慢を生ず、謂へらく一切の煩悩は本より自ら生ぜず、今も亦滅無し、何ぞ道を修することを須ひんと、即便ち情を恣にして放逸なり、是れが為めに唱へて是の寂滅の義を言ふ。

 [163]又一切衆生即ち菩提の相、菩提の相即ち煩悩の相、明と暗と相除かずして仏の菩提を顕出すと聞く、衆生此れを聞て復慢恣を起し復善を修せず、懈怠にして放逸なり、是等の為めの故に、唱へて報身の智慧能く煩悩を滅し、無明の力大にして仏菩提の智の能く滅する所なりと言ふ。

 [164]応身の非滅現滅は解し易し。

 [165]若し唱へて法は本と生ぜず、今も亦滅ぜざれども、要らず須らく惑を滅すべし。方に乃ち寂滅すと言ふ、経に云く、智慧は煩悩を滅せずと、然るに明なる時は暗無し、汝今煩悩を具足す、何ぞ能く慧有らん、当に知るべし。智慧は能く障惑を滅することを。

 [166]衆生是唱滅を聞かば、便ち三仏に於て難遭の想を生じ恭敬の心を起さん。

 [167]是故如来以方便の下は、滅を唱れば益有ることを明す。先に仏に値ひ難きを歎じ、次に値ひ難きを釈す。三仏は並に値ひ難し、衆生は小法に楽著し、見思の障重し、三身の不滅を聞くときは、則ち道を修せず、契会することを得ること難きなり。

 [168]所以の下は釈なり、諸の薄徳の人は百千劫を過ぎて、或は仏を見たてまつること有り、或は見たてまつらんざる者あり、若し三仏を見たてまつらば、其人は善多く悪少し、其人の為めに滅を唱へず、是人は仏は常に霊山に在すことを見たてつるなり、或は仏を見たてまつらざるは、其人障重く善軽し、為に三身の会ひ難きを説く、衆生は之を聞て便ち是念を作さく、三仏は復生に非ず滅に非ずと雖も、必らず須らく善を生じ惑を滅して、乃し証見することを得べきも、此事易からずと、故に難遭と云ふなり。心懐戀慕渇仰とは、此れ現滅して損無きことを明す。見思を滅するを損無しと名く、善根を種るを益有りと名く。

 [169]又若善男子の下、第二の大段、三世に物を益し物の実益を得ることを結す、又三と為す先に諸仏の五濁に出でたまふに、必らず三を先にし一を後にし、近を先にし遠を後にすることを明す。次に皆是れ衆生を化せんが為めなることを明す。後に皆虚妄に非ることを明すなり。

 [170]譬如の下は、第二に譬説、開譬と合譬有り、開譬二と為す、一に良医治子譬、上の三世の応化の所宜を譬ふ、二に治子実益譬、上の三世の利物の虚ならざるを譬ふ。上には未来の文少し、此中には具に有り、初めに就て三と為す、一に医遠行譬、過去の益物を譬ふ、二に還り已て復去るは現在応化を譬ふ、三に尋で復来り帰るは未来の応化を譬ふ。過去の文二と為す。一に近を発して遠を顕はす、二に過去の応化の所宜を明す、今は但だ応化の所宜を譬ふ。所宜に三有り、一に処所、二に迹の疑を払ふ、三に正しく応化す、今は但だ応化を譬ふ。応化又二あり、一に機感、二に正しく応化す、今具に之を譬ふ。如有良医とは、超へて上の我以仏眼観を譬ふ、能応の智有るなり。多諸子息よりは、是れ追て上の若有衆生来至我所を譬ふ。能感の機なり、上の応化の所宜に又二あり、一に益物、二に歓喜を明す、今は但だ益物を譬ふるのみ、上の益物に又二あり、一に非生現生、二に非滅現滅今は但だ現滅を譬ふ。

 [171]初めに良医とは、医に十種有り、一は病を治するに病増して損すること無し、或は時に死を致す、空見の外道を譬ふ。意を恣にして悪を行じ、人をして教へて邪を起し善根を断ぜしむ、法身既に亡じ慧命亦死す。二は病を治するに増せず損せず、有見苦行の外道を臂ふ、巖を投じ火に赴き、苦行して善を行ずれども、禅定を得ず結を断ずること能はざるは、即ち是れ損無し、亦善を断ずること能はざるは即ち是れ増さゞるなり。三は病を治するに損して而して増すこと無し、但だ世医の治する所、差へ已て還て復生ず、即ち是れ定を修し結を断ずる外辺なり。四は病を治して能く差へしめ已て復発せず、而して治する所遍からず、即ち二乗の人は止だ一両種の有縁の者を治して、遍ねく一切を治すること能はざるなり。五は能く兼ね遍ねしと雖も、而も巧術無くして治を用ふるに苦痛す。釈論に呼んで拙度と為す、即ち是れ六度の菩薩、慈悲もて広く治するなり。六に病を治するに妙術ありて、治するに痛悩無く、而して必死の人を治すること能はず、通教の菩薩の体法は但だ反復有る凡夫を治して、焦種の二乗を治せざるを譬ふるなり。七には愈へ難きの病を治すと雖も、而も一時に一切の病を治せず、即ち是れ別教の菩薩なり。八には能く一時に一切の病を治して、而も平復すること本の如くならしむること能はず、即ち円教の初心の十信なり。九には能く遍ねく一切を治して亦能く平復すること本の如く、而して本に過ぎしむること能はず、即ち円教の後心なり。十には一時に一切の病を治し、即ち能く平復し、又本に過ぎしむ、即ち是れ如来なり。

 [172]前の三種の医は、即ち、大経の中の旧医にして、乳薬を用ふるなり。後の七は並に客医にして術無き者は、但だ無常苦等の法を用ふ、辛苦酢の薬を用ふるが如くなり、術有て遠く来て、還て乳を服せしむるは最後の究竟の良医なり。

 [173]良とは善なり、内に三達五眼有り、即ち是れ八術なり、妙に薬性を得、善く治するは外に病源を識て能く薬を用ふるなり。智慧とは権実二智にして、深く二諦を知るなり。聡達とは五眼もて機を鑑み、頓漸差はざるなり。十二部教は文理甚だ深し、明かに方薬を錬るが如し、四悉檀に依て衆生の病を治するは、善く衆病を治するが如くなり。

 [174]無量義に云く、医王、大医王と、大医を以ての故に称して良医と為す。

 [175]多諸子息の、若十とは声聞、二十は支仏、百数は菩薩なり。

 [176]菩薩の子に、凡そ三種の子の義有り。

 [177]一には一切衆生に皆三種の性徳仏性有るに就かば、即ち是れ仏子なり、故に其中の衆生悉く是れ吾が子なりと云ふ、此文には多諸子息と云ふなり、十の心数法に約して即ち百子有り、心王は正因仏性と為す、慧は是れ了因の性、余の九は相ひ扶けて起く、縁因の性に属す、一数起る時九数扶助す。是の如くして百と成るなり、性徳の仏子は善に非ず悪に非ずして而して善悪に通ず、故に此十数及与び心王を通の心数と為す、是れ性徳の三因を以て悉ぐ正因の仏子に属するなり。

 [178]二は昔の結縁に就て仏子と為す、十六王子の法華を覆講するの時、法を聞く者、亦微解を生ずるが如き即ち了因の性を成ず、昔微く能く修行するを縁因の性と為す、正性を本と為す、此三因は並に縁因に属す、今日一実の解を資発す、故に昔日の結縁を以て縁因仏子と為す、即ち火宅の中の三十子なり、此れは十信に約す、一信起る時即ち余の九を具すれば、還て百信有り、故に結縁を仏子と為すことを得るなり。

 [179]三は了因の子なり。即ち是れ今日に法華経を聞て実智の中に安住す、我れ定んで当に作仏すべしと、声聞の法を決了するに、是れ諸経の王なり、仏口より生じ仏法の分を得たり、故に真子と名く、此れも亦三因の性有り、今既に顕了に仏性を見れば、並に了因の仏子に属す、百子の義は還て十数を将て十善法の中に入る。十信は初住の中に入る、是故に正因は本末に通ず、此文は百子を明すに了因の子を取らず、了因の子は下の不失心に属す、服楽の中に之を明す。

 [180]以有事縁遠至他国とは、過去の応化中の現滅を譬ふるなり。

 [181]諸子於後の下は、第二に還り已て復去るは現世の益物を譬ふ又二あり。

 [182]一に諸子の後に於て毒を飲むは、上の機応相ひ関はりて諸の衆生の徳薄く垢重きを見るを譬ふ、 衆生は仏の滅後に於て三界邪師の法に楽著す、故に飲他毒薬と云ふ、即ち是れ遊行して他国に詣るなり、諸趣に輪転して三界に堕在す、故に宛転于地と云ふ。

 [183]是時其父還来帰家の下は、上の我少出家得三菩提と、第二の非生現生とを譬ふるなり、上に二有り、形声及び利益の不虚なり、今諸子飲毒と言ふより去て上の形益を譬ふ。邪師の法を信受するを名けて飲毒と為す、失心は是れ大小の機感生ずる無し、不失心は是れ大小の機感生ずること有り、又失心とは三界に貪著し、先に種ふる所の三乗の善根を失するなり、是人の為めに非滅に滅を唱ふ、不失心とは、五欲に著すと雖も、而も三乗の善根を失せず、是人の為めの故に非生に生を現ず。善強く悪軽きは、仏を見たてまつりて即ち能く道を修し結を断ず、子の父を見て薬を求め病愈ゆるが如し、善軽く悪重きは、仏を見たてまつることを得て、亦護を求めて而も道を修せず、子の父を見て、救を求めて肯て薬を服せざるが如し。父は此子の為めに唱へて応に死すべしと言ふ。遙見とは仏の出世したまふ時衆生は亦色身を見たてまつるも、而も見思の為めに五分を障隔せられ、法身に親奉するを得ざるを明す、故に遙と云ふなり、仏の出でたまふを見聞して皆喜敬の事有り、現に諸の経文の梵王請する等あり、例するに是れ救を求むるの辞なり。

 [184]父見子等苦の下は上の声益を譬ふ、又二あり、初めに仏請を受けて二諦の法輪を転じたまふことを譬ふるなり、而作是言の下は誡勧を譬ふ。

 [185]経方とは即ち十二部教なり、薬草は即ち教の所詮の八万の法門なり、仏より十二部を出し乃至涅槃を出す、此れ漸頓の薬草を出すなり。直に仏より十二部を出すは、此れ頓の薬草を出すなり。仏より修多羅を出すは、此れ漸の薬草を出すなり。色とは戒を譬ふ、戒は身口を防ぐ事相彰顕なり。香とは定を譬ふ、功徳の香もて一切を熏ずるなり。味とは慧を譬ふ、能く理味を得るなり。此戒定慧は即ち八正道なり、八正道を修め能く仏性を見る。又色は是れ般若にして、法性の色を照了し分明にして礙り無し。香は是れ解脱にして、断徳もて臭を離るゝなり。味は是れ法身にして、理味なり。三法の不縦不横なるを秘密蔵と名く。教に依て行を修し、此蔵に入ることを得るなり。三乗を説くに、空三昧の力は擣くが如く、無相は篩の如く無作は合の如し。一々の三昧に戒定慧を具するなり。又空観は擣の如く、仮観は篩の如く、中観は合の如し、此三観は各々戒定慧を離れず、此法を将て漸頓の衆生に与へて修行せしむるを服と名くるなり。

 [186]而作是言より乃至可服は即ち是れ勧門なり。速除苦悩より乃至無復衆患は即ち是れ誡門なり。誡勧二教を将て諸の衆生をして法薬を服せしむるなり。

 [187]其諸子中不失心者の下は、上の得益の不虚を譬ふ、上に二有り、一に不虚、次に不虚を釈す、今其諸の子の中に心を失せざる者は薬を服して病差ゆと云ふは、即ち上の皆実にして虚しからざるを譬ふるなり、不虚を釈するには譬を作さざるなり。