[1]三に二諦の境に対して智を明さば、権実の二智なり。上の真俗二諦に既に七種を開く、今の権実の二智も亦た七番と為す。内外の相即と不相即とにて四なり、三の相接を合して七なり。若し上に対して之を数ふれば、析法の権実二智、体法の二智、体法含中の二智、体法顕中の二智、別の二智、別含円の二智、円の二智あり。上の七番に各随情・随情智・随智を開して、合して二十一種の諦なり。今の七番の二智も亦た各三種を開す、化他の権実、自行化他の権実、自行の権実を謂ふ。合して二十一の権実なり。若し析法の権実の二智は、森羅の分別を照すを権智と為し、森羅の分別を尽すを実智と為す。此の二智を説きて種種の縁に逗じて種種の説を作し、種種の欲、種種の宜、種種の治、種種の悟に随ひ、各堪任するに随つて縁に当りて分別す。復た種種なりと雖も、悉く析法の権実の所摂と為す。故に化他の二智あり、化他の二智は随縁の説なれば皆な束ねて権智と為す。若し内に自ら証得するに、若は権若は実、倶に是れ実証なれば、束ねて実智と為す。内外相望して共に二智と為す、故に自行化他の権実の二智あるなり。自証の権実に就かば、唯だ独り明了にして余人は見ず。更に権実を判ず、故に自行の二智あるなり。今更に三蔵に約して重ねて之を分別す。此の仏、二乗の人を化するには多く化他の実智を用ひ、二乗は此の化他の実を禀けて自行の実を修成す。故に仏、迦葉を印して云はく、「我と汝と倶に解脱の床に座す」と、即ち此の義なり。若し菩薩を化するには多く化他の権実を用ひ、其の化他の権を禀けて修学して自行の権を成ずることを得。仏、亦た印して言はく、「我も亦た汝の如し」と云云。此の三種の二智は、若し体法の二智に望むれば悉く皆な是れ権なり。故に龍樹、破して云はく、豈に不浄の心中に菩提の道を修することあらんや。猶ほ毒器の食を貯ふるに任へず、食すれば則ち人を殺すが如しと。此れ正しく析法の意を破するなり、故に皆な是れ権なり云云。体法の権実の二智とは、森羅の色は則ち是れ空なりと体す。即色は是れ権智、即空は是れ実智なり。大品に云はく、「色に即して是れ空なり、色滅して空なるに非ず」と、正しく是れ此の義なり。縁の為に二と説くも、縁別不同なれば説も亦た種種なり。復た異説すと雖も、悉く化他の権実の為に摂せらる。故に化他の二智あり。化他の二智は既に是れ随情なれば、皆な束ねて権と為す。内証の権実は既に是れ自証なれば悉く名けて実と為す。自の実を以て他の権に対す、故に自行化他の二智あるなり。自の証得に就て又た権実を分つ、故に自行の二智あるなり。此の三の二智を含中の二智に望むれば、復た皆な権と名く。何となれば、中道無きが故なり云云。体法含中の権実の二智とは、色即ち空不空なりと体すれば、色を照すは是れ権智、空不空は是れ実智なり。此の二智を説きて無量の縁に赴き、情に随ひて異説す。復た無量なりと雖も、悉く是れ含中の二智の所摂なり。故に化他の二智あり。化他の二智は本と是れ逗機なれば、皆な名けて権と為す。自証の二智は皆な名けて実と為す。自証の二智に於て更に権実を分つ、故に自行の二智あり。此の三の二智は顕中の二智に望むるに、悉く皆な是れ権なり。何となれば、空真及び教道の方便を帯するが故なり。又た体法顕中の権実の二智とは、色即ち空不空にして、一切法は空不空に趣くと体す。色を了するは是れ権智、空不空にして一切の法空不空に趣くは是れ実智なり。縁の為に二を説くも、縁既に無量なれば説も亦た無量なり。無量の説悉く顕中の二智の所摂と為す、故に化他の二智あり。化他の二智は既に是れ随縁なれば悉く名けて権と為す。自証の二智は既に是れ証得なれば、悉く名けて実と為す。自を以て他に望む、故に自行化他の二智あり。自証の二智に就て更に権実を分つ。此の三の二智は別の権実の二智に望むれば、悉く皆な是れ権なり。何となれば即空及び教道の方便を帯するが故なり。別の権実二智とは、色即ち空不空なりと体す。色と空は倶に是れ権智、不空は是れ実智なり。此の二智を以て百千の縁に随ひて種種に分別す。分別すること多しと雖も、悉く次第の二智の所摂と為す。故に化他の二智あり。化他の二智は悉く是れ縁の為なれば、皆名けて権となす。自証の二智は既に是れ証得なれば、悉く名けて実と為す。自を以て他に対す、故に自他の二智あり。自証の権実に就いて自ら二智を分つ、故に自行の二智あり。此の三の二智は別含円の二智に望むれば、悉く復た是れ権なり。何となれば、次第を以ての故に、教道を帯するが故なり。別含円の権実の二智とは、色空不空にして一切の法、不空に趣く。色と空とを権智と名け、一切法の不空に趣くを実智と為す。此の二智を以て百千の縁に随ひて種種に分別す。分別すること多しと雖も、悉く別含円の二智の所摂となす、故に化他の二智あり。化他の二智は既に是れ縁の為なれば、悉く皆な是れ権なり。自証の二智は既に是れ証得なれば、悉く名けて実と為す。自他相望して共に二智と為す、自の証得に就て更に権実を分つ、故に自行の二智あり。此の三の二智を円の二智に望むれば、悉く復た是れ権なり、何となれば、次第及び教道を帯するが故なり。円の権実二智とは、色に即して是れ空不空なり、一切の法、色に趣き、空に趣き、不空に趣く。一切法の色に趣き空に趣くは是れ権智、一切法の不空に趣くは是れ実智なり。此の如きの実智は即ち是れ権智、権智は即ち実智にして二無く別無し。衆生を化せんが為に種種に縁に随ひ、欲に随ひ、宜に随ひ、治に随ひ、悟に随ひて種種に説くと雖も、悉く円の二智の所摂と為す、故に化他の二智あり。化他の二智は既に是れ随情なれば、悉く復た是れ権なり。自証の二智は悉く名けて実と為す。自証の中に就て更に二智を分つ、故に三種の不同あるなり。此の二智は折法等の十八種の二智の方便を帯せず、唯だ真の権、真の実あるを仏の権実と名く。経の如くんば、「如来の知見は広大深遠にして、方便波羅蜜皆な悉く具足す」と。独り称して妙と為し、前を待して麁と為す。又た折法の二智より顕中の二智に至るまで凡そ十二種の二智は、前を待して皆な名けて麁と為し、顕中を妙と為す。何を以ての故に、此の妙は後の妙に異ならざるが故なり。又た次第の二智より凡そ九種の二智は前に待して麁と為し、不次第を妙と為す。又た前の十八種の二智は皆な麁にして唯だ不次第の三種を妙と為す。又た不次第の二種を麁と為し、一種を妙と為す。又た五味の教に歴れば、乳教に三種、九種の二智を具し、酪は一種と三種の二智、生蘇は四種、十二種の二智、熟蘇は三種、九種の二智を具す。此の経は但だ二種、三種の二智なり。若し酪教の中は権実皆な麁、醍醐の教の中は権実皆な妙なり。余の三味の中は権実に麁あり妙あり、意を以て推す可し。若し上の如く諸智を釈することを作さずんば、経論の異説、意則ち解し難し。何となれば、華厳に初住心を解して云はく、「三世の諸仏も初住の智を知らず」と。世人釈して云はく、如実智は仏も自ら仏の如実智を知らず、亦た初住の如実智をも知らずと。此の釈は自ら理に於て通ずと為すと謂へども、其の実は允らず。若し蔵通等の仏は如実智を論ぜず、云何んぞ自の如実智に於て知らざらん耶。別教の初住も如実智を得ず、云何んぞ不知と言はん。若し前来の諸智の意を得ば、三世の三蔵の仏は円教の初住の智を知らず。此れ即ち事理の二釈倶に滞り無し。此の中の義に二種を兼ぬ、一には二十一種の権実を分別し、二には麁に待して妙を論ず。上に説くが如し。若し麁を開して妙を顕さば、諸の方便の諦も既に融じて妙諦と成る。諦に対して智を立つるも悉く復た麁に非ず。賎人の舎も、王若し過ぐれば舍則ち荘厳するが如く、衆流の海に入れば同一鹹味なるが如し。諸の麁智を開すれば、即ち是れ妙智なり。

 [2]二智多く関はる所あり、須らく商略して類通すべし。今、七種の二諦に対して二十一種の権実を明し、以て章門と為す。若し此の意を得れば、因縁の境に約するも亦た応に此の如くなるべし。謂はく、析の因縁の智、体の因縁の智、含中の因縁の智、顕中の因縁の智、次第の因縁の智、帯次第の因縁の智、不次第の因縁の智、一一に各化他・自行化他・自行等の三種の分別あり。合して二十一種あり。麁妙を分別し、五味の多少を判じ、待絶を論ずる等、四諦・三諦・一諦等も亦た応に是の如くなるべし。当に自ら之を思ふべし、何んぞ煩はしく具さに記せん。

 [3]問ふ、随情の諦及び化他の智は、何の意ぞ無量なる。随智の諦及び自行の智は、何の意ぞ多からざるや。答ふ、秖だ一人未得道の時に約するに、見心横に起り邪執無窮なり。何に況んや多人の種種各異なるをや。是の義の為の故に随情は則ち多し。智の理を見るは、理は唯だ一種にして異りあることを得ず云云。

 [4]夫れ二諦の差別は已に上に説くが如し。此の七の権実、二十一の権実を説くに、頗る世人の所執の義を用ふるや不や。頗る世人の所説の語に同ずるや不や、頗る諸論の所立の義を用ふるや不や。既に世人に従はず、亦た文疏に従はず。特に是れ大小乗の経を推して此の釈を作す耳。若は破若は立、皆な是れ法華の意なり。若し巧拙相ひ形せば、通経の二智を以て三蔵経の二智を破し、乃至次第不次第相ひ形して、円経の二智を以て別経の二智を破す。方便の諸経は智を明すこと既に麁なれば、通経の論豈に妙とすることを得んや。経論既に爾り、経論を弘むる人何んぞ労はしく撃射せん。其の所説に任じて自ら堕する所あり。若し生滅と作して権実を解せば、初番に堕在す。若し不生不滅と作して解せば、第二番に堕す。乃至第七番も亦た知んぬ可し。又た縦ひ広く経論を引きて己が義を荘厳する者も亦た初番の随情の二諦化他の権実を出づることを得ず。況んや、初番の第二第三の権実を出でんや。尚ほ初番の三種の権実を出でず、況んや第七番の三種の権実をや。若し但だ初番の二智を以て、一切世間の情執を破して略ぼ尽く。仮令ひ化城に入ることを得るも、秖だ是れ自行の実智なり。尚ほ化他の権をも得ず、何に況んや能く後番の諸智を得んや。若し二十一種の二智を尋ぬれば、凡そ幾くの外見を破し、凡そ幾くの権の経論を破す。復た幾くの是を顕はし、幾くの権の経論を立て、然して後、方に妙権妙実と称す。世人は全く一両種の権実の意を識らず、而して情中即ち計して智と為す。若し是れ智なれば、何の惑をか破し何の理をか見るや。未だ理を見ず、未だ惑を破せず。生死浩然たり。情に非ずして何とか謂はん。今若し前の諸の麁智に待して而も妙智を明すは、法華破待の意なり。若し其れ会せば、一切の権の経論に明す所の諦理皆な妙理と成る。智地に非ざること無し。一切の権の経論に明す所の二智を会するに、妙智に非ざること無し、悉く是れ大車なり。此の如きの破会は深く広し、中論を以て相ひ比すること莫れ、熟之を思ふ可し云云。

 [5]四に三諦に対して智を明さば、上に五の三諦を明し竟りて、今更に分別す。夫れ三智は十法界を照す、十を束ねて三と為す。有漏と無漏と非有漏非無漏とを謂ふ。三法相入して分別するに五あり、初には謂はく、非漏非無漏の無漏に入るを、漏無漏に対して三法と為す。二には謂はく、一切法の無漏を入るるを、漏無漏に対して三法と為す。三には謂はく、漏・無漏・非漏非無漏を三法と為す。四には謂はく、一切法の非漏非無漏に趣くを、漏無漏に対して三法と為す。五には謂はく、一切法の漏に趣き、無漏に趣き、非漏非無漏に趣くを三法と為す。更に五境を説くこと竟んぬ。

 [6]此の五境に対して五の三智を明さば、一切智・道種智・一切種智を謂ふ。三智相入して五種不同なり。一には中智の空智を入るるを道智に対して三と為す。次に如来蔵智の空智を入るるを道智に対して三と為す。次に中智を両に対して三智と為す。次に如来蔵の智の中智を入るるを、両智に対して三智と為す。次に円の三智なり、是を五差と為す。中智の空智を入るるを分別して三智と為すは、初に無漏に依つて一切智を発し、次に有漏に依つて道種智を発し、後には深く無漏の空を観じて空も亦た空なりと知りて一切種智を発す。然るに初心は空の空なることを知らず、次に空を得と雖も亦た空を空ぜず、後に能く深く空を観じて前の空を空ず。但だ二空の名同じく、二境も亦た合す。故に相入と言ふ。今若し分別せば、無漏の空を以て一切智と為し、有漏の空を道種智と為し、中道の空を一切種智と為す。世人は経論の意を採りて云はく、六地に惑を断ずるは羅漢と斉し、七地に方便道を修し、八地に道観双流して無明を破し成仏すと。即ち此の意なり。如来蔵智の空智に入るに三智を分別せば、漏無漏に依つて一切智・道種智を発するは前に異ならず。而も後に別の境に因らずして更に中智を修す。但だ深く空を観じて能く不空を見る、不空は即ち如来蔵なり。蔵と空と合す、故に相入と言ふ。深く空を観じて不空を見るを以ての故に、一切種智を発す。前の中道の智は但だ別理を顕はす。理と智と諸法を具せず。蔵理、蔵智は一切の法を具す、故に前に異なる。蔵智を以て両智に対して三智と為す。大経に云はく、「声聞の人は但だ空を見て不空を見ず、智者は空及与び不空を見る」と。大品に云はく、「一切智は是れ声聞の智、道種智は是れ菩薩の智、一切種智は是れ仏の智なり」と、即ち此の意なり。中智を両に対して三智と成さば、各一境を縁じて各一智を発す。次第深浅相ひ濫入せず。故に地持に云はく、「種性の菩薩は発心して二障を除かんと欲し、有仏無仏決定して能く次第に諸の煩悩を断ず」と、即ち此の意なり。如来蔵の智の中智に入るを三智と為すは、両智は前に異ならず。一切種智は少しく異なる。何となれば、前に中の境を明すは直ちに中の理而已。此の理を顕はさんと欲せば、応に万行を修すべし。理を顕はすの智なるが故に、一切種智と名くる耳。今、如来蔵の理は一切の法を含ず、直ちに理を顕はすの智を一切種智と名くるのみに非ざれば、前と異なりと為す。此の智を用ひて前に対して三智と為す。故に地論師の云はく、縁修は真修を顕はす、真修発する時は縁修を須ひずと。前の両智は即ち是れ縁修なり、後の智発する時は即ち是れ真修なり。真修は一切の法を具せば、余を須ひず、即ち是れ此の義なり云云。円の三智とは、有漏は即ち是れ因縁生の法、即空即仮即中なり。無漏も亦た即空即仮即中なり。非漏非無漏も亦た即空即仮なり。一法即ち三法、三法即ち一法、一智即ち三智、三智即ち一智、智即ち是れ境、境即ち是れ智にして融通無礙なり。此の如きの三智は、豈に前に同ぜんや。釈論に云はく、「三智、一心の中に得て前無く後無し」と、人に向つて説いて解し易からしめんが為の故に、三智の名を作して説く耳。即ち是れ此の意なり云云。若し智を顕はさんと欲せば、要らず観成を須ゆ。汎く観智を論ずるに倶に因果に通ず、別すれば則ち観とは因、智は果なり。例せば仏性の因果に通ずるが如し。別すれば則ち因ぞ仏性と名け、果を涅槃と名く。今は別の義に就て観を以て因と為し、智の果を成ず。纓珞に云ふが如き、従仮入空を二諦観と名け、従空入仮を平等観と名け、二観を方便道と為して中道第一義諦観に入ることを得と。今、従仮入空観を用ひて因と為して果を成ずることを得るを一切智と名く。従空入仮観を用ひて因と為して道種智の果を成ずることを得。中観を用ひて因と為して一切種智の果を成ずることを得るなり。上に智を明すに略して五種あり、今、観成を以ても亦た応に五種あるべし。細かに作ること知んぬべし、修観の義は止観の如し云云。

 [7]麁妙を言はば、蔵通の両仏に一切種智の名ありと雖も、更に別の理無し。別の惑を破せざれば此智成ぜず、故に用ひざるなり。中入空の智は中道を説くと雖も、通門を因として而も両智を成ず。後の中道を照すも広大の用無し。拙教を因とすれば、果又た融ぜず、是の故に麁と為す。次に如来蔵入空の智とは、教の果理融ずと雖も因は是れ通門なれば、亦た名けて麁と為す。中を二智に対せば、通を因とせずと雖も、而も三智別異なり、果と教と未だ融ぜず、是の故に麁と為す。如来蔵入中とは、果に在りて融ずと雖も因は是れ別門なれば、此の因も亦た麁なり。円の三智とは、因も円、果も円、因も妙、果も妙、諦も妙、智も妙なり。正直に方便を捨てて但だ無上道を説く、是の故に妙智と為す。若し五味の教に歴れば、乳教に三種の三智あり、酪教には一種の三智あり、生蘇には五種の三智を具し、熟蘇も亦た五種の三智を具す。麁妙は知るべし。法華は但だ一種の三智なり、此は是れ法華の破の意なれば即ち相待妙なり。麁を開して妙を明さば、世智無道の法も尚ほ邪相を以て正相に入る、治生産業皆な実相と相ひ違背せず。低頭挙手にも、麁を開して妙を顕はし、悉く仏道を成ず。何に況んや三乗出世の智をや。故に大経に云はく、「声聞縁覚は亦は実、亦は虚なり」と。煩悩を断ずるが故に之を名けて実と為し、常住に非ざるが故に之を名けて虚と為す。凡夫は未だ煩悩を断ぜざれば、実無くして唯だ虚なり。尚ほ麁を開して妙に入る、即ち是れ大乗なり。何に況んや、二乗の智をや。二乗の智は根敗し必死すとも、尚ほ還つて生ずることを得。何に況んや、道種の智をや。此の如く開する時は、一切都て妙なり、実相に非ざること無し。七宝の大車其の数無量なりとは、此は是れ法華の会の意にして即ち絶待妙なり。

 [8]五に一諦に対して智を明すとは、即ち是れ如実智なり。釈論に云はく、「諸水、海に入れば同一鹹味なり」と。諸智も如実智に入れば本の名字を失す。故に知んぬ、如実智は総じて一切の智を摂し、純ぱら一境を照す、故に衆水を総べて倶に一鹹と成すことを。若は十智に待するを麁と為し、如実智を妙と為す。若は諸の実智に待すれば、諸の実智を麁と名け、中道如実智を妙と名く。若は麁を開して妙を顕はさば、但だ諸の実智を妙と為すのみに非ず、十智も亦た妙と為す云云。

 [9]無諦無説とは、既に無諦と言ふ、亦復た無智なり。若し諸処に歴て無諦を明さば、余の方便の無諦無智を麁と為し、中道の無諦無智を妙と為す。若し杜に絶言の無諦無智を以てせば、亦た麁無く妙無く、待無く絶無し。一切法に歴て皆な麁無く妙無きなり。

 [10]二に展転して相ひ照すとは、六番の智の前の諸境を伝照す。思議の因縁の下智、中智は六道の十如の性相等を照す。下、中の二智の十二因縁の滅を観ずるは、二乗の十如の性相等を照す。上智は菩薩の性相本末等を照し、上上智は仏法界の性相本末等を照す。四種の四諦の智の十法界を照すは、生滅、無生等の苦集の智は、六道の十如の相性を照し、生滅、無生の道滅の智は、即ち是れ二乗の十如の相性を照す。無量、無作の苦集の智は、菩薩界の性相等を照し、無量、無作の道滅の智は、仏法界の相性本末等を照す。四種の四諦の智の四の十二因縁を照すは、生滅無生の苦集の智は、思議の両の十二因縁を照し、生滅、無生滅の両の道滅の智は、是れ両の思議の十二因縁の滅を照すなり。無量、無作の両の苦集の智は、不思議の両の十二因縁を照し、無量、無作の道滅の智は不思議の両の十二因縁の滅を照すなり。七種の二智の十法界を照すは、生滅、無生滅の両の権智、及び入通等の二を合する四の権智は、六道の性相を照す。生滅、無生滅の両の実智は、二乗の性相等を照す。別の権と円入別の権との有の辺は、是れ六道の性相を照し、無の辺は是れ二乗の性相を照す。円の権は、則ち通じて九界の性相を照す。別入通の実は、空の辺は是れ二乗の性相、不空の辺は是れ菩薩の性相なり。円入通の実は、空の辺は是れ二乗の性相、不空の辺は是れ仏界の相性を照す。別の実は是れ菩薩の性相を照す。円入別の実と円の実とは、倶に仏法界の相性を照すなり。七種の二智の四種の因縁を照すは、前の四の権は是れ思議の両の十二縁を照す。別の権と円入別の権は、有の辺は是れ両の思議の十二縁を照し、無の辺は是れ両の十二因縁の滅を照す。円の権は則ち通ず云云。別入通の実は、空の辺は是れ思議の十二縁の滅を照し、不空の辺は是れ不思議の十二縁を照す。円入通の実は、空の辺は上に同じく、不空の辺は是れ不思議の十二縁の滅を照す。別の実は不思議の両の十二縁の滅を照し、円の実は両の不思議の十二縁の滅等を照す。前の四種の権智は是れ生滅、無生滅の両の苦集を照し、又た三の権智は無量、無作の苦集を照す。二の実智は是れ思議の両の道滅を照す。又た五の実智は是れ不思議の両の道滅を照す。五種の三智、十法界を照すは、五種の道種智は六道の性相本末等を照す。五種の一切智は二乗菩薩の性相本末等を照す。五種の一切種智は仏法界の十如の相性等を照す。又た五種の三智の四種の十二因縁を照すは、五種の有の智は思議の両の十二縁を照し、五種の一切智は両の思議の十二縁の滅を照し、又た是れ不思議の十二縁を照す。五の一切種智は是れ両の不思議の十二縁の滅を照す。五種の三智の四種の四諦を照すは、五の道種智は生滅無生の両の苦集を照し。五種の一切智は生滅無生の両の道滅を照し、亦た是れ無量無作の両の苦集を照す。五種の一切種智は是れ無量無作の両の道滅を照す。五種の三智、七種の二諦を照すは、五の道種智は是れ四種の俗諦を照し、五種の一切智は是れ両種の真諦を照し、亦た是れ別、円入別、円の三種の俗諦を照す。五種の一切種智は是れ五種の真諦を照す。一の如実智は是れ仏界の十如の性相を照し、又た是れ不思議の十二因縁を照し、又た是れ無作の四諦を照し、又た是れ五種の真諦を照し、又た是れ五種の中道第一義諦を照す。無諦無説は十の相性の如と合し、不思議の十二縁の滅と合し、四種の不生不生と合し、真諦の無言説と合し、中道の非生死・非涅槃と合す。此の如き等の諸智、伝伝して諦を照す。諦若し融ずれば、智即ち融ず。智と諦と融ずるを、之を名けて妙と為す。此の如き等は、皆な是れ方便の説言なれば妙不妙と称す。理を見るの時は復た権実非権非実無く、亦た妙と不妙と無し。是の故に妙と称するなり。七種の二諦、五種の三諦は更に相ひ間入す、余の諸境も亦た此の意あり。七種の二智、五種の三智既に相ひ間入すれば、余の諸智も亦た此の意あり、例して自ら作す可し云云。

 [11]第三に行妙とは二と為す、一には通途の増数行、二には約教の増数行なり。夫れ行は進趣に名くるも、智に非ずんば前まず。智解行を導くは、境に非ずんば正しからず。智目行足をもて清涼池に到る。而して解は是れ行の本なり、行は能く智を成ず、故に行満じて而も智円かなり。智は能く理を顕はす、理窮まれば則ち智も息む。此の如く相ひ須ゆる者は、則ち妙行に非ず。妙行とは、一行一切行なり。経の如くんば、「本と無数の仏に従ひて具足して諸道を行ず」と。又た云はく、「無量の諸仏の所にして、而も深妙の道を行ず」と。又た云はく、尽く諸仏所有の道法を行ず」と。既に具し、復た深く、又た尽くせり。具は即ち是れ広、深は即ち是れ高、尽は即ち究竟ずるなり。此の妙行と前の境智と一にして而も三を論じ、三にして而も一を論ず。前の境は説くこと法相の如く、法相亦た三を具するを秘密蔵と名く。前の智は是れ法相の如くにして解す、解に亦た三を具すること面上の三目の如し。今の行は是れ所行にして所説の如し、行も亦た三を具するを伊字の三点と名く。若は三、若は一、皆な欠減あること無し、故に妙行と称する耳。

 [12]前には境に対して智を明す、今も亦た応に智に対して行を明すべし。

 [13]若し直ちに一種の智に対して増数に行を明さば、則ち行は塵沙の若し、説けども尽す可からず。況んや諸智に対して各衆行を導くをや。則ち浩として虚空の若し。意を得て言を亡ずれば復た説くべからず。釈論に云はく、「菩薩、般若を行ずる時、一法を以て行と為して一切の行を摂し、或は無量の一法を行と為して一切の行を摂し、或は二法を一行と為して一切の行を摂し、或は無量の二法を行と為して一切の行を摂し、乃至十法、百法、千万億の法を行となして一切の行を摂す、或は無量の十法百千万億の法を行となして一切の行を摂す。行は衆多なりと雖も、智を以て本となす。智は導主の如く、行は商人の若し。智は利針の如く、行は長線の如し。智、行の牛に御すれば、車則ち安隠にして能く至る所あり。此の増数の諸行を用ひて、前の十如諦智の所導、乃至一実諦智の所導と為す。若し此の意を得て、正智を以て衆行を導き、正境の中に入らしむ。此の義唯だ懸かに知る可し、載せて記すべからず云云。

 [14+]二に約教の増数とは、若し三蔵の増数に行を明さば阿含の中の如し。仏、比丘に告げたまはく、「当に一行を修すべし、我れ汝等に四沙門の果を保証せん。心不放逸を謂ふなり。若し能く心を護りて不放逸の行を広演広布するときは、則ち所作已に辨じて能く涅槃を得ん」と。又た比丘に告げたまはく、「当に一行を修すべし、他物を取ること莫きを謂ふなり」と。比丘、仏に白さく、「我れ已に知り已んぬ」と。仏、言はく、「汝、云何んが知るや」と。比丘、仏に白さく、「他物とは、色・声・香・味・触・法を謂ふ」と。仏の言はく、「善い哉、若し能く此の六を取らずんば、所作已に辨じて能く涅槃を得ん」と。言ふ所の広演広布とは、不放逸の心を以て一切の法に歴て、三界、六塵皆な放逸ならずして涅槃に至ることを得るを謂ふ。二数を増して行を明さば、阿含に云はく、「阿練若の比丘、当に二法を修して行と為すべし」と。止を修し、観を修するを謂ふ。若し止を修する時は即ち能く諸悪を休息し、戒律威儀諸行禁戒、悉く皆な失せずして諸の功徳を成ず。若し観を修する時は、即ち苦を観ずることを成ず、実の如く之を知る。苦の集、苦の尽、苦の出要を観じて実の如く之を知り。漏を尽くすことを得て後有を受けず。但薩阿竭も亦た是の如く修す。三数を増して行を明さば、戒・定・慧を謂ふ。此の三は是れ出世の梯隥、仏法の軌儀なり。戒経に云はく、「諸悪は作すこと莫れ、諸善は奉行せよ、自ら其の意を浄うす、是れ諾仏の教なり」と。諸悪とは即ち七支の過罪、軽重の非違なり。五部律に広く其の相を明す。是の如き等の悪は、戒の防止する所なり。諸善とは、善の三業、若は散、若は静、前後の方便支林の功徳、悉く是れ清升なるが故に称して善と為す。「自ら其の意を浄うす」とは、即ち是れ諸の邪倒を破して世間・出世間の因果、正助の法門を了智し、能く心垢を消除し諸の瑕穢を浄む、豈に慧に過ぎんや。仏法の曠海は、此の三に摂し尽くす。若し此の意を得れば、四五六七乃至百千万億の法を行と為して、一切の行を摂するも亦た是の如し。是を下智行を導くと名くるなり。

 [15]通教の増数行とは、部帙を定めて通教を判ぜず、但だ三乗共学の法門を取りて此を指して通となす耳。今且らく釈論の増数を引きて以て其の相を示さん。論に云はく、「菩薩、般若を行ずる時、諸法の一相なることを知ると雖も、亦た能く一切法の種種相を知る。諸法の種種相を知ると雖も、亦た能く一切法の一相を知る」と。云何んが一切法の一相を観ずる、所謂る一切法の無相を観ずるなり。四大の如き各各相ひ離れず、地の中に水、火・風あり。但だ地多ければ、地を以て名と為すのみ。水・火・風も亦た是の如し。今此の異相無きを観ず。若し火の中に三大あれば、三大併せて熱かるべし。若し三大、火中に在れば三大遂に熱からず、則ち火と名けず、若し三大併せて熱ければ、則ち三大は自性を捨つ、皆な名けて火と為すべし、復た三大無からん。若し三大あれども而も細にして知るべからずと言はば、此れ無と何ぞ異ならん。若し麁にして得可くんば、則ち細あることを知らん。若し麁無くんば、細も亦た無し。是の如くんば、則ち火の中の諸相不可得なり、一切の法相も亦た不可得なり、是の故に一切の法皆な一相なり。此れ一相を以て異相を破す、復た無相を以て一相を破す、無相も亦た自ら滅す。火を前むる木の諸の薪を然し已れば亦復た自ら焼くるが如し。是を一切法一相、一相無相なりと観ずと為す。是の如く無量の一切法は悉く皆な一相、一相は無相なり。或は二法を行として一切の行を摂し、乃至百法千万億の法を行となして一切の行を摂すること、意を以て推すべし、復た繁く記せず。

 [16]別教の増数行とは、善財入法界の中に説くが如く、一の善知識の所に於て各一法を聞きて行と為す。或は如幻三昧、或は厳に投じ火に赴き、砂を算へ黶を相して菩提心を発する等、種種の一行あり。皆な云ふ、「仏法は海の如し、我れ唯だ此の一の法門を知る、余は知る所に非ず」と。乃至一百一十の善知識、一一の法門皆な是の如し。是の一一の行は皆な無明を破して深境界に入る。若は二法、三法、百千万億等の法も亦た応に是の如くなるべし云云。

 [17]円教の増数の行とは、文殊問経の如く、「菩薩の一行三昧を修することを明して、当に静室に於て結跏趺坐し、縁を法界に繋け、念を法界に一にせよ、一切の無明顚倒永く寂して空の如くなるべし」と。此の一行は即ち是れ一切無礙の人の一道より生死を出づるなり。一切諸法の中、皆な等観を以て入る。解慧の心寂然として三界に倫匹無し。此れ乃ち一行に一切の行を摂す。増二法を行となして一切の行を摂す、所謂る止と観となり。増三法を行となして一切の行を摂するは、聞・思・修と戒・定・慧を謂ふ。増四法を行と為して一切の法を摂するは、四念処を謂ふ。増五法を行となして一切の行を摂するは、五門禅を謂ふ。増六法を行となして一切の行を摂するは、六波羅密を喟ふ。増七法を行となして一切の行を摂するは、七善法を謂ふ。増八法を行となして一切の行を摂するは、八正道を謂ふ。増九法を行となして一切の行を摂するは、九種の大禅を謂ふ。増十数を行と為して一切の行を摂するは、十境界或は十観成乗等を謂ふ。百数千万億数阿僧祇不可説の法門を増して行と為すは、豈に具さに載すべけんや。若し、其の意を得れば例して解すべし。

 [18]然るに増数に行を明すに、行をなすこと同じからず。須らく麁妙を判ずべし。若し三蔵の増数の諸行は、生滅の智を以て導き、但だ苦を出づるを期し化城に止息す、是の故に麁と為す。通教の増数の諸行は、体智巧みなりと雖も但だ導きて苦を出づるのみ、灰断是れ同じ。別教の増数の諸行は、智導くこと則ち遠し、浅より深に階り、而も諸行隔別にして事理融ぜず、是の故に麁と為す。円教の増数の諸行は、行融じ智円かなり、是の故に妙と為す。今経は円の増数に属す、観経に云ふが如く、「三七日に於て一心に精進す」とは、此れ一法に就て行妙を論ず。「若は行、若は坐に此の経を思惟す」とは、此れ二法に就て行妙を論ず。「若し是の経を聞きて思惟修習し、善く菩薩道を行ず」とは、此れ三法に就て行妙を論ず。四安楽行は、此れ四法に就て行妙を論ず。五品弟子は、此れ五法に就て行妙を論ず。六根清浄は、此れ六法に就て行妙を論ず。是の如き等は、麁に待して妙を論ずるなり。麁を開して妙を論ぜば、低頭挙手積土弄砂皆な仏道を成ず。種種の法を説くと雖も、其の実は一乗の為なり。諸行皆な妙なれば、麁の待すべき無く、待即ち絶す矣。

 [19]復次に五数に約して行妙を明さば、又た二と為す。先には別の五行を明し、次には円の五行を明す。別とは、涅槃に云ふが如し。五種の行あり、聖行・梵行・天行・嬰児行・病行を謂ふ。聖行に三あり、戒・定・慧なり。経の如き、「菩薩、若し大涅槃を聞き、聞き已りて信を生じ、是の思惟を作す、諸仏世尊は無上道あり、大正法大衆正行あり」と。此に従ひて行を立つ。若し大涅槃を聞かば即ち是れ果を信じ、亦た是れ滅を信ず。有無上道より已去は、是れ信なり果の行を顕はす。無上道は是れ慧を信じ、有大正法は是れ定を信じ、大衆正行は是れ戒を信ず。是を因を信じ、道を信ずと名く。自ら己身及び諸の衆生の戒を破し罪を造りて人天の楽及び涅槃の楽を失ふことを傷む。は、即ち是れ集を知るなり。生死に往来して悪道の報を受くるは、即ち是れ苦を知るなり。苦集と戒定慧と相違すれば即ち道無し。道無きが故に涅槃を得ず、則ち滅無し。菩薩は苦集を抜かんと欲して大悲を起し、両の誓願を興す。道滅を与へんと欲して大慈を起し、両の誓願を興す。

 [20]誓願を発し已つて次に則ち修行し思惟す。在家は逼迫すること猶ほ牢獄の如く、寿を尽くすまで浄く梵行を修することを得ず。出家は閑曠なること猶ほ虚空の如しと。即ち家を棄て欲を捨て、白四羯磨して性重戒・息世譏嫌を持して等しうして差別無し。愛見の羅刹の為に戒の浮嚢を毀られざること、止観の中に説くが如し。是の持戒に因りて、根本業清浄戒・前後眷属余清浄戒・非諸悪覚覚清浄戒・護持正念念清浄戒・迴向具足無上道戒を具足す。根本とは、十善性戒にして衆戒の根本なり。無漏心の為に持せらる。故に清浄と言ふ。前後眷属余清浄戒とは、偸蘭遮等は是れ前眷属、十三等は是れ後眷属なり。余とは律蔵の所出に非ずして、諸経の制する所の者に絓る、方等の二十四戒の流の如し。名けて余戒と為す。此の両支は律儀に属す、作法受得の戒なり。後の三支は作法に非ずして、是れ得法なり。得法の時、乃ち斯の戒を発す。非諸悪覚覚清浄戒とは、即ち定共なり。尸羅清浄ならざれば三昧現前せず、戒浄きを以ての故に事障除こりて未来を発得し、性障除こりて根本を発得す。悪覚観を滅するを定共戒と名く。護持正念念清浄戒とは、即ち四念処の理を観ずる正念なり。未だ真を発せずと雖も、相似の念に由りて能く真道を発し、道共戒を成ず、故に正念念清浄戒と名く。復た次に定共戒は定心に依りて発し、止善の義に属す。道共戒は分別心に依りて発し、行善の義に属す。動不動倶に是れ毘尼なり。何となれば、戒は防止を論ず。定共の心を得れば復た悪を起さず道共を得て真を発すれば永く過罪無し。故に倶に是れ戒なり。迴向具足無上道戒とは、即ち是れ菩薩は諸戒の中に於て四弘六度を具し、発願要心して菩提に迴向す、故に大乗戒と名く。弘誓は前に説くが如し。六度とは悪を厭ひ、出家して所愛を捨つ即ち是れ檀なり。繊毫も犯さずして羅刹に拒逆するは、即ち是れ尸なり。能く身心を検節し、打罵を安忍するを生忍と名く。八風寒熱貪恚等を耐ゆるを法忍と名く。愛見も損すること能はざるは、即ち是れ羼提なり。戒を守護して犯心起らざるは、即ち是れ精進なり。志を決し戒を持して狐疑の為に誑いされず、専心不動なるを名けて禅と為す。明かに因果を識り、戒は是れ正順解脱の本にして一切の三乗の聖人を出生す。六十二見鶏狗等の戒に非ずと知るを名けて般若と為す。又た別の発願は己心を要制す、寧ろ此の身を以て熱鉄に臥すとも破戒を以て他の床席を受けじと。十二の誓願をもつて自ら其の心を制す。又た更に発願す、願はくは一切の衆生をして、禁戒を護持することを得ん、清浄戒・善戒・不欠戒・不析戒・大乗戒・不退戒・随順戒・畢竟戒・具足諸波羅蜜戒を得せしめんと。此の十願を以て衆生を防護す。菩薩は一の持戒の心、若干の願行を以て戒を荘厳す。諸余の行心も亦た応に是の如くなるべし。然るに護他の十戒は、自行の五支の中より出づ。根本・眷属の両支より禁戒・清浄戒・善戒を出す。何となれば、篇聚の作法は即ち是れ禁戒なり。禁戒若し無作を発すれば、乃ち清浄と名く。清浄は即ち止善なり。而して善戒と言ふは、即ち是れ行善なり。非諸悪覚覚清浄戒より不欠戒を開出す。何となれば、七支を防護すと雖も、妄念数起つて欠漏あることを致す。若し未来禅を発すれば、事行欠かず。根本禅を得れば、性行欠かず。護持正念念清浄戒より不析戒を開出す、即ち道共戒なり。色を滅して空に入るは、是れ析法の道共なり。今、法を体して空に入る、故に不析と名く。又た内に道共あれば則ち戒品牢固にして破析す可からざるなり。迴向具足無上道戒より、大乗・不退・随順・畢竟・具足波羅蜜戒を開出す。大乗と言ふは、菩薩は性重譏嫌を持し、等しうして差別無し。自ら仏道を求むるには、性重則ち急なり。衆生を化せんが為には、譏嫌則ち急なり。小乗の自調は性重即ち急なり、他を度せざるか故に譏嫌即ち寛なり。菩薩は具さに両種を持す、故に大乗戒と名く。不退とは非道を行ずる善巧方便ありて婬舍・酒家・非法の処に輒く以て人を度して、而して禁戒に於て退失あること無し。医の病を療して、病の為に汚されざるか如し、故に不退と名く。随順とは、物の機宜に随ひ、道理に随順す、故に随順戒と名く。畢竟とは、堅に無上の法を究竟するなり。具足波羅蜜とは、横に一切円満して法として備はらざること無きなり。大論に亦た十種の戒を明す。不破・不欠・不穿・不雑の四種は、即ち是れ大経の根本支の中の禁戒・清浄戒・善戒・不欠戒なり。論の随道戒は、即ち是れ大経の護持正念支の中の不析戒なり。論の無著戒は、即ち是れ大経の迴向支の中の不退戒なり。論の智所讃戒は、即ち是れ大経の大乗戒なり。論の自在戒は、即ち是れ大経の自在戒なり。論の随定戒は、即ち是れ大経の随順戒なり。論の具足戒は即ち是れ大経の波羅蜜戒なり。大経には畢竟を明し、論には随定と言ふ。此れ大いに同じくして小しく異なり、義に於て失無し。涅槃は菩薩の次第の聖行を辨ぜんと欲す、故に具さに諸戒の浅深始終具足することを列ぬ、善能く護持して即ち初不動地に入る。不動・不退・不堕・不散、是を戒聖行と名く。

 [21]戒聖行は既に始の浅より以て深に至る。今、仍ち其の麁妙を判ずべし。禁・浄・善の三戒は律儀に属す、律儀は通じて衆を摂す、故に尊卑の位の次緒を定む。菩薩・仏等ありと雖も、別に衆を立てず、故に戒法は是れ同なり。但だ仏菩提心を以て異と為すのみ。故に知んぬ、律儀等の三戒は三蔵の摂なることを。不欠は是れ定共、根本禅は是れ事なり。亦た三蔵の摂に属す、是の故に麁と為す。不析戒は是れ体法の道共なれば即ち通教の摂なり。大乗・不退等は別教の摂なり、亦た通を兼ぬ。通に出仮あり、機に随ひ理に順じ、道に於て退せず。然るに真謗に依りて別人に及ばず、別人を妙と為す。随順・畢竟・具足等は円教の摂なり、滅定を起たずして諸の威儀を現じ、道法を捨てずして凡夫の事を現ず。故に随順と名く。唯だ仏一人浄戒を具し、余人は皆な汚戒の者と名く。故に畢竟戒と名く。戒は是れ法界にして一切の仏法・衆生法を具し、尸の彼岸に到る。故に具足波羅蜜戒と名く。浄名に云はく、「其れ能く是の如くなる、是を奉律と名け、是を善解と名く」と。此の経に云はく、「我等、長夜に仏の浄戒を持し、法王の法中久しく梵行を修し、始めて今日に於て其の果報を得と、又た「羅睺羅の密行は唯だ我のみ能く之を知る」と。豈に前の諸戒の皆な麁なるに待して、唯だ円をもつて妙と為すに非ずや。復た次に初戒を持するは乳の如く、中間は三味の如く、後戒は醍醐の如し。醍醐を妙と為す云云。

 [22]麁を開して妙を顕はさば、他の云はく、梵網は是れ菩薩戒なりと。今問ふ、是れ何等の菩薩戒なる、彼れ若し答へて是れ蔵通の菩薩戒なりと言はば、応に別に菩薩衆あるべし。衆既に別ならず、戒何ぞ異なることを得ん。又た若し別に菩薩戒を明さば何等をか別して是れ縁覚戒なるや。今明さく、三蔵の三乗は別衆無ければ、別に菩薩・縁覚の戒あることを得ざるなり。若し別円の菩薩の解を作さば然るべし。何となれば、三乗共の衆の外に別に菩薩あり、故に別に戒あり。問ふ、三乗の衆の外に別に菩薩戒あらば、縁覚戒は云何ん。答ふ、三乗の衆の外に別に縁覚無し。此の説は猶ほ是れ待麁の戒たる耳。麁を開せば、毘尼の学とは即ち大乗学なり。式叉式叉即ち是れ大乗第一義光にして、靑に非ず、黄に非ず、赤白に非ず。三帰五戒、十善、二百五十皆是れ摩訶行なり。豈に麁戒の妙戒を隔つるものあらんや。戒既に即ち妙、人も亦た然り、汝は実に我子とは即ち此の義なり、是を絶待の妙戒と名く。