◎化城喩品を釈す

 [1]化とは神力の所為なり、神力を以ての故に、無にして而も欻ち有り、之を名けて化と為す、非を防ぎ敵を禦ぐ、之を称して城と為す。

 [2]内に二乗の涅槃に合するは権智の所為なり、権智の力を以て無にして而も有と説く、教を用ふるを化と為し、思を防ぎ見を禦ぐを名けて涅槃と為す。

 [3]蘇息して引入す、実に未だ究竟ならす、而して滅度と言ふ。

 [4]権仮に施設す、故に化城と言ふ、喩は前に説くが如し、此れは是れ因縁釈なり。

 [5]約教は、若し三蔵の義ならば、涅槃に於て安隠の想を生じ、滅度の想を生ず。

 [6]若し通教の二乗は三蔵と同じ、菩薩は爾らず。釈論に云く、父険を過ぎ一脚は城に入る、一脚は門外なり、妻子を憶ふが故に城より険に入るが如しと。誓願して余習を扶けて生死に入て而して空を以て証と為さゞるなり。

 [7]別教は城は化の如しと道はず、城を用ひて険を防ぎ、城門より径に過ぎ、城を将て方便と作して見思の惑を断ず、此れを極と為すと道はざるなり。

 [8]円教は賊病無きことを知る亦城を須ひず、故に化城と言ふなり。今は是れ円教の意なり、故に題して化城喩品と為すなり。

 [9]本迹と観心は記せず。

 [10]問ふ、此品は因縁の事を説き、下根は悟ることを得、応に宿世品と名くべし。

 [11]答ふ、品の初めに広く因縁を説く、末は則ち結して化城に譬ふ、若し前に従わば、応に宿世と称すべし、経は末に従ふ故に化城と言ふ。

 [12]又上根は疑ひ薄し、但だ道樹の三七の思惟を取て以て機縁を明す。中根は疑濃かに、加ふるに譬喩を以て、探て二万億仏の所にして無上道を教ふるを取て以て機縁と為す。下根は疑復厚し、則ち宿世の久遠の機縁を明す。

 [13]若し宿世の始めに従はゞ久遠の因縁を明す。其中間を語て其化城を言ひ、其究竟を明して其宝所を言ふ、経家は処中に品を標して初後を収得す、此義の便に従ふ、故に化城品と言ふ。

 [14]問ふ、化城は是れ権、宝所は是れ実なり、何の意ぞ、実を捨てゝ権に従ふ。答ふ、城は是れ化なりと知れば則ち宝所は是れ実なりと知るに由る、故に化を標して実を失はざるなり。

 [15]此段の三品の経文は前に例せば応に四なるべし、但だ領解述成は皆授記段中に在り、何となれば、若し領解せずんば安んぞ授記述成することを得ん、故に二意を兼ね得。

 [16]又領解述成得記は或は前後定まらす、領解は或は黙念発言同じからず、其文少くして品を分つに足らず、但だ他段の中に入る。

 [17]此品は正しく因縁を説く、後の両品は授記す、初めに又二あり、一に先に久遠を知見することを明す、二に宿世の結縁を明す、如来の三達は遠く明らかにして今日を見るが如し、引く所の往事は決定して虚しからず、然して後に宿命を説きたまふ、此二に各々長行偈頌有り、初めの長行に三有り、一に所見の事を出す、即ち是れ好成と大相と大通勝仏なり。二に譬を挙げて久遠を明す。三に昔を見るに今の如くなることを結す云云。

 [18]偈に七行あり、前の三義を頌す、文の如し。

 [19]仏寿五百四十の下は、正しく結縁を明す、又両と為す、初めに結縁の由、二に正しく結縁なり、由の中又両あり、遠由と近由となり、遠由に又二あり、一に大通智勝仏の成道、二に十方の梵の法を請す、成道を五と為す、一に仏寿の長遠なり。

 [20]其仏本坐の下、第二に成道の前事なり、但だ諸仏の道は同じくして縁の為めに事異なり、釈迦は苦行六年、草生じて髀に攅り、肘に至れども覚せず、諸天哭喚して地を動かせども聞へず、坐を移して道を得たまへり。弥勒は即ち出家の日に道を得、彼仏は十劫に猶ほ現前せず、根に利鈍有り、道に難易有るに非ず、縁の奢促に宜しければ、応じて長短を示すのみ。

 [21]三に諸比丘大通過十小劫の下は正しく成道することを明す。

 [22]四に其仏未出家の下は、成道の後の眷属の供養を明す。

 [23]五に爾時十六王偈讃の下は、法輪を転ぜんことを請するを明す、第一の文は解し易し。

 [24]第二に成仏の前事に二有り、一に仏道場に坐して経たまふ所の時節、二に諸天の供養なり。

 [25]仏告諸より得三菩提時に至る下は、第二に諸の梵の請、文二と為す、一に威光照動す、二に十方の梵請す。

 [26]初めに威光とは、過去因果経に云く、薩婆悉達の胎に処する時、三千の国土朗然として大に光る、日月の照さゞる所の処大に明かなり、其中の衆生、各々相ひ見ることを得。初め成道の時も亦是の如し、朝には色天の為めに中には欲天の為めに、晡には鬼神の為めに法を説きたまふ。夜も亦是の如しと。観解は、忽生衆生とは、心性は本とより浄し、陰入界之を覆はば則ち闇し。若し観慧を修せば本性の理顕はる。又両山は是れ二諦、其間は是れ中道なり、日月の光は是れ二智、仏光は是れ中道無分別の智光なり。本有の三諦を照すこと洞明なり。

 [27]爾時東方の下、第二に十方の梵なり、文二と為す。先に九方、後に上方なり、九方を四と為す、一に東、二に東南三に南、四に総じて六方を明す、前の三方の梵、文各々七有り、一に瑞を覩、二に驚駭し、三に相問決す、四に光を尋ねて仏を見、五に三業供養、六に法を請し、七に黙許す、皆文の如し。

 [28]上方の梵には止だ六有り、世尊即ち説きたまふが故に黙許無し。旧云く、東と東南とは小を請し、七方は大な請し、上方は小と大とを請す。若し釈論に明すは、梵は本と大を請すと、仏は小を説くと雖も、未だ所請を遂げず、若し般若を説くは猶ほ梵の請に酬ゆるのみ。若し方便品の文に依らば、梵王は大を請すと、然るに仏法道は同じくして、応に偏に請すべからず、但だ経論に略を存す、諸師偏に拠るのみ。又今仏の如き、始めより終に至るまで具に五味の法輪を転す、一々皆梵の請に酬ひたまふ、彼れも亦応に然るべし。初めに十六子の満教を転じたまへと請ふは、今仏の華厳を説きたまふが如し、東と東南との二方、半教を転じたまへと請ふは、今仏の三蔵を説きたまふが如し、後の七方は、半に対して満を明すを転じたまへと請ふは、今仏の方等を説きたまふが如し、上方の梵の半を帯して満を明すを請ふは、今仏の般若を説きたまふが如し。後に十六子、半を廃して満を明さんことを請ふは、今仏の法華醍醐の教を説きたまふが如くなり。今古の節目は文義相応す云云。

 [29]爾時大通智受十方の下は結縁の近由なり、仏、請を受くるに由て法を説きたまふ、故に後に覆講して正しく結縁を作すことを得、文二と為す、一に先に半字の法輪を転じ、二に諸子、半を廃して満字を明す法輪を転じたまへと請す、初めを三と為す、一に請を受け、二に正しく転ず、三に法を聞て道を得。

 [30]此中に応に三乗を説くこと序品の文の如くなるべし、而して今説かざるは正しく下根の為めに結縁開顕等を論ず。

 [31]略して六度を言はざるのみ。

 [32]三転とは謂く示・勧・証なり云云。亦三転を将て示教利喜に対す、示は即ち示転、教は即ち勧転、利喜は即ち証転なり、亦見諦思惟無学に対するなり。声聞の為めに三たび転じ、縁覚の為めに再び転じ、菩薩の為めに一たび転ず。何が故に爾る、根の利鈍に由る、此れ一往の説のみ。通方に例して皆三たび転ず、何が故に三たび転ずる、諸仏の語法は法として三に至る、衆生に三根有るが為めの故なり。大論及び婆沙に悉く此説を作す。問ふ、初めは五人の為めにす、云何ぞ三根と作すや、復八万の諸天有り、何が故ぞ三根無しや、三慧三根三道を生ぜんが為めの故なり。

 [33]十二行とは、一に四諦の教に約す、二に十六行に約す、教の十二とは、即ち示と勧と証と是なり。行の十二とは、三転に皆眼智明覚を生ず。又教の十二を能転と為し、行の十二を所転と為す。十二行は是れ輪、十二教は輪に非ず。若し二輪の義を作さば、眼智明覚とは、四十八法に約す、此四心を開して十六心を成ず、謂く苦法忍を眼と為し、苦法智を智と為し、比忍を明と為し、比智を覚と為す、余の三諦も亦爾り、故に十六心を成ず。三根の人は各十六心を得、故に四十八行を成ずるなり。十二諦は是れ教法輪、十二行は是れ行法輪なり。教輪は則ち能転は唯是れ一の権智、所転は則ち十二教有るなり。若し行法輪は能転の教に十二有れば、所転の行も亦十二なり、或は三人に通じ、或は一人に約す、今は見諦道の三人に就く。利根は示転を聞て即ち眼智明覚を生ず、三人合して挙ぐ、故に十二行と言ふなり。

 [34]転ずること能はざる所とは、沙門は聞かざれば尚知ること能はず、何に況んや能く転ぜんをや、支仏は悟ると雖も口に説くこと能はず、婆羅門は其名を聞くと雖も、其埋を解せず、魔梵も亦爾り。夫れ転とは、此法を転じて他の心に度入し、彼をして悟を得て六十二見を破せしむるを、乃ち転法輪と名く、此義無きが為めに、魔梵等は転ずること能はざる所なり。有るが解すらく、大乗は四諦の次に二諦を転じ、次に一諦を転じ、次に無諦を転ずと、皆是れ巻舒の意なり。小乗の四諦は、生滅を以て体と為し、大乗は無生を以て体と為す云云。十二因縁とは、還て是れ別相にして、細く四諦を観ずるのみ、苦集に約すれば、即ち無明老死有り、道滅に約すれば、即ち無明滅乃至老死滅有るなり。又三人通じて十二縁を観ず、二乗は生滅の十二縁、菩薩の為めには無生の十二縁なり。無生の十二縁は本とより生ぜず、今滅せず、相生ずれは則ち相生じ伝々して滅す云云。又三乗も亦通じて四諦を論ず、二乗は有量の四諦、菩薩の為めには無量の四諦なり、又六度も亦三人に通ず。大品の発趣品に云く、阿羅漢支仏は六波羅蜜に因て彼岸に至ると。摂大乗に云く、凡夫と二乗に皆六度有り、但し同じからざるのみと。若し爾らば、応に倶に波羅蜜と名くべし、然るに二乗の行は涅槃の彼岸に到れば、亦波羅蜜と称す、但し仏道の彼岸に到ること能はず、菩薩に比すれば異るのみ。阿毘曇に六足有り。六足とは即ち六度なり。宝雲経には三乗の毘尼を明す云云。第三に法を聞て悟を得るとは、初めは少く中は多し、不受とは、四見を受けずして、初果を悟るなり。得解脱とは、子果両縛を脱して無学を得るなり、深妙定とは即ち倶解脱なり云云。

 [35]爾時十六王子皆出家の下、第二に重ねて満字の法輪を請す、文七と為す、一に出家、二に請法、三に所将も亦出家す、四に仏請を受く、五に時衆に解不解有り、六に時節、七に説き已て定に入る。

 [36]諸根とは六根なり、六根清浄の故に通利と言ふ、又六根互用の故に通と言ふ、仏の境界に入るが故に利と言ふ、智慧明了とは開示悟入なり、彼仏初めて円頓を説きたまひ、諸子は大乗の功徳悉く皆具足す、諸の方便を愍んで重ねて仏の開権顕実を請するなり。声聞皆已成就とは、其障除こり機動ずることを明す、是故に為めに請す。我等志願如来知見とは、此法華経は但だ仏の知見を明す、唯此を志す、即ち正しく満字廃半を請するの文明顕なること此の若くなり。過二万劫とは、上に三を開すること既に久し、中間に事無かるべからず、下の文の意に望むるに、二万劫の中に必らず方等般若を説かん。文に云く、六波羅蜜及び諸の神通の事を説くと。般若は是れ行、神通は是れ事なり、諸の方等経に、多く不可思議の事行を明すなり、頌の中に又分別真実法と云ふ、即ち是れ大品に実相般若を明す意なり。十六の沙弥信受し、及び二乗即ち信るは解を得る者なり、其余の千万は皆疑惑を生ず、是れ不解の衆なり。此不解の衆は即ち十六子と法華の縁を結ぶ者なり。第七に説法し已て定に入ることを明す、此れ正しく是れ結縁の近由なり、仏は定に入て出でたまはず、諸の疑惑の衆の諮問する所無きに由る、十六は後に於て解せざる者の為めに覆講して経を説くなり。文中に入定の処所を明すは即ち是れ静室なり、正入定は即ち是れ禅定に住すといふなり。入定の時節は、即ち是れ八万四千劫といふなり云云。

 [37]是時十六菩薩知仏入室の下、第二に正しく結縁す、此れに就て二有り、先に法説の結縁、次に譬説の結縁なり、法説に就て三有り、第一には昔日に共に結縁することを明す、第二に中間に更に相ひ値遇することを明す、第三には今還て法華を説くことを明す。第一に四有り、一には仏の入定を知る。二には王子覆講す、三には衆は利益を得、四に仏は定より起て菩薩を称歎したまふ、仏は定に入りたまふに由るが所以に説くことを得、仏は一化の将に畢らんとするに復此段の人を熟せざることを知りたまふが故に、王子をして其と共に結縁せしむ、又此等は必らず王子に由て究竟して得度せんことを知りたまふ、所以に定に入て久しくして而して出でたまはざるなり云云。

 [38]是十六沙弥の下、第一に仏の入定を知るなり。各升法座の下、第二に法華を覆説す。一々皆度の下、第三に説法して利益す。皆菩提心を発するが故に度と云ふ、若し初発心の時に当に作仏すべしと誓願するは、已に世間に過ぐ、即ち是れ七方便の彼岸に度るの義なり。大通智勝過八万の下、第四に仏の定より起て称歎し勧信したまふなり、此中に復二おり、一に正しく菩薩を称歎す。二に汝等皆当の下、物を勧めて親近せしむ、物を勧めて親近せしむる中に又二あり、先に親近を勧め、次に所以者何の下、第二に勧の意を釈す。

 [39]仏告諸比丘是十六の下、第二に中間に常に相逢値することを明す、逢値に三種有り、若し相逢遇して当に大乗を受くれば、此輩ら中間に皆已に成就して今に至らず、若し相逢遇して其大を退するに邁て仍ち接するに小を以てせば、此輩ら中間に猶ほ故に未だ尽きず、今還て大乗の教を聞くことを得。三に但だ小に遇ふことを論じて大に遇ふことを論ぜず、則ち中間に未だ度せず、今に亦尽さず、方に始めて大を受く、乃至滅後得道の者是れなり。

 [40]問ふ、上の如き塵数と多許の時節もて、今始めて羅漢を得、当に知るべし、無生法忍何ぞ階む可きこと易からん、答ふ、一云く、大聖の善巧は四悉檀に依て是の如きの説を作す、或は仏道は長遠なりと説き、或は仏は得易しと説く、道の長きを厭ふ者を対治するには短と説き、道に於て軽易の想を生ずる者には長と説く、或は宿善を発生せんが為めにし、或は世間の所欲に随ひ、或は長短を説くを聞て即ち第一義に入ることを得るものゝ為めにす、当に知るべし、如許の劫に方に今羅漢を得ると言ふは、此れは是れ権行なり、四悉檀に諸の実行を引て道に入らしむるのみ。

 [41]諸比丘我今語汝彼仏の下、第三に今日還て法華を説くことを明す、此文に復二あり、先に古今を会し、後に還て法華を説くことを明す、先に古今を会するに復二あり、一に師の古今を結す、二に弟子の古今を会す。

 [42]十六沙弥は是れ古、八方作仏は是れ今なり。

 [43]諸比丘我等為沙弥各々の下、次に弟子を会するに復二あり、一に現在を会す、二に未来を会す、現在に復四あり、一に不退の者は三菩提に住するなり、二に此諸の衆生の退転する者は今声聞に住す、三に所以者何の下は退住の意を釈す、四に爾時所化無量の下は、正しく古今を結するなり。

 [44]及我滅度未来の下、第二に未来の弟子を会す、復二あり、一に正しく会す、二に我滅度後復有の下は疑を釈す。疑ふ者云く、現在の者は仏の法華を説きたまふを聞くことを得て、一道に入ることを得、是れ結縁の流なる可し。未来の者は法華を聞かずして而して滅度に入る、此れ豈に能く小を捨て一乗に入ることを得んやと、釈して云く、滅度の後と雖も、修に会ず聞くことを得ん、我れ余国に於て作仏して是経を聞くことを得ん、余国とは三乗通教の有余国なり。除諸如来方便説とは疑を断ずるなり、三は是れ方便の説にして、其実は三無きなり。

 [45]諸比丘若如来の下、第二に正しく今日還て法華を説くことを明す、此れに就て復三あり、一に時衆清浄、二に正しく法華を説く、三に前の開三の意を釈す。

 [46]涅槃時到とは、諸仏出世して教道将に畢らんとするの時、即ち此経を説く、迦葉仏日月灯明等の如き、此経を説き竟て即ち涅槃に入る、釈迦も法華を説き竟て仍ほ当に滅すべしと唱へたまふ。衆又清浄とは即ち断徳なり。信解堅固とは、信は即ち四不壊信、解は即ち無漏の正解なり、真諦を了達して諸の禅定を具するは、此れ智断立するなり。爾の時大道を教ふるに堪ふ、開かば必らず信受するなり。復次に衆又清浄とは、三蔵教の益を得て難を兔るゝなり。信解堅固とは、方等教に於て心相体信するなり。了達空法とは、般若教の説法を聞て、空法の中に於て心に了達することを得るなり、即ち転教の意なり。

 [47]便集諸菩薩の下は、正しく法華を説くなり。菩薩を集るは是れ親族等を聚む、是れ此経を説くなり。上に親族を釈するには法身の大士・影響衆なり、此文を以て之を験するに其義明かなり。集諸菩薩は是れ親族を会す、及声聞衆は是れ其子なりと命ぶなり。

 [48]比丘当知如来方便の下は開三の意を釈するなり。若し世に二乗の滅度を得る無くんば、何が故ぞ如来は前に権教を説くや、釈して云く、比丘当に知るべし、如来の方便は深く衆生に小の性欲有て五塵に著し五濁に弊しむと知りたまふ、故に先に三を説て蔽を破して難を兔れしめ、後に一を説きたまふなり。

 [49]譬如五百の下、第二に譬とは開有り合有り、開譬を二と為す、第一に導師譬、上の覆講して共に大縁を結ぶを譬ふ、即ち火宅の総譬、方便の略頌に擬するなり。第二に将導譬、上の中間に相遇ひ、今還て法華を説くを譬ふるなり。若し中間に相逢ひ、我に従て法を聞き、皆三菩提の為めにする者には此人の為めに譬を設けず。若し中間に相逢ひ、今に声聞地に住する者有らば、正しく此人の為めに第二の譬を設くるなり。即ち火宅の別譬、方便の広頌に擬す。初めの導師譬に就くに其文に五有り、即ち火宅の総譬、方便の略頌の中の六意に擬するなり。一に五百由旬譬、上の未度の衆の諸有の輪廻の処所に楽著するを譬ふ、即ち火宅の中の其家広大三界無安、方便品の安隠を不安隠処に対する意に擬するなり。二に険難悪道譬、上の未度の衆の煩悩垢重く、如来の智慧に於て信じ難く解し難きを譬ふ、即ち火宅の中の火起、方便品の安隠を不安隠の法に対するに擬するなり。三に若有多衆譬、正しく上の百千万億種皆生疑惑の不解の衆生を譬ふるなり、即ち火宅の中の三十子五百人、方便の中の知衆生性欲の意に擬するなり。四に欲過此道至珍宝処譬、旧は取らず、今は此譬を取て、上の覆講の法華を譬ふ、草喩の中の一味の雨、火宅の中の唯有一門、方便品の宜示仏道の意に擬するなり。五には一導師譬、上の第十六王子を譬ふるなり、即ち薬草の中の密雲、火宅の中の長者、方便の中の我今亦如是の意なり。

 [50]問ふ、此中に譬を作す、那ぞ父子相失、長者驚入火宅、不虚等の名を作さゞるや、答ふ、凡そ譬の名を作す、各々義の便を逐ふ、上は機感の有無を取る、故に父子相失、父子相見を言ふ。若し感応して始めて機に赴くを取るが故に驚入火宅と言ふ、此中には衆人を将導して世々に相値ふことを明す、那ぞ相失と言ふことを得ん。先より久しく結椽す、那ぞ始めて応ずと言ふことを得ん、此義の為めの故に、相失驚入の名を作さゞるのみ、而して其意は則ち通ず。問ふ、何が故ぞ不虚譬を作さざるや。答ふ、上来已に二十二番に開権顕実し、其義已に彰はる、不虚は本と勧信せんと欲す、下根は信ずること久しからざるに在り、故に須ひざるなり。

 [51]五百由旬とは、基師は三界の結惑を三百と為し、七地に断ずる所の習気を四百と為し、八地已上に断ずる所の無明を五百と為す、今謂く、正しき別の義に非ず、又三乗通の義に非ず。

 [52]又有家の云く、流来生死・変易生死・中間生死・分段生死のなか、但だ三種を取て開して五百と為す、流来を取らず、流来は是れ有識の初、反源の始、故に之を説かずと。

 [53]有人之を難じて云く、勝鬘に云く、因は五、果は二なりと、果二とは分段と変易を謂ふ、因五とは五住を謂ふ、果を語るに既に別に流来と中間とを開す、因を語るに亦応に更に五住を広すべし、拠無し、用ふ可らずと。

 [54]大論に明さく、肉身の菩薩は即ち分段にして、法身の菩薩は謂く変易なりと。又云く、阿羅漢は三界の報身を捨し、法性身を受くと、故に知ぬ、生死二のみ。

 [55]有人の云く、三百は三界を喩ふ、四百は七地を喩ふ、二国の中間は過ぎ難し、五百は八地已上を喩ふと。

 [56]難ずる者言く、四百は七地を喩ふれば則ち応に三百は六地を喩へ六地は二乗と功を斉しくすべし、二乗の極めて久しきは、唯六十劫、或は百劫なり、菩薩は六地に至る時は二十二大増祇なり、二乗は仏道に於て紆廻す、応に斉しきことを得べからずと。

 [57]今謂く、此れ別の義に非ず、亦通の義に非ず。

 [58]有人の言く、三界を三百と為し、七住及び二乗を四百と為し、七住已上を五百と為す、大経に云ふが如し、初果八万劫に菩提心の処に至る、三根の人の如き、此処に至て即ち領解す、五種の人の此処に至るを五百を度すと名くるなりと。

 [59]此れ極鈍を取るが故に八万劫にして到ると云ふ、利人は必らずしも爾らず、仏世に四果を得る者の如き、法華を聞て皆発心す、何ぞ必らずしも八万劫ならん。難じて云く、経に三百由旬を度して二地を立つることを明す、豈に是れ三人を度するならんや、若し五人並に菩提心を発するを五百を度すと名くれば、乃ち大経の一意なり、五人発心して五位を離るゝことを明すは此中の意に非ずと。

 [60]此中には三百は是れ権度にして化城に在り、五百の宝所に至るを実度と名け、化城を廃して宝所に進むることを明す、若し五人皆度し皆進むは化城譬の意を失す。

 [61]有人の云く、三界を三百と為し、声聞を四百と為し、縁覚地を五百と為すと。

 [62]凡夫は三界の障、二乗は涅槃の障なり、亦是れ有空の二見なり、華厳の薬樹は深水火坑に生ぜずと、火坑は即ち三界、深水は即ち二乗なり、三界は是れ二乗の牢獄、二乗は是れ菩薩の牢獄なり、又是れ福智の二辺なり、自ら行ずること能はず、他を化すること能はず。

 [63]大品に四百由旬を明す、二乗を合して一百と為し、法華には開して五百と為す。

 [64]大品には菩薩、凡聖の二地を度することを明す、未だ二乗は是れ権なることを明さず、化城の意を闕く。

 [65]既に未だ化城を論ぜずんば、亦未だ宝所を明さゞるべきや、答ふ、大品に已に顕実す、故に宝所を辯ず、未だ権を開せざれば化城を明さず。下の文に云く、止息の為めの故に二涅槃を説くと、此れ三百由旬を度せしむるなり。汝の住する所の地は仏慧に近しと、此れ二百由旬を出さしむるなり。文既に分明なり、労しく惑ふこと無かれ。又明さく、二乗は六義同じく十義別なり、同じく三界を出で、同じく尽無生、同じく正使を断ず、同じく有余無余を得、同じく一切智を得、同じく小乗と名く、所以に合して一の化城と為す。別して十義を開するに、行因の久近六十劫百劫の故にと、根の利鈍と、師に従ふと独り悟ると、無悲なること鹿羊のごときと、有相と無相と、観の略と広と、能く説て四果の法を得しむと、法を説て煖法を得しむること能はざると、仏世に在ると、仏世に在らざると、頓証と漸証と、多く通を現じ少く法を説くと、声聞の不定なるとなり。

 [66]火宅三車あり、今二百と為すや、三根同じく火宅の為めに焼かれ、三根出でんことを求む、故に三車あり、仏道は長遠にして、二乗は是れ悪道なり、故に二百にして須らく離るべし、仏乗は障に非ず、但だ二百を明す。

 [67]何が故ぞ凡に約して三を開し、聖に約して二を開するや。此れは引進の言のみ、度する所猶少く、未だ度せざるもの猶多し。若し爾らば未だ了義を成ぜざるや。仏道は長しと雖も、万里の行の如し、但だ五百は是れ難なれども、余は則ち易し。

 [68]問ふ、二百は是れ二乗の難、三界は是れ凡夫の難なり、菩薩に難有りやいなや、菩薩は火宅を以て難を為さざれば、応に車を求めて而して出ずべからず、既に車を求めて出ず、何ぞ二百の為めに障へられざらん云云。大論六十六に云く、険道は是れ世間、一百由旬は是れ欲界、二百は色界、三百は無色界、四百は是れ二乗なりと。又倒に数を出す、一百は是れ二乗道、二百は是れ無色、三百は是れ色界、四百は是れ欲界なり、此経に五百由旬を明すは、即ち菩薩の道なり、若し五百を過ぐれば即ち仏道に入る云云。

 [69]人師及び経論の異出は前の如し。

 [70]今此経に依て之を判ぜば、三界の果報の処を三百と為す、有余国の処を四百と為す、実報国の処を五百と為す、下の文の合譬に知諸生死と云ふ、生死は即ち是れ処所なること明けし。

 [71]但だ仏旨は知り難し、更に須らく広く解すべし、見惑を一百と為し、五下分を二百と為し、五上分を三百と為し、塵沙を四百と為し、無明を五百と為す、下の文の合譬に煩悩険難悪道と云ふ、義相ひ扶くるなり。

 [72]入空観は能く三百を過ぐ、入仮の観は能く四百を過ぐ、入中観は能く五百を過ぐ、下の文の合譬に善知険道通塞之相と云ふ、即ち双て因果二種の五百を知れば義相ひ扶くるなり。

 [73]二に険難悪道とは、生死の因果を譬ふるなり、分段と変易は、此れ即ち果の険難なり、見思と五住は、即ち因の険難なり、此因果に由るが故に悪道と言ふなり。無人とは道に二種有り。一に曠絶にして人の依る可きもの有り、二に人の依る可きもの無し、生死の中に涅槃有り、煩悩の中に菩提有るを譬ふ、復曠絶なりと雖も、則ち人の依る可きもの有り、若し生死煩悩に涅槃菩提無く、薬中に病無く、病中に薬無し、此れ則ち曠絶にして人の依る可きもの無きなり。

 [74]三に若有多衆とは、此れ王子の所化の未度の衆を譬ふるなり。

 [75]四に欲過此険道とは、種覚に至ることを求む、故に至珍宝処と言ふなり。

 [76]五に有一導師とは、即ち第十六の王子なり、眼耳の清浄なるを聡と曰ふ、意の清浄なるを利と曰ふ、総じて之を言へば、即ち六根清浄なり、智は即ち一心三智なり、明は即ち五眼を具足するなり。又三明を明と為し、十力を達と為す。

 [77]将導衆人の下、是れ第二に将導譬なり、此れ火宅と方便の別譬と広頌と意同じなり、此文に就て三と為す、一に所将人衆譬、本の結縁未得度の者、本縁を失せずして而して導師の為めに将ゐらるゝを譬ふ、上の火宅の長者の火を見て驚怖し、方便品の五濁を見て而して大悲心を起すに同じ。二に中路懈退譬、上の中間に相値ひ、大乗心を退すれば即ち小を以て接するを譬ふ、火宅の中に身手を用ひずして而して三車の希有を歎じ、方便品の大乗の化を息めて方便を用ひんことを念ずるとの意なり。三に爾時導師知此人衆の下は、滅化引至宝所譬なり、上の還て為めに法華経を説くを譬ふ、便ち菩薩及び声聞衆を集めて為めに此経を説くなり、即ち火宅の賜一大軍、方便の中の但説無上道と意同じなり、分文竟る。

 [78]次に文を釈す、初めに所将人衆とは、通じては是れ結縁の衆なり、若し別して論ぜば、昔し大益を得るは将ひらるゝこと已に竟る、未だ大益を得ざるは、正に是れ所将なり、若し五百人三十子の中に約せば、未だ開悟を得ざるの人なり。

 [79]中路懈退とは、即ち是れ第二の譬なり、文二と為す、一に退大、二に接小なり、退大は上の一を息むるに擬す、接小は上の三を施すに擬す、退大の文三と為す、一に中路懈退とは、即ち上の大機無きに擬す。二に白導師言とは、上の勧誡を受けざるに擬す。我等疲極とは、即ち是れ勧門を受けず。而復怖畏とは、即ち誡門を受けず。三に不能復進とは、即ち上の息化に擬するなり、分文竟る。

 [80]次に釈は、初めに中路とは、是れ半途を中路と名くるに非ず、但だ発心を以て始と為し、仏に至るを終と為す、此両楹の間にして而して退意を起す、故に中路と名く。

 [81]第二に白導師言とは、自ら通途の慈悲の導師有り、文に云ふが如き有一導師将導衆人とは是れなり、自ら結縁の導師有り、文に云ふが如き所将人衆白導師言是れなり、自ら権智の導師有り、文に云ふが如き導師多諸方便とは是れなり、自ら実智の導師有り、文に云ふが如き導師知此人衆是れなり。今白導師と言ふは、正しく結縁の導師を白ふなり、其大を退するときは則ち大滅し、小を接するときは則ち小生ずるを以て、一は生じ一は滅して法身を感ず、此れを呼んで白と為す、王子は其退大を知れば、即ち是れ其白ふ所を聞き、善根微弱にして無明に翳ぜらる、故に疲極と言ふ、生死を憚るを名けて怖畏と為す。

 [82]第三に不能復進前路猶遠とは、見思塵沙無明は卒に断で可きこと難きなり、然るに小乗を用ひて之を接し、頓に本処に還らしめざれば、亦進の義有り。

 [83]導師多方便の下、第二に即ち小を以て接するなり、上の火宅と方便は、三乗の法を開するに皆四意有り、此中に具足す。

 [84]初めに多方便は擬宜を譬ふ。

 [85]而作是念の下、第二に其宝を失するを傷むは、小有て大無きことを知るを讐ふるなり。

 [86]次に作是念已の下、第三に化作城は正しく方便を用ふることを譬ふるなり。是時疲極之衆の下、第四に入城は、三乗の悟入を譬ふるなり。上の両意は文の如し。作化城の譬、自ら復二と為す、先に化を作し、後に化を説く。以方便力の下は正しく化を作す。

 [87]告衆言の下は正しく化を説く。上の車譬に云く、吾れ汝等の為めに此の車を造作すと、今の城は是れ有り、故に須らく先に作るべし。説化城譬は上の勧示証に擬するなり。汝等勿怖莫得退還とは勧転、前進して城に入らしむるなり。今是大城乃至随意所作とは、是れ示転、城の住す可きことを示すなり。若入是城快得安楽とは、是れ証転、城の安隠なることを讃ずるなり。

 [88]前至宝所亦可得去とは、三蔵教の中には未だ前進を論せず。

 [89]一説に云く、三乗教を明す時語て言く、若し大乗を発して仏を求めば亦善し、如し其れ能はずんば、但だ二乗と作るとも亦好し、例へば勝鬘に云ふが如し。三乗の初業は法に愚ならず、自ら応に作仏を得べきことを知るも、但だ厭憚して堪へざるが故に永滅を取るのみと、若し爾らば別教を成ず。

 [90]又説て云く、但だ化城に入り竟て然して後に更に復前進せしむと。大品浄名の中悉く其意有り、此れ即ち別接通の意のみ。

 [91]但だ今仏未開顕の前に於て、彰灼にして而して此語有ることを得ず。

 [92]若し宿世を論ずれば、応に是言有るべし、何となれば、既に退する意を知る、王子教化して言く、汝等若し生死を畏れば、且らく涅槃を取て消息し、然して後に更に大道を行ぜよ、亦意に随ふ可しと。亦今の人の大乗を学ばんと欲して而して生死を畏怖し、退心を起さんと欲するに、有人勧めて汝且らく煩悩を断じて羅漢を証し、然して後に更に大道を取れ、亦得可しと言ふが如くなり。

 [93]今現在の一代の化道は未だ周ねからず、忽ちに此語有りといふことを得ず、若し権を開し実を顕はさば、即ち之を説くことを得、涅槃の中の諸の羅漢を取る者の如き、皆是れ其義なり。

 [94]大歓喜とは即ち聞慧、未曾有とは即ち煖位、免悪道とは即ち頂位、快安隠とは即ち忍位、前入城とは即ち見諦位、已度想とは即ち無学位なり、此れ火宅の子の願に適し、勇鋭し推排して宅を出ると同じなり。生已度想は尽智を得るが如し、安隠想は無生智を得るが如し。又智徳を具するは已度の如く、断徳を証するは安隠の如くなり。

 [95]有人説かく、宝所とは、三界と二乗と若し過ぎなば即ち仏道に至る、仏道は是れ宝所なりと。

 [96]大経に三文有り、一に菩提心に至る、二に菩提に至る、三に大涅槃門に至る、若し菩提心に至れば必らず菩提及び涅槃に至る、此三文を引くは、菩提心に至るは因に至るを謂ひ、菩提涅槃は果に至るを謂ふ、果の中に智断有り、菩提は是れ智、涅槃は是れ断なり、具に始終を説き、具に智断を説く、故に三文を説くなり。

 [97]然るに五百を過るに三義有り、一に悪道を免る、二に好路を得、三に是れ宝所なり、菩提心は悪道を度するを謂ひ、菩提行は平坦の路の如し、三に仏道を得るは宝所に至るが如し。下の文に云く、今汝の為めに実を説かん、汝の得る所は実に非ずと、此れ五百の悪道を度するを明すなり。為仏一切智当発大精進とは菩提の好道を行ずるを謂ふなり、汝証一切智十力等仏法とは仏道を得るを謂ふなり、何故ぞ要らず五百を度することを須ゆる、二乗は三百を度し、菩薩は四百を度し、仏乗は五百を度するなり。

 [98]爾時導師知此の下、第三に化を滅し引て宝所に至る、此中二有り、一に息し已るを知り、二に宝所に向ふ。

 [99]既得止息無復疲惓とは、上の涅槃の時到り、衆も又清浄なるを譬ふ、難を免れ大機発するなり。

 [100]即ち化城を滅して引て宝所に向ふは、上の正しく法華を説て真実の相を示すを譬ふ。

 [101]宝所に二義有り、若し究竟を用ふるときは、則ち極果を以て宝所と為す。上の文に云く、唯仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究竟したまふなりと。

 [102]若し分入なれば即ち初発心住を以て宝所と為す。故に上の文に云く、無上の宝聚は求めずして自ら得と。又云く、仏法の分を得、仏子の応に得べき所の者は皆已に之を得たりと。

 [103]大経に云く、須陀洹は八万劫に到ると、初発菩提心の処に到るなり、此れ鈍根の任運に八万十千等を用ひて至るを取る、若し三蔵の中の四果の如きは少時を経ずして皆大に入ることを得、豈に八万と十千とを須ひんや云云。

 [104]宝処在近向者大城我所化作とは、即ち廃権の譬を挙げて以て顕実の讐を帖するなり、上に云く、如来の智慧は信じ難く解し難し、是の諸人等、応に是法を以て漸く仏慧に入るべしと、方便の中に、我れ苦縛を脱し涅槃を逮得せしめたるは、仏方便力を以て示すに三乗の教を以てと云ふに擬するなり。

 [105]旧問ふ、車と城とは皆無生智を譬ふ、車は何が故ぞ無く、城は何が故ぞ有る、而も車は三、城は一、車は動き城は静なるや、答ふ、長者は門外に車有りと道ふに、隔り有るが故に諸子見ず、門外に車有りと仮設することを得可きも、車は実に無きなり、城は逈なる地に在り、仮設することを得ず、故に城は是れ有るなり。

 [106]理教に就かば、三教に執して理を取るときは即ち三教は皆理を得、此れ即ち有の義にして城の如くなり。理を将て教を取らば、理は既に唯一なり、此教は即ち三家の果無し、即ち車の義にして無に拠るなり。

 [107]車三城一とは、諸人同じく一処に息む、所以に城は一なり、車は三人に就く、三人の楽ふ所同じからず、故に三なり。

 [108]理教とは、三家の尽無生は異らざること城の如し、三人正使同じく尽くと雖も、而も習気に尽不尽有り、傍に知見を得るもの有り、得ざる者有り、故に此れを用ひて尽無生を荘厳す、此義同じからざること三車の如し。

 [109]三家の尽無生智は、因尽き果亡ずることを明す、此処は是れ極なること城の静かなるが如し。尽無生智もて運んで無余に入るは、車の動ずるが如し。

 [110]難云云。

 [111]今明さく、衆生の心に約するに軍城倶に有り、仏智に約して明すに亦有り亦無し、権智の明す所は有と為すこと城の如し。実智の明す所は無と為すこと車の如し云云。化城の正意は大を退して小を取る人の為めにし、傍に発軫に小を学する人の為めにす、上の二周の正意は発軫に小を学する人の為めにし、傍に大を退する人の為めにするなり。

 [112]三車は今昔に通ず、化城は正しく是れ教の意を引き、未だ是れ化と道はざるなり。

 [113]問ふ、化の為めの三車と化城と何の異りかある、答ふ、三軍は説法輪の為めに譬を作す、化城は神通輪の為めに譬を作す。又車は声に約して譬を作し、諸子聞て而も見ず、城は色を為て譬を作す。問ふ、城と二使と云何、使は能く指示す、教の理を詮するが如し。城は患を息めんが為めなり、教は動じて城は静なり、教は即ち四諦十二縁異り有り、城は是れ二智にして無余に入ること異らず、教は因果に通じ、城と車は但だ果に在り、教は有為無為に通じ、城と車は但だ無為に在り。

 [114]権智には車は是れ無と謂ふ、名教もて施設するが故なり。実智には車は是れ有と謂ふ、文字を離れて解脱を説くこと無きが故なり、権智もて城を照すを有と為す、衆生を引くが故なり、実智もて城を照す是れ無なり、偏真は実に非るが故なり。

 [115]権智もて車を照す是れ三なり、三縁に逗するが故なり、実智もて車を照さば是れ一なり、倶に一乗を会するが故なり。権智もて城を照すを一と為す、是れ偏真の故なり、実智もて城を照すを三と為す、如来蔵の故なり。

 [116]権智もて城を照すを静と為す、是れ灰断の故なり、実智もて城を照すを動と為す、此化を滅するが故なり、権智もて車を照すを運と為す、運んで無余に入らしむるが故なり。実智もて車を照すを静と為す、動ぜず出でざるが故なり。

 [117]此の如きの釈を作す、豈に旧と同じからんや、旧は秖だ小乗の中に在て義を作す。

 [118]問ふ、凡そ五処に三を開し一を顕はす、何の異有りとせんや、答ふ、通じて論ずれば異り無し、別して論ずれば差有り、方便品は教に約して開三顕一す、文に云く、如来は但だ一仏乗を以ての故に、衆生の為めに法を説きたまふ、二も無く亦三も無きなりと。火宅は行に約して開三顕一す、車は是れ運の義、運は則ち行を譬ふ、文に云く、各々大車に乗て四方に遊び嬉戯快楽するなりと。信解の中には、人に約して開三顕一す、傭作の人は即ち是れ長者の児なることを結会す。我等は昔しより来た真に是れ仏子なりと。薬草喩の中には、差別と無差別に約して権実を明す、的しく去取せず、但だ衆生は知らず、仏は其をして知らしめたまふことを明す。若し七種の差別は即ち権を知る、同じく一理に依て差別無ければ、即ち実を知る、差別にして無差別、無差別にして而も差別す、此意を知らしむるのみ、終に説て一無く一有りと言はず、此れ自行の権実二智、随自意語に約す、故に仏は能く知て而して衆生知らざるなり。亦是れ前に通じ後に通じて知と不知に権実を明すなり。今の化城は正しく理に約して開三顕一す、宝所と化城とは、皆是れ小大の両理にして二乗の化理を破除して宝所の真実の一理を顕はすなり。下去の五百の領解は珠を挙げて譬と為す、亦是れ理に約するなり。

 [119]諸比丘如来の下、第二に合譬なり、先に正しく合し、後に譬を挙げて帖合す、而して次第ならず。

 [120]如来亦復如是の下、初めに第五の導師譬を合す、今為汝等の下、第二に第三の多諸人衆譬を合す、知諸生死煩悩悪道除難の下、第三に第二の険悪道譬を合す、長遠の二字は第四に第一の五百由旬譬を合す、応去応度とは、第五に聡慧明達を合す、亦是れ第四の欲過険道至珍宝処を合するなり。

 [121]若衆生但聞の下、第二に将導譬を合す、譬に本と三有り、今亦三を合す。

 [122]若衆生は第一の所将人衆を合するなり。但聞一仏乗とは、第二の退大接小譬を合す。若衆生住於二地の下は、第三の滅化将至宝所譬を合するなり、第二の譬に本と退大と接小有り、今具に之を合す、上の退大に三意有り。

 [123]但聞一仏乗とは、上の中路懈退無機の意を合するなり。不欲見仏不欲聞法は、上の白導師不受誡勧を合ずるなり。便作是念とは、上の不能前進息化の意を合するなり。仏知是心の下は、上の小もて退を接するを合す、譬に本と四有り、今の合には但三あり。仏知是心は、上の導師多方便擬宜の意を合するなり。怯弱下劣とは、上の此等可愍知有小機を合するなり。而於中道為止息故の下は、第三の現作化城衆人入城譬を合するなり。而於中道説二涅槃とは、三界の惑尽き、塵沙無明未だ破せず、此両楹に於て有余と無余の涅槃を判ず、亦是れ声聞と縁覚の涅槃なり。又分段已に尽き、変易未だ除かれず、二死の間を判じて有余と無余と為す、故に中道と言ふ云云。

 [124]若衆生住於二地の下は、第三の将至宝所を合す、上の文に二有り、今の合も亦二あり。若衆生住於二地は、此れ止息し已るを知るを合す。如来爾時即便為説の下は、此れ将て宝所に向ふを合す。

 [125]如彼導師の下、第二に譬を牒して帖合す、接退譬を牒し来て施三に合す、滅化譬を牒し来て顕一に合す、文の如し云云。

 [126]第二に偈頌、四十九行半の偈あつて上を頌す、上に二有り、今初めに二十二行半は結縁の由を頌す、次に二十七行は第二正結縁を頌す、上の由に近遠有り、今初めの十二行は上の遠由を頌す、次に無量慧世尊の下十行半は近由を頌す、上の遠由に二有り、今初めの六行は大通の成道を頌す、次の六行は十方の梵来て法輪を転じたまへと請するを頌す、上の成道中に五有り。

 [127]今初めの三行は、第二の将に成道せんとするの前事を頌す。次に過十小劫已の下、第二に一行は第三の正しく成道するを頌す、次に彼仏十六子の下、第三に二行は、第五の十六子の法輪を転じたまへと請するを頌す、兼て第四の成道し已て眷属の供養を申ぶるを頌す、略して第一の仏寿長遠を頌せざるなり。

 [128]世尊甚難値の下六行は、十方の梵の請を頌す、上に二有り、今初めの一行は威光動耀を頌す。次に東方諸の下第二に五行は、十方の梵の光を尋ねて而して来るを頌す、此中前の三行は東方を頌す、次の二行は総じて九方を頌するなり。

 [129]無量慧世尊より下、第二に十行半は近由を頌す、上に二有り、今初め五行は、第一に二乗の法輪を転ずるを頌す、次に時十六王子の下、第二に五行半は、第二に重ねて大乗の法輪を転じたまへと請ふことを頌す。上の第一の文復三なり、初めに無量の下の半行は、第一の請を受くるを頌す。次に為宜の下、第二に一行半は、第二の正しく二乗の法輪を転ずるを頌す。次に宜暢の下、第三に三行は、第三の時衆法を聞て道を得るを頌す。時十六王子の下五行半は、第二に王子の重ねて請ふ中に七有り、初の二句は第一の王子の出家を頌す。次に皆共請彼の下、第二に一行半は、第二の正しく大乗を転じたまへと請ふを頌す。次に仏知童子の下、第三に二行は、二万劫の中間に方等般若を説くを頌す。次に説是法華の下、第四に半行は、正しく第四の請を受けて法華を説くことを頌す。次に彼仏説経已の下、第五に一行は、第七の経を説き已て定に入るを頌す。略して第三の父王所将の八万の出家を求め、第五の経を聞くの衆に解と不解と有り、第六の経を説く時節の長久なることを頌せざるなり。

 [130]是諸沙弥等の下二十七行は、正しく結縁を頌す、上の文に二有り、今初めの八行は法説を頌し、次に十九行は譬説を頌す。上の法説に三有り、今初めの三行は、第一の昔に因縁を結ぶを頌す、次に一行は、第二の中間に相値ふことを頌す、次の四行は、第三の今日還て法華を説くことを頌す、上の昔因縁を結するに四有り。

 [131]初めの半行は仏の入定を頌す、次に為無量億の下、第二に一行半は、正しく覆講することを頌す、後に一々沙弥の下、第三に一行は、法を聞て益を得ることを頌す、略して第四の仏の定を起て称歎したまふを頌せざるなり。次に彼仏滅度後の下、第二に三行は中間に相遇ふことを頌す。是十六沙弥の下、第三に四行は、今日法華を説くことを頌す、上の文に二あり、初めに古今を結会す、現在と未来と有り、今初めの三行は、現在の師弟を結会するを頌するなり。以是本因縁の下、第二に一行は還て法華を説くことを頌す、上の文に三有り、今初めの一句は、第一の時衆清浄を頌す、是の本の因縁を以て今日の時衆は難を兔れ機発するなり。次に今説法華の下、第二に三句は第二の為めに是経を説くを頌するなり、略して第三の開三の意を釈するを頌せざるなり。

 [132]険悪道の下第二に十九行は、譬の開合を頌す、初め十一行半は開譬を頌す、後の七行半は合譬を頌す。上の開譬を二と為す、今初めに三行は五百由旬譬を頌す、次に八行半は将導譬を頌す、上の五百譬に五有り。

 [133]今初めに一行は第二の険悪道を頌す、次に無数千万の下、第二に半行は、第三の多諸人衆を頌す。次に其路甚の下、第三に半行は、第一の五百由旬を頌す。次に時有一導師の下、第四に一句は、第五の一導師を頌す。強識有の下三句は、聡慧明達を頌するなり、第四を頌せず。衆人皆疲倦の下、第二に八行半有り、第二の将導譬を頌す、上の文三有り、今亦頌三あり、初めの二字は上の第一の将導を頌す。皆疲倦より下、第二に五行三句三字は第二の衆人懈退権立化城譬を頌す。次に導師知已の下、第三に二行半は、第三の滅化引至宝所譬を頌す。上の第二の文に二有り、謂く初めに懈退、次に接退なり、今初めの三句三字は懈退を頌す、次に五行は化を作し退を接するを頌す、上の懈退の中に三有り、今略して第一の中路を頌せざるなり。上の退を接し化を作すの文は今皆具に頌す、初めの一行は第二の大を失することを傷むを頌す、次に尋時思の下、第二に二句は第一の作念を頌す、次に化作大城の下、第三に二行半は第三の化を作すを頌す、上の文に又二あり、今初めの一行半は正しく化を作すの譬を頌す。諸舎宅とは、諸の空観の境なり、園林とは二乗の総持、無漏の法林なり。九次第定を渠流と為す、八解を浴池と為す、重門は是れ三空門、又是れ重空三昧なり、尽無生智を楼閣高出と為すなり、男女は是れ定慧なり。観心に解すれば、智体の周備するは城隍の如く、善法円足するは郭の囲繞するが如し、畢竟空を舎宅と為し、直善の能く自行を成ずるは、男の能く家事に幹たるが如く、慈悲の外に化するは女の外に適するが如し。次に即作是化已の下、第二に一行は上の化を説くを頌す。次に諸人既入の下、第四に一行は第四の城に入るを頌す。導師知息已の下、第三に両行半は、第三の化を滅し宝所に至るを頌す、上の文に二有り、今初めの一句は、第一の息し已るを知るを頌す。次に集衆の下、第二に二行一句は、化を滅し引て宝所に向ふを頌するなり。

 [134]我亦復如是の下、第二に七行半は、第二の二譬を合するを頌す。初め半行は第一の五百譬を合するを頌す、次の七行は第二の将導譬を合するを頌す。上に五百を合するに又四有り、今の半行は総じて頌するのみなり。見諸求道者の両行は、懈退譬を合するを頌す、上に開譬を頌するに中路を頌せす、今の一行は中路懈退を合す、次の一行は退を接し化を作すことを合するを頌するなり、既知到涅槃の下、第二に五行は、第二の化を滅し宝所に至るを合するを頌す、上の文の合に二あり、今の頌も亦二あり、初め半行は、第一の息し已るを知るを頌す、爾乃集大衆の下、第二に三行半は、第二の化を滅し引て宝所に向ふことを合するを頌するなり、息化を合する偈の中、即ち三徳秘密蔵の義有り、汝証一切智とは即ち是れ般若、具三十二相とは即ち是れ法身、乃是真実滅とは即ち是れ解脱なり、三法の縦ならず横ならざるは、即ち是れ仏性を見るなり。諸仏之導師の下一行は帖合を頌するなり。

 ◎五百弟子受記品を釈す

 [1]此品具に千二百に記す、而るを五百を標するは何ぞや。五百の得記は名同じく、五百は口に領解を陳ぶるが故に以て品を標するのみ。

 [2]此品は是れ因縁説の中の第二段なり、得記に就て二有り、一に千二百、二に二千なり、千二に復二あり、一に満願に授け、二に千二百に授く、満願に復二あり、一に黙して領解するを序す、二に如来の述記なり。先に其得解歓喜を叙し、次に其黙念領解を叙す、歓喜に復二あり。一に其得解の由を叙し、二に其得解歓喜を叙す、得解の由に四有り、初めに法譬二周の開三顕一を聞く、二に身子等の五大弟子に記を授く、三に復宿世結縁の事を聞く、四に復諸仏如来の三達無礙にして、彼久遠を観ること猶ほ今日の若くなるを聞く、即ち是れ大自在神通の力にして、二乗の止だ八万に斉るに斥異するなり。

 [3]従仏聞是智慧の若きは、即ち方便火宅の中の顕実を領す、方便随宜所説とは、即ち両処の開権を領す。諸大弟子とは、即ち開権を領す。授菩提記とは、即ち顕実を領す。宿世因縁とは、即ち顕実を領す。神通之力とは、即ち開権を領するなり。

 [4]得未曾有の下は、其解を得て歓喜するを叙す、先には内解の歓喜を明し、次には外形の恭敬を明す、昔は未だ開権顕実を聞かずして而して今聞くことを得るに由る、放に得未曾有と言ふ。涅槃の愛を除き別惑を断破す、故に心浄と言ふ。仏の知見を開す、是故に踊躍す、得解は仏に由る、故に起て恭敬するなり。若し本迹に約せば、諸の実行を慶ばしむるのみ。

 [5]而作是念の下は、正しく黙念領解を明す、初めに黙念領解を明し、次に黙して発迹を求めて記を請ふことを明す。上の二周は悟を得て皆発言領解す、此れ何ぞ黙念するや。上は下根の未だ悟らざるが為めに、事は須らく言を彰かにして勧動すべし、今は下根も已に悟て勧動する所無し、故に黙念して言はず、又上来は但だ領解して発迹を求めず、言ふも則ち嫌はず、今は則ち亦解し亦発す、亦解するが故に念す、物の譏嫌を避くるが故に黙す、黙念することは宜しきに允へり。又黙念領解は是れ大領解にして浄名の黙念は是れ真の入不二法門なるが如くなり。又権実は思議す可らず、言に非ず念に非ず、而も言にして而も念、言に非ずして而して言なり、故に上来より口に領解を陳ぶ、亦念に非ずして而して念なり、今は則ち黙念領解す。上来は何の意ぞ発迹を求めざる。下根は未だ悟らざるが為めに、是故に迹を発すること能はず、今は下根も已に解し、権化の事足るなり。若し下根も迹を発すれば、則ち中上も亦権なることを知る。若し上中に約すれば、則ち下に於て便ならざるが故なり。世尊甚奇特所為希有とは実智を領するなり。随順世間若干種性而為説法とは、即ち権智を領するなり、是れ七種方便の根性なり、此れ方便品の中の開権と顕実との意を領するなり。抜出衆生処処貪著とは、即ち是れ火宅の中の開権と顕実とを領するなり。我等於仏功徳言不能宜とは、上の薬草喩の中の如来有無量功徳汝等所不能及を領するなり、既に言不能宜と云ふ、亦是れ念の及ばざる所なり。

 [6]唯仏領知の下は、即ち是れ黙念して発迹を求め記を請するなり。我等とは、通じて念じて諸人の迹を発せんと請ふなり。深心とは是れ本なり、今の現作は是れ迹なり。本願とは大慈誓願なり、大慈もて下化す、故に我れは誓を為す、止作仏を求む、故に我に願有り、上求を請ふは即ち是れ記を求むるなり、下化を説かんことを請ふは即ち発迹を求むるなり、又深心に従ふが故に、其三世に仏を助け化を宜ぶることを明す、本願に従ふが故に、即ち授記を与ふるなり。

 [7]仏告の下、第二に仏述して之を記するなり、長行と偈頌と有り、長行に二有り、一に本迹を述し、二に授記を与ふ、初めに三有り、一に釈迦世の行因に就て迹を発す、二に過去仏世の行因に約して本を顕はす、三に三世の仏の所修の因行満ずるに就く、釈迦仏の所行因に就て迹を発するに復三あり、一に其人を挙示す、二に総じて本迹の章を標す、三に別して本迹を釈す。

 [8]即ち標して汝等見不と言ふに二意有り、一には其迹に小と為ることを見るやいなや、二には其本の功徳を見るやいなや、衆人は但だ迹に声聞たるを見て、而して本と是れ菩薩なることを知ること能はす、故に見るや不やと云ふなり。

 [9]我常称其の下、是れ其迹を標す、迹には説法人の中に最も為れ第一と呉す、若し法身の妙本に非ずんば、以て第一の勝迹を垂るゝこと無し、昔より来た、但だ迹中に於て説法第一なりと言ふ、今は則ち爾らず、無上の法に於て久しく第一を得と、此れ迹を挙げて以て本を顕はすなり。

 [10]亦常歎其の下は其本地を標す、福慧の万行の法門なるが故に種々と云ふなり。本地に既に種々の法門有り、亦復何ぞ但だ迹に二乗と為るのみならんや、此れ本を挙げて以て迹を明すなり。

 [11]精勤護持の下は別釈なり、助宜我法とは、即ち是れ迹中に半満の法を助宜す、迹に下根の声聞と為るは即ち是れ酪法を護持し助宜するなり、迹に方等に在りて弾訶を受くることを示すは即ち是れ生蘇の法を護持し助宜するなり。迹に般若を領すは即ち是れ熟蘇の法を護持し助宜するなり。迹に法華に在て悟ることを得るは即ち是れ醍醐の法を護持し助宜するなり。上の総本の中に我常称歎種々功徳と云ふは即ち此意なり。権実の功徳を具足し、而して迹に五味を起して仏を助けて実行の衆生を調熟す、豈に精勤助宜の意に非ずや。別して本迹の功徳を釈せば、能於四衆示教とは半字の教を分別するなり。具足解釈とは満字の般若の教を助宜するなり。而大饒益とは、仏を助けて半満の衆生を饒益するなり。同梵行とは、是れ迹に化する所の半満の弟子なり。

 [12]自捨如来の下、別して木地の功徳を述するなり。自捨とは、妙覚を降て已来なり、無能知とは七種の方便なり。

 [13]汝等勿謂助宜我法の下、第二に過去仏の世に就て其本行を顕はす、直止だ我所に於て半満の法を助宜するのみに非ず、久遠の仏の所にして亦復半満の法を助宜す、今日助宜するを取て発迹と為し、過去に助宜するを取て顕本と為す。顕本に二有り、一に遠本、二に近本あり、遠本冥邈として信を為すこと良に難し、故に略して述せず、但だ九十億の近本を挙ぐることは宿命智有らば能く近本を知るが故に近を挙げて以て遠を証す、九十億の文に就て、具に仏を助けて五味の教を宜揚し、衆生を調熟することを明す。護持助宜は即ち半字酪味の法を助宜するに擬す。仏之正法は即ち方等生蘇味の法を助宜するに擬す。又於空法明了とは、即ち熟蘇味の法を助宜するに擬す、亦今仏転教して般若を説て六波羅蜜を明し、互に相ひ収摂し、旋転無礙なるが如し。九十億仏の所にして亦助けて宜揚すること今の如くにして異なること無し。彼仏世人咸皆謂之実是声聞は、時に既に未だ迹を発せず、但だ加を被り命じて般若を転ずと謂ひ、是れ大菩薩なりと言はざるなり。化無量衆生令立三菩提とは即ち是れ醍醐味の法を助宜するなり、文に在て解す可し云云。

 [14]亦於七仏の下、第三に三泄の仏の所修の因に約す、文の如し、此れ亦前に例するに、半満五味の法を助宜して大小を利益するなり。