[1]七に会異とは、問ふ、仏に所説あれば四悉檀に依る。今、五義を解するに彼と会するや不や。答ふ、此の義、今当に説くべし。先に五章に対し、次に四悉檀を解す。世界悉檀を釈名に対す、名は一部を該ぬ。世界も亦た三に冠らしむ。第一義を体に対するは、最も分明なり。為人を宗に対す、宗は因果を論ず。為人生善の義と同じ。対治を用に対す、用は疑滞を破す。治病の事と斉し。悉檀を分別するを教相に対す、教相は後に説くが如し。問ふ、何んぞ次第ならざる。答ふ、悉檀は是れ仏の智慧なり、利鈍の縁に対すれば則ち四種を成ず。利人は世界を聞いて第一義を解す、此は釈名に対して体を辨ずること即ち足る。若し鈍人は未だ悟らず、更に為人生善・対治破悪を須ひて乃ち第一義に入る。則ち具さに四を用ふるなり。五重玄義は意利鈍を兼ね、四悉檀の法は専ら鈍者の為にす。対する義は是れ同じけれども、次第は則ち異なり。問ふ、論は専ら大品を釈して法華に渉らず。何んぞ、彼の悉檀を指して此の五義を通ずることを得ん。中論は諸経を通申す、何の意ぞ用ひざる。答ふ、釈論に云はく、「四悉檀に八万の法蔵十二部経を摂す」と、法華何んぞ頂からざることを得ん耶。中論は通申なれば、理は宜しく須用ふべし。若し具さに論を引かば、博くして未だ巧みならず。今、論の題を取つて五章を申ぶれば、中の字は体を申べ、観の字は宗を申べ、論の字は用を申ぶ。纓珞に云はく、「破法の方便、立法の方便、利益衆生の方便」と。論に研覈して執を破し、三宝四諦を立て四沙門果を得ることあり。故に知んぬ、論の宇は用を申ぶることを。中観の理の不可思議なるは妙を申べ、観の境は是れ権実なるは法を申べ、観智は是れ因果なるは蓮華を申べ、観の詮は経を申ぶるなり。論の三字を四悉檀に合して、以て五義に対す、通申の意顕はる。若し更に論を以て余経を申ぶれば、偈の初の句を取つて三蔵を申べ、次の句は通を申べ、
[2]次の句は別を申べ、次の句は円を申ぶ。法華は又た第四句の為に申べらるるなり。豈止だ両論、此の五章を申ぶるのみならんや、五章通じて諸の経論を申ぶるなり。
[3]次に四悉檀を解するに、十重と為す。一に釈名、二に辨相、三に釈成、四に対諦、五に起教観、六に説黙、七に用不用、八に権実、九に開顕、十に通経なり。
[4]釈名とは、悉檀は天竺の語なり。一に云はく、此には翻無し、例せば修多羅の多含なるが如し。一に云はく、翻じて宗・成・墨・印・実・成就・究竟等と為す。孰れが是なることを知ること莫し。地持の菩提分品に説かく、「一切の行は無常なり、一切の行は苦なり、一切の法は無我なり、涅槃は寂滅なり」と、是を四優檀那と名く。此に翻じて印と為し、亦は翻じて宗と為す。印は是れ楷定にして改易す可からず。仏・菩薩、此の法を具して復た以て伝教す、此は教に就て印を釈するなり。経に、「世智の所説は有無二無きが如し、此の法は楷定せり、此を以て伝授す」と。経に、¬過去の寂黙、諸の牟尼尊、展転して相ひ伝ふ」といふは、此れ行に就て印を釈するなり。経に、「増上・踊出乃至第一有を出す、」「最上にして衆共に帰仰す、世間に無き所なり」と、此れ宗の義を釈するなり。彼の明文了義、優檀那を釈せり、諸師何ぞ、宗印を用ひて四悉檀を翻ずることを得んや。此の如く既に謬れり、余の翻も亦た信じ叵し。南岳師は大涅槃に例して、梵漢兼称とせり。悉は是れ此の言、檀は是れ梵語なり。悉の言は遍なり、檀をば翻じて施と為す。仏、四法を以て遍く衆生に施す、故に悉檀と言ふなり。
[5]二に辨相とは、世界は車の如く、輪輻軸輞和合するが故に車あり、別の車無きなり。五衆和合するが故に人あり、別の人無きなり。若し人無くんば、仏は是れ実語の人なり、云何んが「我れ六道の衆生を見る」と言ふや。当に知るべし、人あることを。人とは世界の故にあり、第一義に非ず。第一義は是れ実なる可し、余は応に実なるべからず。答ふ、各各実なり。如如法性等は世界の故に無し、第一義の故にあり。人等は第一義の故に無し、世界の故にあり。五陰・十二入・十八界の一切の名相隔別することあるを、名けて世界と為す。外人は此の世界に迷ひて法相に連せず、或は無因縁にして世界ありと計し、或は邪因縁にして世界ありと計す。大聖は衆生の聞かんと欲楽する所に随つて、分別して為に正因縁世界の法を説いて世間の正見を得せしむ、是を世界悉檀の相と名く。二に各各為人悉檀とは、大聖、人の心を観じて為に法を説きたまふ。人心各各同じからざれば、一事の中に於て或は聴し或は聴さず。雑業の故に世間に雑生して雑触雑受を得るが如し。更に破群那経に説くことあり、「人として触を得ること無し、人として受を得ること無し」と。二人、後世を疑つて罪福を信ぜず断常の中に堕するが為の故に、此の説を作す。此の意は傍には執を破せんが為にすれども、正しくは是れ信を生ず。善根を増長して其の善法を施すなり。故に各各為人悉檀と名く。三に対治悉檀とは、法あり。対治には則ちあり、実性には則ち無し。対治とは、貪欲多きには不浄を観ずることを教へ、瞋恚多きには慈心を修することを教へ、愚癡多きには因縁を観ずることを教ふ。悪病を対治するに、此の法薬を説いて遍く衆生に施す、故に対治悉檀の相と名くるなり。四に第一義悉檀とは、二種あり、一には不可説、二には可説なり。不可説とは、即ち是れ諸仏・辟支仏・羅漢の所得の真実の法なり。偈を引いて云はく、「言論尽き竟んぬ、心行も亦訖んぬ。不生不滅、法、涅槃の如し」と。諸の行処を説くを世界と名け、不行処を説くを第一義と名く。二に可説に約せば、一切実・一切不実・一切亦実亦不実・一切非実非不実、皆な諸法の実相と名く。仏、是の如き等の処処の経の中に於て、第一義悉檀の相を説きたまへり。此は亦是れ一家の四門入実を明すの意なり。故に中論に云はく、「向道の人の為に四句を説く、快馬の鞭影を見て即ち正路に入るが如し」と。若し四句を聞いて心に取著を生ぜば、皆是れ戯論なり。豈に第一義ならん耶。
[6]私に十五番をもつて其の相を釈して解し易から令む。事の理を説くに随つて聞く者適悦するは、是れ世界なり。旧の善心生ずるは、是れ為人なり。新悪の除遣するは、是れ対治なり。聖道を悟ることを得るは、是れ第一義なり。双べて仮実を説くは是れ世界なり、論に「輪輻軸輞の故に車あり、五陰和合の故に人あり」と。単に仮人を説くは即ち為人なり、論に「或は人ありと説き、或は人無しと説く」と。単に実法と説くは即ち対治なり、論に「対治には則ち有り、実性には則ち無し」と。双べて仮実を非するは即ち第一義なり、論に「言語の道断え、心行も亦訖る」と云云。因縁和合して善人悪人の異りあるは、是れ世界なり。善縁和合して善人あるは、是れ為人なり。悪縁和合して悪人あるは、是れ対治なり。双べて善悪を非するは、是れ第一義なり。五陰の実法隔歴するは是れ世界なり。善の五陰従り善の五陰を生ずるは、是れ為人なり。善の五陰を以て悪の五陰を破するは、是れ対治なり。無漏の五陰は是れ第一義なり。善法と悪法と異なるは、是れ世界なり。今の善法を説きて後の善法を生ずるは、是れ為人なり。今の善法を以て今の悪法を破するは、是れ対治なり。善に非ず悪に非ざるは、是れ第一義なり。問ふて曰はく、人は善悪に通ず、何んぞ生善は是れ為人なりと言ふことを得ん。答ふ、善業は人の所乗為り、共善を生ぜしむるが故に為人と言ふなり。問ふ、為人は生善なり、秖だ応に善を生ずべし、那んぞ復た悪を断ぜん。答ふ、為人は生善なるは是れ旧是れ正なり、断悪は是れ傍是れ新なり。治の中、治悪は是れ旧是れ正なり、生善は是れ新是れ傍なり云云。三世隔別なるは、是れ世界なり。来世は是れ為人なり、現世は是れ対治なり、三世に非ざるは是れ第一義なり。四善根の内と外凡と隔別するは、是れ世界なり。煗頂は是れ為人なり、総別の念処は是れ対治なり、世第一法の真に近きは是れ第一義なり。見道と修道と異なるは、是れ世界なり。見道は是れ為人なり、修道は是れ対治なり、無学道は是れ第一義なり。非学非無学は是れ世界なり、見学は是れ為人なり、修学は是れ対治なり、無学は是れ第一義なり。世界悉檀の中に為人あり、為人の中に対治あり、対治の中に第一義あり、第一義の中には三悉檀無し云云。一の悉檀に通じて四悉檀あり、論に云はく、「陰・入・界の隔別せるは是れ世界、因縁和合するが故に人あるは是れ為人、正世界の邪世界を破するは是れ対治、正世界を聞きて悟入することを得るは是れ第一義なり」と。為人に四ありとは、雑業の因縁をもつて雑触雑受を得るは是れ世界なり、一事の中に於て或は聴すは是れ為人なり、或は聴さざるは是れ対治なり、人の触を得ること無く、人の受を得ること無きは是れ第一義なり。対治の中に四ありとは、仏、三種の法をもつて人の心病を治す。薬と病と異なるが故に是れ世界、人を治するは是れ為人、病に対するは是れ対治、実性則ち無きは是れ第一義なり。第一義の中の四とは、一切実より乃し四句に至るは是れ世界なり。仏と支仏との心中所得の法は豈に理善に非ずや、是れ為人なり。一切の語論、一切の見、一切の著は皆な破す可し、一切通ずること能はざるを第一義は能く通ず。是れ対治なり。言語の道断え、法、涅槃の如くたるは、是れ第一義なり。又通じて作らば、四悉檀不同なるは、通じて是れ世界悉檀なり。四悉遍く衆生を化するは、通じて是れ為人なり。四悉檀皆な邪を破するは、通じて是れ対治なり。通じて一種を聞くに皆能く道を悟るは、通じて是れ第一義なり。別して作らば、苦集諦に約して世界を明し、道諦の能治に約して為人を明し、道諦の所治に約して対治を明し、滅諦に約して第一義を明す。問ふ、論に依つて相を解するに已に足る。何ぞ多釈を用ふるや。答ふ、論に四悉檀に八万四千の法蔵を摂すと云へり、私に十五法に約して分別するに何の咎かあらん。
[7]三に釈成とは、四悉檀は是れ龍樹の所説、四随の禅経は仏の所説なり。今、経を以て論を成ずるに、義に於て弥明かなり。所謂る楽欲に随ふと、便宜に随ふと、対治に随ふと、第一義に随ふとなり。楽欲は因に従つて名を得、世界は果に従つて称を立つ。釈論に云はく、「一切の善悪は欲を其の本と為す」と。浄名に云はく、「先に欲の鉤を以て牽き、後に仏道に入ら令む」と。仏経には修因の相を挙げ、論には得果の相を明す。随楽欲を挙げて、世界悉檀を釈成するなり。随便宜とは、行人の宜しき所の法に随ふなり。各各為人とは、是れ化主、機を鑑みて其の可否を照すなり。論に云はく、「一事の中に於て或は聴し或は聴さず、宜しきには聴し、宜しからざるには聴さず」と。金師の子は数息に宜しく、浣衣の子は不浄に宜しきが如し。経には行者の堪宜を挙げ、論には化主の鑑照を明して以て釈成するなり。余の両種は、経論の名義同じ云云。
[8]四に諦に対すとは、直ちに一番の四諦に対することは前に説くが如し。広く四種の四諦に対することは、四種の四諦に一一に四悉檀を以て之を対す。復た総じて対せば、生滅の四諦を世界に対し、無生の四諦を為人に対し、無量の四諦を対治に対し、無作の四諦を第一義に対す。
[9]五に起観教とは、幽微の理は観に非ざれば明かならず、契理の観は悉檀に非ざれば起らず。従仮入空観を修する時、先に正因縁の法を観ず。此の法は内外親疎隔別す。若し殷勤に楽欲せざれば、則ち習ふ所成ぜず。必ず須らく、曉夜に精勤欣悅して斁ふこと無かるべし。此れ即ち世界悉檀をもつて初の観を起すなり。若し仮を観じて空に入らんと欲せば、須らく為人の便宜を識るべし。若し観を修するに宜しければ、即ち択・精進・喜の三覚分を用ひて之を起す。若し止を修するに宜しければ、則ち除・捨・定の三覚分を用ひて之を起す。念は両処に通ず。是を宜しきに随つて善心則ち発すと為す。若し沈浮の病あらば、須らく対治悉檀を用ふべし。若し心沈む時には、念・択・進・喜をもつて之を治す。若し心浮ぶ時には、念・捨・除・定をもつて之を治す。若し善く為人を用ふれば善根則ち厚く、若し善く対治を用ふれば煩悩則ち薄し。七覚の中に於て随つて一覚に依るに、怳然として失するが如し。即ち此の覚分に依つて研修するに、能く真明を発して第一義を見る。是を四悉檀を用ひて従仮入空観を起して、一切智を成じ、慧眼を発すと為すなり。若し従空入仮観は、巧みに四悉檀を用ひて道種智法眼を取ることも亦た是の如し。若は中道第一義観を修して、巧みに四悉檀を用ひて、一切種智仏眼を取ることも亦た是の如し。若は一心三観の巧用も亦た是の如し。
[10]起教とは、大論に云はく、「仏は常に黙然を楽ひて説法を楽はず」と。浄名にも亦た杜口を論ぜり。此の経に云はく、「言を以て宣ぶ可からず」と。大経に云はく、「生生不可説、乃至、不生不生不可説」と。又云はく、「亦た説くことを得べし、十因縁の法は生の為に因と作れば、亦た説くことを得べし。十因縁とは、無明より有に至るまでなり。此の十、衆生を成ず」と。四の根性を具して、能く如来の四種の法を説くことを感ず。若し十因縁所成の衆生、下品の楽欲あれば、能く界内の事善を生じ、拙度に惑を破し、法を析して空に入る。此の因縁を具するときは、如来、則ち生滅四諦の法輪を転じて三蔵教を起すなり。若し十因縁法所成の衆生、中品の楽欲あれば、能く界内の理善を生じ、巧度に惑を破し、法を体して空に入る。此の因縁を具するときは、如来、則ち無生四諦の法輪を転じて通教を起すなり。若し十因縁所成の衆生、上品の楽欲あれば、能く界外の事善を生じ、歴別に惑を破し、次第して中に入る。此の因縁を具するときは、如来、則ち無量四諦の法輪を転じて別教を起すなり。若し十因縁所成の衆生、上上品の楽欲あれば、能く界外の理善を生じ、一破惑一切破惑にして、円かに頓に中に入る。此因縁を具するときは、如来、則ち無作四諦の法輪を転じて円教を起すなり。
[11]復た次に一一の教の中に各各十二部経あつて、亦た悉檀を用ひて之を起す。若し十因縁法所成の衆生、正因縁の世界の事を聞かんことを楽へば、如来、則ち為に直ちに陰・界・入等の仮実の法を説く、是を修多羅と名く。或は四・五・六・七・八・九言の偈をもつて、重ねて世界の陰入等の事を頌す、是を祇夜と名く。或は直ちに衆生の未来の事を記し、乃至、鴿雀の成仏等を記す、是を和伽羅那と名く。或は孤起の偈をもつて世界の陰入等の事を説く、是を伽陀と名く。或は人の問無くして自ら世界の事を説く、是を優陀那と名く。或は世界の不善の事に約して而も禁戒を結す、是を尼陀那と名く。或は譬喩を以て世界の事を説く、是を阿波陀那と名く。或は本昔の世界の事を説く、是を伊帝目多伽と名く。或は本昔の受生の事を説く、是を闍陀伽と名く。或は世界の広大の事を説く、是を毘仏略と名く。或は世界未曾有の事を説く、是を阿浮陀連磨と名く。或は世界の事を問難す、是を優波提舍と名く。此は是れ世界悉檀をもつて衆生を悦ばしめんが為の故に、十二部経を起すなり。或は十二種の説を作して衆生の善を生ぜしめ、或は十二種の説を作して衆生の悪を破せしめ、或は十二種の説を作して衆生をして悟ら令む、是を四悉檀をもつて、三蔵の十二部経を起すと名く。
[12]若し十因縁法所成の衆生、空を聞かんことを楽ふ者には、直ちに為に五陰・十二入・十八界は即空ならずといふこと無しと説く。或は四・五・六・七・八・九言の偈をもつて、重ねて陰・界・入の即空を頌す。或は能く陰・入・界の即空に連する者には、便ち授記を与ふと説く。或は孤然として、陰・界・入の即空を説く、或は問ふこと無きに、自ら陰・界・入の即空を説く。或は陰・界・入の即空を知るを、名けて禁戒と為すと説く。或は如幻如化等を挙げて、陰・界・入の即空を喩ふ。或は本昔の世間国土の即空を説く。或は本生の陰・界・入の即空を説く。或は即空の広大なるを説く。或は陰・入・界の即空の希有を説く。或は陰・界・入の即空を難問す。是を随楽欲の世界悉檀をもつて、通教の十二部経を起すと為す。或は十二種を作して即空を説いて善を生ぜしめ、或は十二種を作して即空を説いて悪を破せしめ、或は十二種を作して即空を説いて理を悟ら令む。是を四悉檀をもつて、通教の十二部経を起すと為すなり。
[13]若し十因縁法所成の衆生あつて、一切の世界、一切の陰・界・入及び不可説の世界、不可説の陰・界・入等の事を聞かんと楽ふ者には、如来、即ち直ちに一切の正世界及び陰入等、一切翻覆世界及び陰入等、一切仰世界及び陰入等、一切倒住世界及び陰入等、一切の穢国、一切の浄国、一切の凡国、一切の聖国、是の如き等の種種の世界、不可説の世界、種種の陰・入・界、不可説の陰・入・界を説く云云。或は四言、乃至九言の偈を作して重頌す。或は孤起の偈なり。或は能く国土の陰・入・界を知る者には、即ち記を与へて成仏せしむ。或は能く知る者には、即ち禁戒を具せしむ。或は譬喩をもつて説く。或は昔の国土の事を説く。或は昔の受生の事を説く。或は広大の事を説く。或は希有の事を説く。或は論議の事を説く。是の如き等の十二種の説をもつて、其楽欲を悦ばしめ、或は其善を生ぜしめ、或は其悪を破せしめ、或は悟入せ令む。是を四悉檀をもつて、別教の十二部経を起すと名く。
[14]若し十因縁所成の衆生、不可説の国土、不可説の陰・界・入、皆是れ真如実相なることを聞かんと楽はば、即ち直ちに一切の国土依正は即ち是れ常寂光なり。一切の陰入は即ち是れ菩提なり。是を離れて菩提無し、一色一香も中道に非ずといふこと無し是を離れて別の中道無し、眼・耳・鼻・舌も皆な是れ寂静の門なり此を離れて別の寂静門無しと説く。或は偈を作して重頌す。或は孤起の偈を作す。或は無問自説を作す。或は知る者には記を与ふ。或は知る者には戒を具せしむ。或は譬説を作す。或は昔の世界を指す。或は本生を指す。或は広大を説く。或は希有を説く。或は論議を作す。是を楽欲に赴きて世界悉檀をもつて円教の十二部経を起すと為す。或は十二種の説を作して妙善を生ぜしめ、或は十二種の説を作して頓に悪を破せしめ、或は十二種の説を作して頓に理に会せしむ。是を四悉檀をもつて円教の十二部経を起すと為す。
[15]復次に別円両種の四悉檀を用ひて十二部経を説くは、是れ華厳教を起すなり。但だ一番の四悉檀を用ひて十二部経を説くは、是れ三蔵教を起すなり。若し四番の四悉檀を用ひて十二部経を説くは、是れ方等教を起すなり。若し三番の四悉檀を用ひて十二部経を説くは、般若教を起すなり。若し但だ一番の四悉檀を用ひて十二部経を説くは、是れ法華教を起すなり、大論に云はく、「四悉檀に十二部経を摂す」とは、其の義是の如し。
[16]地持に云はく。¬菩薩、摩得勒伽に入りて不顛倒論を造り、正法をして久しく禅に住することを得せ令めんが為に論を作るなり」と。菩薩、此の禅に住して衆生を観ずるに、仏、世を去りて後に於て根縁不同なれば論を作りて経を通ず。天親は両番の四悉檀を用ひて地論を造りて華厳を通ず。舎利弗は初番の四悉檀を用ひて毘曇を造り、五百の羅漢は、毘婆沙を造りて、三蔵の見有得道の意を通ずるなり。訶黎跋摩は、亦た初番の四悉檀を用ひて成実論を造りて三蔵の見空得道の意を通ずるなり。迦旃延は、亦た初番の四悉檀を用ひて昆勒論を造りて三蔵の見空有得通の意を通ずるなり。龍樹は、四番の四悉檀を用ひて中論を造りて、三番は正しく大乗を通じ、一番は傍らに三蔵を通ず。弥勒は、二番の四悉檀を用ひて地持を造りて華厳を通ず。無著は、亦た二番の四悉檀を用ひて摂大乗を造る。龍樹は、三番の四悉檀を用ひて大智度を造りて大品を通ず。天親は、一番の四悉檀を用ひて法華を通ず。世人伝ふらく、天親・龍樹は各涅槃論を作ると、未だ此の土に来らず、準例して知んぬ可し。又た五通の神仙、種種の諸論あり。釈天の善論、大梵の出欲論は、皆初番の悉檀を用ひて方便利益する意なり。書に云はく、「文行誠信、礼を定め詩を刪り、裕を後昆に垂る」とは、即ち世界なり。人を官どるに徳を以てし賞を世に延すは、即ち為人なり。叛けば之を伐ち故を刑するに小ること無きは、即ち対治なり。政清静に在り、道、天心に合して人王無上なるは、即ち世間の第一義悉檀なり。
[17]六に聖説・聖黙を起すとは、思益に云はく、「仏、諸の比丘に告げたまはく、汝等当に二事を行ずべし、若は聖説法、若は聖黙然なり」と。聖説は上に辨ずるが如し。聖黙然とは、夫れ四種四諦は並びに是れ三乗の聖人の所証の法なり下凡の知る所に非ず、故に説く可からず。仮令ひ之を説くとも盲人の為に燭を設くるが如く、何ぞ目無き者を益せん乎、故に説く可からざるを聖黙然と名く。華厳の中に、世界の不可説不可説を数へて理極の不可説不可説を明せるは、無量・無作の両番の四諦の不生生不生不生法に約して不可説を明せるなり。不可説なれば、聖黙然と名く。若は三蔵の中には、憍陳如比丘、最初に真実の知見を獲得す。寂然として声字無し。身子の云はく、吾れ聞く、解脱の中には言説あること無しとは、是れ生滅の四諦、生生の法に約して不可説を明す。不可説なれば、聖黙然と名く。浄名の杜口、大集に無言の菩薩あり。「智をもつて知る可からず、識をもつて識る可からず、言語の道断え、心行も亦訖んぬ、不生不滅、法、涅槃の如し」とは、此れ四番の四諦の不可説に約するなり。不可説なれば、聖黙然と名く。若は大品には、「句句悉く不可得なり。不可得とは、身を以て得べからず。心を以て得べからず、口を以て得べからず」と。此は三番の四諦の生不生・不生生・不生不生の法に約して、不可得を明す。不可得の故に、不可説なり。不可説なれば、聖黙然と名く。此経には、「止みなん止みなん説くべからず、我が法は妙にして思ひ難し、是法示すべからず、言辞の相寂滅す。言を以て宣ぶべからず、思量分別の能く解する所に非ず」と明す。此れ無作の四諦、不生不生の法に約して、不可説を明す。不可説の故に、聖黙然と名く。
[18]問ふ、他を楽せんが為の故に聖説法あり、自楽の為の故に聖黙然と名く、黙然は則ち他を益せざるや。答ふ、正しくは自楽の為にして、傍には亦た他を益す。若し人ありて文を厭ひて言語を好まざるには、是の人を悦ばしめんが為の故に聖黙然す。律の中に、他を福せんが為の故に供を受け、聖則ち黙然したまへるが如し。脇比丘の馬鳴を対破す、是の故に黙然するが如し。仏、結跏正念し身心動ぜずして、無量の人をして道跡を悟ることを得せ令むるが如し。是の故に黙然す。皆是れ四悉檀をもつて、此黙然を起して一切を利益するなり。何ぞ益無しと謂はん。問ふ、論に云はく、「四悉檀に八万四千の法蔵を摂す」と、其相如何ん。答ふ、賢劫経に云はく、「仏の初発心より去りて、乃至、舎利を分つまで凡そ三百五十の法門あり。一一の門に各六度あり、合して二千一百度なり。是の度を用ひて四分の煩悩を対破す、合して八千四百と成る。一変に約して十と為れば、合して八万四千なり」と。若し八万四千の法蔵の名を作さば、是れ世界悉檀の摂なり。八万四千の塵労門の名を作さば、為人悉檀の摂なり。八万四千の三昧、八万四千の陀羅尼門も亦た是の如し。若し八万四千の対治、八万四千の空門を作さば、対治悉檀の摂なり。若し八万四千の諸波羅密、八万四千の度無極を作さば、第一義悉檀の摂なり。又た一説には、仏地に三百五十の法門あり、一一の門に十善あり、合して三千五百の善なり。四分を治すれば、即ち一万四千なり、又た六根を治すれば、即ち八万四千なりと。
[19]七に得用不得用を明すとは、夫れ四悉檀は、独り如来にのみありて究竟じて具さに得、微妙に能く用ひたまふ。下地より已去は、得用不同なり。凡そ四句あり、得ず用ひず、得て用ひず、得ずして用ひ、亦た得亦た用ふ。凡天外道は苦集流転して尚ほ四悉檀の名字すら知ること能はず、誰か其の得を論ぜん。既に其れ得ず。云何んぞ能く用ひん。若し三蔵教の二乗は、殷勤に自ら行ずる者は苦を知つて集を断じ道を修し滅を証して真に入る、亦た名けて得と為す。衆生を度せざるが故に、用ふること能はず。仮令ひ用ふるも、機に差ひて当らず。故に浄名に満願を訶して云はく、「人根を知らずんば応に法を説くべからず。穢食を以て宝器に置くこと無かれ」と。富楼那は九旬に外道を化して反つて蚩笑せられ文殊は暫く往きて師徒皆な伏するが如きは、此は是れ楽欲を知らずして世界悉檀を用ふること能はざるなり。身子の如き二りの弟子を教ふるに善根発せずして更に邪疑を生ずるは、此れ為人悉檀を用ふること能はざるなり。五百の羅漢、迦絺那の為に四諦を説くに都べて利益無し、仏、為に不浄観を説くに即ち悪を破することを得るが如きは、此れ対治悉檀を用ふること能はざるなり。身子の福増を度せず、大医も治せざれば小医は手を拱ぬき、五百も皆な度せず、仏、度して即ち羅漢を得せしむるが如きは、此れ第一義悉檀を用ふること能はざるなり。支仏も亦た然り、是を得て用ひずと名くるなり。次に三蔵教の菩薩を明さば、苦集を知りて道を修すと雖も、止だ結惑を伏して未だ滅の証あらず。但だ三悉檀を得て未だ一を得ずと雖も、而も能く四を用ふ。所以は何ん、病導師の船栰を具足して、身は此の岸に在れども而も人を彼の岸に度するが如し。常に人を化するを以て事と為し、自ら未だ得度せざれども、先づ人を度す。是を得ずして用ふと為す。通教の二乗は体門巧なりと雖も、得て用ひざること三蔵と同じ。通教の菩薩は初心より六地に至りて、亦た得亦た用ふれども用ひて未だ巧みならず。七地に仮に入れば、其の用則ち勝るるなり。若は別教の十住は但だ析法・体法の両種の四悉檀を得て未だ用ふること能はず。十行に方に能く用ゆ。十廻向に進みて相似の四悉檀を得て、亦た能く相似に用ゆ。登地は分真に得て、亦た分真に用ゆ。円教の五品弟子は、未だ得て用ふること能はず、六根清浄は相似に得て用ゆ。初住は分真に得て用ふ。唯だ仏のみ、究竟じて得、究変じて用ゆ。
[20]八に四悉檀の権実を明さば、四諦に各四悉檀を辨ずることは、此れ通途の説のみ。釈論に云はく、「諸経に多く三悉檀を説きて第一義を説かず」とは、此れ三蔵を指すなり。三蔵は多く因縁生生の事相を説く、色を滅して空を取れば少しく第一義を説く。三蔵の菩薩に就かば、但だ三悉檀に約して四を明す。若し仏に就かば、即ち四を具す。爾りと雖も、終に是れ拙度にして権に小機に逗ずるなり。若は通教の四諦に四悉檀を明さば、法即ち真なりと体すれば、其の門則ち巧みなり。故に釈論に云はく、「今、第一義悉檀を説かんと欲するが故に、摩訶般若波羅密経を説く」と。仏と菩薩とに就かば、皆な四あることを得。而も方便の真諦に約して以て悉檀を明す、猶ほ権に属するなり。若し別教の四諦に四悉檀を明さば、中道に約すれば此の意則ち深し。而も猶ほ是れ歴別なり、別相にして未だ融ぜず。教道は是れ権なれば、此れ則ち妙に非ず。今、円教の四諦に四悉檀を明さば、其の相円融して最実の説なり。故に四悉檀は、是れ実、是れ妙なり。若し此権実を用ひて五味の教に約せば、乳教には則ち四権四実あり、酪教には但だ四権あり、生蘇には則ち十二権四実あり、熟蘇には則ち八権四実あり、涅槃には十二権四実あり、法華は四種倶に実なり云云。
[21]問ふ、三蔵の菩薩は四悉檀を得ると雖も、通教に望むれば但だ三悉檀と成る。今の通教を別教に望むるに如何ん。答ふ、二義あり、当通には是れ四を得たり、別に望むれば但だ三を得。問ふ、別教を円教に望むるに亦た爾りや不や。答ふ、例ならず、円別は証道同じきが故に。並して日はく、三蔵と通教と倶に真諦を証せば、亦た応に倶に四を得べしや。答ふ、三蔵は真諦同じと雖も、菩薩は惑を断ぜず。故に一を闕けり。円別は倶に惑を断ず是故に倶に四なり。又た並す、三蔵通等は四なりと雖も、而も三なれば、是れ権なる可し。別教は四にして三ならず、応に是れ権に非ざるべし。答ふ、三蔵と通教とは、教証倶に是れ権なり。故に但だ三にして四無し。別教は教道は権、証道は実なり。証に従へば則ち四なり、教に従へば則ち権なり。又た並す、証道には四あれども、教道には応に三なるべし。答ふ、若し地前を取つて教道と為さば、応に所問の如くなるべし云云。
[22]九に開権顕実とは、一切の諸法は皆な妙ならざること莫く、一色一香も中道に非ざること無し。衆生の情、妙を隔つる耳。大悲、物に順じて世と諍はず、是の故に諸の権実の不同を明す。故に無量義に云はく、「四十余年、三法・四果・二道合せず」と。今、方便の門を開して真実の相を示す。唯だ一大事の因縁を以て、但だ無上道を説き、仏の知見を開して悉く究竟の実相に入ることを得せ令む。化城を除滅するは、即ち是れ麁を決するなり。皆宝所に至るは、即ち是れ妙に入るなり。若し乳教の四妙は今の妙と殊ならず、唯だ其四権を決して今の妙に入る。是の故に文に云はく、「菩薩、是法を聞きて疑網皆な已に除こる」と、即ち此意なり。酪教の四権、生蘇の十二権、熟蘇の八権を決して皆妙に入ることを得せしむ。故に文に云はく、「千二百の羅漢、悉く亦た当に作仏すべし」と。又た云はく、「声聞の法を決了するに是れ衆経の王なり、聞き已つて諦かに思惟して無上道に近づくことを得」と。方等・般若に論ずる所の妙は、亦た今の妙と殊ならず。開権顕実、其の意此に在り。
[23]問うて曰はく、諸の権の悉檀を決して同じく妙の第一義と成すと、当に爾るべしと為んや不や。答ふ、権を決して妙に入るは、自在無礙なり。仮令ひ妙の第一義なるも、三を隔てず。三、一を隔てず、一三自在なり。今且らく一種の解釈を作すなり。若し諸の権の世界悉檀を決して妙の世界悉檀と為すは、即ち是れ釈名の妙に対するなり。亦た是れ九法界の十如是の性相の名は、同じく仏法界の性相と成る。一切の名を摂するなり。亦た是れ天性を会して父子を定め、更に与に字を作して之を名けて児と為す。「我は実に汝が父なり、汝は実に我子なり」と。若し諸の権の第一義悉檀決して妙の第一義悉檀と為すは、即ち経体の妙に対するなり。即ち是れ仏の知見を開して真実の相を示し、引きて宝所に至らしむるなり。若し諸の権の為人悉檀を決して妙の為人悉檀と為すは、即ち是れ宗の妙に対するなり。此経に云ふが如し、「各諸子に等一の大車を賜ふ」と。若し諸の権の対治悉檀を決して妙の対治悉檀に入るは、即ち是れ用の妙に対するなり。文に云はく、「此の宝珠を以て用ひて所須に貿へん」と。又た云はく、「此の良楽の如き今留めて此に在り、用ひて之を服す可し、差えずと憂ふること勿れ」と。経に云はく、「正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」と。「執を動じて疑を生ぜば、仏、当に為に除断して尽く余りあること無から令むべし」と。又云はく、「我れ已に漏尽を得れども、聞いて亦た憂悩を除く」と。若し是れ諸の権の四悉檀の同異を分別して、決して此経の妙の悉檀の中に入るれば、復た同異を見ず。「昔より未だ曾て説かざる所を、今皆な当に聞くことを得べし」と、即ち是れ妙にして同異ならず。即ち教相の妙に対するなり。即ち文に云ふが如し。「種種の道を示すと雖も、其の実は一乗の為なり」と。諸の同異を分別すと雖も、不同異を顕さんが為に無分別の法を説くなり。
[24]十に通経とは、問ふ、今、四悉檀を以て此の経を通ず、此の経の何れの文か四悉檀を明す耶。答ふ、文の中に処処に皆な此の意あり、具さに引くこと能はず。今略して迹本の両文を引かん。方便品に云はく、「衆生の諸行、深心の所念、過去の所習の業、欲性精進の力、及び諸根の利鈍を知りて、種種の因縁、譬喩、亦た言辞を以て、応に随つて方便して説くべし」と。此れ豈に是れ四悉檀の語に非ず耶。欲とは、即ち是れ楽欲にして世界悉檀なり。性とは、是れ智慧の性にして為人悉檀なり。精進力は、即ち是れ破悪にして対治悉檀なり。諸根利鈍は、即ち是れ両人、悟を得ること不同なり、即ち是れ第一義悉檀なり。又寿量品に云はく、「如来は明かに見はして錯謬あること無し。諸の衆生に種種の性、種種の欲、種種の行。種種の憶想分別あるを以ての故に、諸の善根を生ぜ令めんと欲して、若干の因縁、譬喩、言辞を以て種種に法を説く、所作の仏事、未だ曾て暫くも廃せず」と。種種の性とは、即ち是れ為人なり。種種の欲とは、即ち是れ世界なり。種種の行とは、即ち是れ対治なり。種種の憶想分別は、即ち是れ理を推し邪の憶想を転じて第一義を見ることを得るなり。両処の明文に四の義具足せり。而も皆な衆生の為に法を説くと言ふ、豈に四悉檀をもつて教を設けたまへる明証に非ずや。
[25]第二に別して五章を解す。初に釈名を四と為す、一には通別を判じ、二には前後を定め、三には旧を出し、四には正しく解す。
[26]妙法蓮華の名の衆典に異なるは別なり。倶に称して経と為すは通なり。此二名を立つるに凡そ三意に約す、謂はく、教と行と理なり。縁に従ふが故に教別なり、説に従ふが故に教通なり。能契に従ふが故に行別なり、所契に従ふが故に行通なり。理名に従ふが故に別なり、名理に従ふが故に通なり。略して説くこと竟んぬ。夫れ教は本と機に応ず、機宜同じからざるが故に部部別異なり。金口の梵声なれば、通じて是れ仏説なり。故に通別の二名あるなり。行に約すれば、泥洹真の法宝は、衆生、種種の門を以て入る。五百の比丘、各身因を説くが如し。仏の言はく、「正説に非ざること無し」と。三十二の菩薩、各不二法門に入る。文殊、善しと称す。大論に、阿那波那は皆な是れ摩訶衍なりと明す、不可得なるを以ての故なり。当に知るべし、行に従へば則ち別なれども、所契は則ち同じきことを。求那跋摩の云はく諸論各端を異にすれども、修行の理二無しと云云。理に約すれば、理は則ち不二なれども、名字は一に非ず。智度に云はく、「般若は是れ一法なり、仏、種種の名を説く」と。大経に云はく、「解脱も亦た爾り、諸の名字多きこと、天帝釈に千種の名あるが如し。名異なるが故に別なり。理一なるが故に通なり。今、妙法の経と称するは、即ち是れ教の通別なり。「各諸子に等一の大車を賜ふ、是宝乗に乗じて直ちに道場に至る」と、即ち行の通別なり。或は実相と云ひ、或は仏知見・大乗・家業・一地・実事・宝所・繋珠・平等大慧等と言ふは、即ち是れ理の通別なり。此の三義に約す、故に両名を立つるなり。
[27]問ふ、教主同じからざれば教を設くることも亦た異なり、云何んぞ金口の梵声を名けて教通と為すと言ふや。答ふ、此に両義あり。一に当分、二には跨節なり。当分とは、三蔵の仏の如し。種種の縁に赴きて種種の教を説く。縁異なるが故に教別なり、主一なるが故に教通なり、此の教に依つて行ずるに、能契と所契とあり。種種に理に名くれども、理は種種無し。経に言はく、「即ち纓珞を脱して弊垢の衣を著す」と。語つて言はく、「勤作して復た余かに去ること勿れ」と。并に「汝に価を加へん」と。及び「足に油を塗らしむ」と。此れ則ち。身口の行理、分に斉つて説く、余解を作すことを得ざるなり。通・別・円等の教・行・理の当分も亦た爾り。斯の義は解し易し、而も理は融じ難し云云。二に跨節とは、何れの処にか、別して四の教主の各各の身、各各の口、各各の説あらん。秖だ其の無量功徳の荘厳の身を隠して、現じて丈六紫金の輝と為る。甘甜常楽の味を説かずして、鹹酢無常の辛辣を説き、王者の服飾を棄てて糞器を執持するを名けて方便と為す。若し方便の門を開して真実の相を示さば、即ち向の身是れ円常の身、向の法是れ円の法、向の行向の理皆な即ち真実なり。此の如くなれば、通じて是れ一音の教なれども、小大差別あり。能契は長短あり、所契は唯だ一極なり。種種の名は一究竟に名く、唯だ一の究竟は衆名に応ず。此の如く教・行・理の通別を論ずることを作さば、相は則ち解し難く、理は則ち明め易し云云。
[28]二に妙法の前後を定むれば、若し義の便に従へば、応に先に法を明して却つて其の妙を論ずべし。下の文に云はく、「我法は妙にして思ひ難し」と。若し名の便に従へば、応に妙を先にし法を次にすべし。彼を美めんと欲して、称して好人と為すが如し篤く論ずるに、人無くんば何ぞ好と称する所あらん、必ず応に人を先にし好を後にすべし。今の題は名の便に従ふ、故に妙を先にし法を後にす。解釈は義の便による故に法を先にし妙を後にす。復た前後すと雖も、亦た相ひ乖かず云云。
[29]三に旧解を出す。旧解甚だ多し、略して四家を出す。道場の観の云はく、物に応じて三を説く、三は真実に非ず、終に其の一に帰す。之を無上と謂ふ、無上なるが故に妙なりと。経を引きて云はく、「是の乗微妙にして清浄第一なり。諸の世間に於て上あること無しと為す」と。又た云はく、言に寄せて象外を譚ず、而も其体、精麁を絶す、所以に妙と称す。又経を引く、「是の法は示す可からず、言辞の相寂滅す」と。会稽の基の云はく、妙とは同を表するの称なり。昔は三因異に趣き、三果殊別なれば妙と称することを得ず。北地師の云はく、理は則ち三に非ず、三教を麁と為す、非三の旨を妙と為す。此れ故同くして、而も辞は弱し。光宅の雲の云はく、妙とは一乗因果の法なり。昔の因果の各三麁あるに待して、今の教の因果に各三妙あり。昔の因果の麁は、因の体狭く、因の位下く、因の用短し。声聞は四諦を修し、支仏は十二因縁を修し、菩薩は六度を修す。三因差別して相ひ収むることを得ざれば、因の体是れ狭し。昔は第九の無礙道の中に行ずるを菩薩と名く。伏道にして断ぜざれば未だ三界を出でず、故に因の位下しと名く。第九の無礙に止だ四住を伏して無明を伏せず、故に用短しと言ふ。是を昔の因の三義の故に麁と為す。昔の果の麁とは、体狭く位下く用短し。有余無余にして衆徳備はらず、故に体狭しと云ふ。位、化城に在りて変易を出でず、故に位下しと言ふ。第九の解脱に止だ四住を除いて無明を破せず。又た八十年の寿、前は恒沙を過ぎず、後は上数に倍せず、是故に用短し。是を昔の果の三義の故に麁と為す。今日の因は体広く、位高く、用長しとは、三を会して一と為し、万善を収束す、故に体広しと云ふ。止だ界内の無礙道の中に行ずるのみに不ず、界外に出でて菩薩の道を行ず、故に位高しと言ふ。無礙に惑を伏すること止だ四住のみに不ず、進んで無明を伏す、故に用長しと云ふ。今の因の三義は妙がなり。今の果の三義の妙とは、体広く位高く、用長し。体に高徳を備へ衆善普く会す、故に体広しと言ふ。位、宝所に至る、故に位高しと言ふ。五住の惑を断じ神通をもつて寿を延べて衆生を利益す、故に用長しと言ふ。今の果、三義の故に妙なり。即ち是れ一乗因果の法妙なり。
[30]今古の諸釈、世に光宅を以て長と為す。南方に大乗を釈するを観れば、多く 肇・什を承けたり。肇・什は多く通の意に附す。光宅の妙を釈する、寧ぞ遠きことを得ん乎。今、先に光宅を難ず、余は風を望まん云云。
[31]因体広狭の四難とは、若し昔の因の体狭ければ麁と為すと謂はば、何を指して昔と為す。若し三蔵等を指さば然る可し、若し法華已前を指して皆な称して昔と為さば此れ応に爾るべからず。何となれば、般若に「一切法皆摩訶行なり」と説く、運載せざること靡し。思益に明さく、「諸法の相を解す、是れ菩薩の遍行なり」と。華厳は法界に入るに祇洹を動ぜず。浄名には、「一念に一切の法を知る、是を座道場と為す」と。昔の因、此の如し。所として収めざる無し、若為ぞ是れ狭ならん。若し今の因の体広しと言はば、那んぞ忽ちに法華に一乗を明すは是れ了、仏性を明さざるは是れ不了なりと言ふや。那んぞ復た法華に縁因を明すは是れ満、了因を明さざるは是れ不満と言ふや。那んぞ復た前は恒沙に過ぎ後は上数に倍すれども、猶ほ是れ無常の因と言ふや。既に無常の因を以てす、那んぞ常果を得ん。因果倶に無常ならば、此の無常の人那んぞ仏性を見ん。了義に非ざるが故に、体、行一を収めず。満字に非ざるが故に、体、教一を収めず。常住に非ざるが故に、体、人一を収めず。仏性を見ざるか故に、体、理一を収めず。当に知るべし、今の因は狭が中の狭なることを。狭は則ち是れ麁なり。昔の体は既に広し、昔し還つて是れ妙ならん。此の一難已に麁妙を知らしむ、薳復た具さに後の難を作る耳。
[32]因位高下の四難とは、般若は是れ無上明呪、無等等明呪なり、上人、応に上法を求むべし、因の教則ち下からず。大論に云はく、「菩薩、三界の外に出でて法性身を受けて菩薩の行を行ず」と、因の位則ち下からず。浄名に菩薩の徳を歎じて、¬無等等の仏の自在慧に近し」と。「十方に魔王と作る者、皆な是れ不可思議解脱に住す」と。則ち因の人下からず。浄名に云はく、「仏道を成じて法輪を転ずと雖も、而も菩薩の道を行ず」と。又た云はく、「諸仏の秘蔵に入ることを得ざる無し」と、則ち理を見ること下からず。是の如きの因の位、四一皆な高し、云何んぞ麁と云はん。若し今の因の位高しと言はば、教那んぞ忽ちに是れ第四時ならん、位那んぞ忽ちに無礙道に住して無明を伏せん、人那んぞ忽ちに是れ生死の身にして法性の身に非ざる、理那んぞ忽ちに無常にして仏性を見ざる。当に知るべし、今の因は皆な四一無く、其の位下くして麁なり。昔の因は四一を具す、高くして妙なることを。
[33]因の用の長短の四難とは、釈論に云はく、「処処に破無明三昧を説く」とは、是れ教の用長きなり。「是事を知らざるを、名けて無明と為す、仏の一切種智は一切の法を知る。明と無明と二無し。若し無明不可得と知らば、亦た無明無し、是を不二法門に入ると為す」と。是れ則ち行長きなり。又た一日、般若を行ずれば、日の世を照して蛍火虫に勝るるが如し。若し人、薝蔔林に入れば余香を嗅がず、誰か復た二乗の功徳を楽はん。座するに礼することを須ひず、華の身に著かざるは、皆是れ阿惟越の類なり。則ち人の用長きなり。「色無辺の故に般若も亦た無辺なり。受想行識無辺の故に、般若も亦た無辺なり」と、是れ則ち理長きなり。当に知るべし、昔の教・行・人・理は倶に長し、長きが故に是れ妙なることを。若し今の因の用長しと謂はば、那んぞ復た法華は是れ覆相の教と言はん、教は則ち短なり、行は覆相なれば、行則ち短なり。覆相は仏性を明らめざれば、理は則ち短なり。四一既に闕けたり、今は短にして麁なり。昔の用既に長し、長ければ則ち是れ妙なり。
[34]果体広狭の四難とは、若し昔の果の体は是れ有余無余にして衆徳を備へざれば狭と為し麁と為すといはば、此れ豈に然らん乎。般若は是れ仏母、十方の仏皆な護る。浄名に云はく、「未だ曾て此の実相の深経を聞かず」と。当に知るべし、昔の果の体に衆徳を備ふることを。若し今の果の体広しと謂はば、応に満と了とを備ふべし。何が故ぞ復た、亦た満不満亦た了不了と言はん。何が故ぞ復た、仏果無常、亦た我楽浄等無し、衆徳欠然なりと言はん。広の義安んぞ在らん。若し体広ければ、法身は応に一切処に遍ずべし。何が故ぞ復た、寿は止だ八十、或は七百阿僧祇なるがごとく、灰断して滅に入り、此を去つて彼に至らずと言はん耶。若し体広しと言はば、応に五眼を備へて仏性を見るべし。当に知るべし、今の果は四一を闕く、狭にして是れ麁なり。今を将つて昔に望むるに、昔し還つて是れ妙なることを。
[35]果位高下の四難とは、今の果の位若し高ければ、教を設くること何んぞ第五の教の下に在ることを得ん。行那んど無常を出でざる、人那んぞ変易を出でざる、理那んぞ秘蔵を窮めざる。当に知るべし、今の果の位は四一を闕く、皆な下く皆な麁なり。昔の果位に四一を具すれば、皆な高く皆な妙なることを。
[36]果用長短の四難とは、若し今の果の用長ければ、教何んぞ常住を明さざる。行何んぞ頓に無明を破せざる、人何んぞ即是れ毘盧遮那ならざる、理何んぞ即ち是れ秘蔵ならざる。当に知るべし、今の果に妙法あること無し、豈に麁に非ず耶云云。而も復た神通延寿と言ふ、是れ何の神通ぞや。若し作意の神通ならば、彼の外道と同じ。若し無漏の神通ならば、彼の小乗に同じ。若し実相の神通ならば、則ち延に非ず不延に非ず、能く延べ、能く延べず。能く延ぶれば、何ぞ止だ寿のみを延べて、而も眼を延べて仏性を見せ令めざる、何んぞ舌を延べて常住を説かざる。眼、性を見ず、則ち知んぬ、実相の神道に非ざることを。麁に非ずして何とか謂はん。前の一難に已に麁を知る、後の難重ねて来る耳。彼れ因果の六種を作して以て麁妙を判じ、又た四一を以て専ら妙を判ず。今其の麁を難ずるに皆な四一を備れば、則ち昔の麁は麁に非ず。其妙を難ずるに全く四一無ければ則ち今の妙は妙に非ず。其一句に於て四句の難を設け、四六二十四なる耳。彼の矛盾を用ひて自ら相ひ撃つが故に、盈ならず、縮ならず、応に爾許なるべき耳。