◎見宝塔品を釈す。
[1]梵に塔婆と言ふ、或は偸婆なり、此には方墳と翻ず、亦霊廟と言ふ、又支提と言ふは骨身無き者なり、此塔既に仝身散ぜざる有れば則ち支提と称せず。
[2]阿含に四の支徴知荷の切を明す、謂く生処と得道と転法輪を入滅との四処に塔を起つ、今の宝塔は是れ先仏の入滅の支徴なり。
[3]経に云く、仏の三種の身は此経より生ず、諸仏は此に於て而して道場に坐したまひ、諸仏は此に於て而して法輪を転じたまひ、諸仏は此に於て而して般涅槃したまふと、秖だ此法華は即ち是れ三世諸仏の四の支徴なり、先仏已に居し、今仏並坐す、当仏も亦然らん。
[4]此塔出で来りて、明かに此事を顕はし、四衆皆観る、故に見宝塔品と言ふ。
[5]瓔珞経に善吉問ふ、生身と全身と砕身と功徳等しきや、仏の言く、等しからず、色身は言教をもて化訓し、三業具足して清浄なれば、衆生は道場に至ることを得、全砕の舎利は正しく威神光明なる可し、供養ずれば福を得、是故に等しからずと。
[6]又問ふ、頂王如来は十二那術劫に説法教化したまふ、舎利亦爾り、此れ応に是れ等しかるべし、仏の言く、皆頂王如来の神力の所作のみ、彼経は仝砕の舎利皆生身の仏力に由ることを格すと。
[7]今経は生身全砕の舎利、法身偏円の舎利、皆経より出ることを格す、此経の功徳と弘持の力の大なることを顕はす。
[8]地より涌来して此事を証明し、四衆皆観る、故に見宝塔品と言ふ。
[9]北地師の云く、仏は身子の為めに経を説きたまふ時、宝塔已に現じ為めに証明を為す、若し経を説き竟らば来て何等をか証せん、経家は次第を作して三周の後に安置するのみと。
[10]此れ乃ち人情のみ、則ち信ず可らず。今は薩雲分陀利経に云へるに依るに、仏法華の無央数の偈を説きたまふ時、七宝の塔有て地より涌出す、中に金床有り、床上に仏有します、袍休蘭羅と字けたまふ、漢には大宝と言ふ、釈尊を歎じて言く、我れ故に来て供養す、願はくは我が金床に坐して、更に我が為めに薩雲分陀利を説きたまへと。此経に依て証するに、即ち是れ三周を説く後に更に寿量を請す、明文聖説なり、而るに肯て用ひず、人の穿鑿、那ぞ承く可けんや。
[11]此塔は正しく前を証し後を請せんが為めに地より涌出す、四衆皆観る、故に見宝塔品と言ふ。
[12]地師の説かく、多宝は是れ法身の仏なりと。
[13]釈論に説かく、多宝誓願して身を化して来て経を証すと、此文も亦爾り。
[14]師の言く、法身には来無く出無し、報身は巍々堂々、応身は普ねく一切に応ず、若し即ち此れは是れ三仏と謂はば、未だ体を尽さざるなり。秖だ是れ表示するのみ。多宝は法仏を表し、釈尊は報仏を表し、分身は応仏を表す、三仏は三なりと雖も、而も一異ならず、応に此の如きの説を作し、此の如く信解すべきなり。
[15]此四番は即ち四悉檀に見宝塔を解す云云。
[16] 塔出を両と為す、一に音声を発して以て前を証し、塔を開て以て後を起す。
[17]証前とは、三周の説法は皆是れ真実なることを証す。
[18]若し略して真実を言はば、皆実相と相応するなり。若し広く真実を言はば、四句を離れ百非を絶するなり。若し処中に説かば、八不を真実と名く、塔の地より涌するは不滅を示す、座を分て共に坐するは不生を示す、塔に入るは不常を示す、塔を現ずるは不断を示す、分身は不一を示す、全身は不異を示す、多宝の座を譲るは不来を示す、釈迦の半座に坐するは不出を示す、八不顕然なり、故に是れ真実なり。
[19]又迹門の流通、持経の功深く、弘宣の力大なるは皆真実なることを証するなり。
[20]平等大慧と般若と云何。釈論七十九に云く、般若は是れ三世の諸仏の妙法なりと。一の城門は四方より皆入るが如し。当に知るべし、般若亦妙法と称し、此経を平等大慧と称することを、二文相指す、其意知る可し。
[21]後を起すとは、若し塔を開せんと欲せば、須らく分身を集め玄を明して付嘱すべし、声は下方に徹して、本の弟子を召して寿量を論ず。
[22]久遠の塔の地より涌出するは、自在神通の力を開て過去世の益物を顕はすなり。大音声を発するは、師子奮迅の力を開て、現在十方の開権顕実を顕はすなり。大誓願有て、未来の諸仏の若しは此経を説かば、我の宝塔、皆其所に到て為めに証明を作さんとは、大勢威猛の力を開て、未来の常住不滅を顕はすなり。
[23]又塔は空中に在りて亦前を証し後を起す、七方便の人の蔵理未だ開けず、無明に隠さるること塔の地に在るが如し、三周の開三顕実を聞て仏知見を開き法身を顕出するは、塔の空に涌するが如し、此れ即ち前を証す。
[24]修得の法身の久しく已に明著なるは、塔の空に在るが如し。能く開く者無きは、本地の久成衆の識らざる所なるを表す。若し迹を発し本を顕はせば、了達して疑無し、此れ即ち後を起すなり。
[25]若し塔の地より出づるは、法身顕はるるを表す、余経と亦同じく亦異なり。菩薩の法身を顕はすは則ち同じく、二乗の法身を顕はすは則ち異なり。若し塔の空に在て門を開て仏を見たてまつるは、発迹顕本を表す、余経と永く異なり。
[26]若し塔来て前を証するは、事已に彰灼なり、蓋し疑ふべからず、塔来て後を起すは、密に其意有り、衆の未だ知らざる所なり。
[27]今は後の義を取て預め此釈を作る、亦復咎無し。
[28]観心もて解すれば、経に依て観を修すれば法身と相応し、境智必らず会す、塔来て経を証するが如し、境智既に会すれは則ち大報円満す、釈迦と多宝と同じく一座に坐するが如し。大報円かなるを以ての故に、機に随て応を出す、分身皆集るが如し。
[29]多宝出るに由るが故に、則ち三仏顕はることを得、経を持するに由るが故に、即ち三身を具す。
[30]普賢観に云く、仏の三種の身は方等より生ずと、即ち此義なり。
[31]有人分つらく、此品より下の十一品は是れ神通身輪もて本迹を開く、弥勒問より下は是れ説法口輪もて本迹を開くなりと、本迹の意未だ彰れず、此れより文を分つこと太だ早し云云。此品に長行と偈頌有り、長行に三有り、一に多宝の涌現を明す、二に分身の遠集を明す、三に釈迦の唱募を明す、初の文に六有り、一に塔現の相、二に諸天の供養、三に多宝の称歎、四に時衆の驚疑、五に大楽説の問、六に如来の答なり。
[32]七宝為塔とは、法身の地は性得の七覚七聖の財宝を以てすることを明す、塔とは実相の境にして、法身所依の処なり。高五百由旬とは、是れ二万里にして竪に因中の万行と果中の万徳を明すなり。広二百五十由旬とは即ち是れ一万里にして横に万善を用ひて荘厳するなり。地とは無明の心地なり。所破無きを以て無明を破し、所住無きを以て第一義空に住す。種々宝物とは、衆多の定慧をもて而して荘校するなり。欄楯は是れ総持なり。龕室千万とは、無量の慈悲の室なり、亦是れ無量の空舎なり。幢幡は是れ神通の勝相なり。垂宝瓔珞とは、四十地の功徳もて上は法身を荘厳し、下は衆生に被らしむるなり。宝鈴万億とは、八昔四辯なり。四面出香とは、四諦の道風四徳の香を吹くなり。高至四天王宮とは、四諦の理を窮むるなり。
[33]三十三天より下は、第二に諸天の供養なり。事解は知ぬ可し。更に復理に約す。三十心を三十と為し、十地を一と為し、等覚を一と為し妙覚を一と為す、合して三十三と為る、同じく実相の境に依るなり。雨天曼陀羅とは、初心も亦四十二地の功徳を具す、後心も亦爾り、皆四十地所有の因花を以て法身に帰向するなり。余諸天龍の下、即ち是れ内凡外凡等なり、亦実相に依て果に向ひ因を行ずるなり。
[34]爾時宝塔中の下、第三に多宝の称歉にして、正しく前の開権顕実の虚ならざりしことを証すなり。平等大慧とは、即ち是れ諸仏の智慧なり、前の行歩平正の義の如くなり。平等に二有り、一に法等とは即ち中道の理なり。二に衆生等とは一切の衆生同じく仏慧を得るなり。大とは前の高広の義の如くなり。観心に約せば、空観は竪に等しく、仮観は横に等しく、中観は横竪平等なり、平等に双照す、即ち是れ平等大慧なり。如是如是とは、一は法相の是の如し、二は根性の是の如くなり、皆是真実とは、法相の如く説く、故に真実と言ふなり。
[35]爾時四衆見の下、第四に時衆の驚疑なり、文二有り、一に法喜を得、二は疑怪なり。
[36]爾時有菩薩の下、第五に大楽説は疑に因て請問す、若し下の答の意に望むれぱ、応に三問と為すべし、一に何に因てか此塔有ると問ぶ、二に何故に塔は地より出づと問ふ、三に何故に是音声を発すと問ふなり。
[37]爾時仏告の下、第六に仏の答なり、此に三あり、一に先に第二の問に答ふ、此仏に願有り、法華を証せんが為めの故に、地より涌出するなり。彼仏成道の下は、追て第一の問に答ふ、彼仏命じて此塔を造らしむるに由るなり。次に其仏以神の下、第三に第三を答ふ、証明を作さんが為めの故に是の音声を発するなり、釈論に明さく、多宝仏は説法することを得ずして而も滅度を取りたまふと。師の解は爾らず、彼仏は諸の比丘に告げたまふ、比丘は即ち是れ化を受くるの人なり、何ぞ説かずと謂はん、当に是れ多宝も亦開三を得れども顕実を得ざるなるべし、故に釈論に説法することを得ずと云ふのみ。是義を以ての故に復滅度すと雖も、在々処々に法華経を説くこと有らば、便ち随喜して証を作すなり。
[38]大楽説以如来神力の下、第二に分身の遠く集まるを明す、此れに就て七有り、一に楽説の多宝を見んことを請ふ、二に応に分身を集むべし、三に楽説の集めんことを請ふ、四に光を放て遠く召す、五に諸仏も同じく来る、六に国界を厳浄す、七に塔を開かんことを与欲す。初の請に承仏神力と云ふを釈せば、塔を開かんと欲せば、須らく仏を集むべし、仏を集むれば即ち付嘱す、付嘱すれば即ち下方を召す、下方出れば即ち応に近を開して遠を顕はすべし、此れは是れ大事の由なり、豈に仏の神力の問はしむるに非ずや、余段は文の如し。爾時仏放白毫の下、四に光を放て遠く召す。三変土浄とは、此れ正しく三昧に由るなり。三昧に三有り、初めに娑婆を変ずるは是れ背捨の能く穢を変じて浄と為すなり。次に二百那由他を変ずるは、是れ勝処の転変自在なるなり。後に二百那由他を変ずるは、是れ一切処の境に於て碍ゆるところ無きなり。又初めの一変浄は、四住を浄除することを表す、次の一変浄は、塵沙を浄除することを表す、後の一変浄は、無明を浄除することを表す。是時諸仏坐師子座より、第七に塔を開せんことを与欲するなり、復五あり、一に諸仏問訊し欲を説く、二に釈迦塔を開きたまふ、三に四衆皆同じく見聞す、四に二仏座を分て而して坐したまふ、五に四衆の加を請ふ。諸仏同じく塔を開かんことを与欲するは、僧中の作法の与欲の意の如くなり。大集に若干の仏の与欲を明し、華厳も亦十方若干の仏の同じく華厳を説くことを説く。大品も亦千仏の同じく般若を説くと云ふも皆是れ釈迦の分身と云はず、今の経に準ぜば、応に是れ分身なるべし。彼れは方便を帯するが故に、時の中に顕はに説かざるのみ。今経は但だ数多きのみに非ず、亦直に是れ分身の咸く来て与欲すと説くなり。爾時釈迦見の下、第二に塔を開くとは、即ち是れ開権なり、仏を見たてまつるとは即ち是れ顕実なり、亦是れ前を証し、復将に後を開せんとするなり。如却関鑰とは、障を却て機動ずるなり。
[39]以大音声の下、第三に釈迦の唱募して流通の人を覓めたまふなり、復三と為す、一には大声もて唱募す、如来不久の下、第二に付嘱の時至るを明す、仏欲以の下、第三に付嘱して在ること有らしむるを明す。有在とは、若し仏世に在せば、機に随て物を利し、自ら正法を説きたまひて他人を待つこと無し。今は仏の化縁の機尽て此法をして利益無窮ならしめんと欲したまふ、故に須らく付嘱流通すべきなり、付嘱有在とは此に二意有り、一に近く在ること有らしむとは、八万二万の旧住の菩薩に付して此土に弘宜せしむるなり。二に遠く在ること有らしむとは、本の弟子下方千界微塵に付して、触処に流通せしむるなり。又寿量を発起するなり。
[40]偈に四十八行有り、上の三意を頌す、初めに三行半有り、多宝の滅度を頌す。第二に八行半有り、分身集まることを頌す。第三に三十六行有り、釈迦の付嘱ぞ頌す。前の二は文の如し。告諸大衆の下第三に復二あり、初めに八行半は、三仏を挙げて以て流通を勧む、次に二十七行半有り、難持の法を挙げて以て流通を勧む。初めに就て三有り、初めに一行半は其の人を募り覓む、次に其多宝の下、第二に三行有り、正しく三仏を挙げて以て持経を勧む。次に其有能護の下、第三に四行は能く此経を持たば、即ち是れ三仏を供養し、及び三仏を見たてまつるなりと、以て勧の意を釈す。諸善男子の下、第二に二十七行半は、難持の法を挙げて以て流通を勧む、復二あり、初めに二十行は、正しく勧を挙ぐ、二に七行半は勧の意を釈す。初めに就て復三あり、初めに一行は誡勧なり。次に諸余経典の下、第二に十七行は、正しく難持を挙げて以て流通を勧む、後に我為仏逧の下、第三に二行は難持の意を釈す。若有能持即持仏身とは、此意豈に易からんや。第二に諸善男子我於の下七行半は、能く持ち難きを持ち能く勝徳を成ずることを明して、以て勧の意を釈す、此れに就て復三あり、初めに一行半は重ねて持経の人を募る。次に此経難持の下、第二に一行半は能く持ち難きを持てば則ち諸仏喜歎したまふを明す。次に是則勇猛の下、第三に四行半は能く持ち難きを持てば即ち勝行を成ずることを明す、勝行に自他有るなり。恐畏世とは、天竺には沙悖と名く、此には恐畏と云ふ、天竺には颰陀と云ひ、此には賢と云ふ、劫の異名なるのみ。
◎提婆達多品を釈す。
[1]生る時人天の心熱す、此れに因て名を立つるは即ち因縁に名を釈するなり。逆を行ずるに因て而して理順ずるは即ち円教の意にして余教の意に非るなり。本地は清涼にして迹に天熱を示す、衆生の病に同ずるのみ。
[2]宝唱の経目に云く、法華に凡そ四訳あり、両は存両は没すと。曇摩羅刹、此には法護と言ふ、西晋の長安にて訳す、正法華と名く、法護仍て敷演す、安と汰の所承の者是れなり。鳩摩羅什、此には童寿と翻ず、是れ亀茲国の人、僞秦の弘始五年四月二十三日を以て長安の逍遙園に於て大品を訳し竟ぬ、八年の夏に至て、草堂寺に於て此妙法蓮華を訳す、僧叡に命じて之を講ぜしむ、叡開て九轍と為す、当時は二十八品なり。
[3]長安の宮人此品を請て淹留して内に在き、江東の伝ふる所は止だ二十七品を得るのみ。梁に満法師有り、経を講ずること一百遍、長沙郡に於て身を焼く、仍ほ此品を以て持品の前に安ず、彼れ自ら私に安じ、未だ天下に聞えず。陳に南嶽禅師有り、此品を次で宝塔の後に在く。晩に正法華を以て之を勘ふるに甚だ相応す、今四瀆混和して長安の旧本を見る故に知ぬ、二師は深く経の意を得たることを。
[4]提婆達多亦達兜と言ふ、此には天熱と翻ず、其僧を破し五百の比丘を将て去る、身子之を厭ひ眠り熟せしめ、目連は衆を擎て将ひて還る。眠り起て誓を発して、此の怨に報ぜんことを誓ふ、三十肘の石の広さ十五肘なるを捧げ仏に擲つに、山神手もて遮り、小石迸て仏足を傷け、血出づ、闍王に教へて酔象を放ち仏を蹋ましむるに、花色比丘尼を拳して死す、毒を十爪に安じて、仏足を礼す、仏を中傷せしめんと欲す、是れを五逆罪と為す。
[5]若し三逆と作さば、教王と毒爪と並に害仏の摂なり、其応に逆を行ずべきを以て、生ずる時に人天の心熱す、是れより名を得、故に天熱と言ふ、此れ迹なり。若し本解を作さば衆生に煩悩あり、故に菩薩は熱を示す、其病行に同じて而も之を度脱す。
[6]此品の来意は古の弘経伝益の謬りに非ることを引て今の宣化の事験虚ならざるを明す、往を挙げて今を勧め流通せしむるなり、文二と為す、一に生仏前蓮花化生に訖るまでは昔日に達多は経を通じ釈迦は道を成ずるを明す。二に於時下方多宝所従菩薩より下は、今日文殊は経に通じ龍女は作仏することを明す。禀教尚ほ然り、宣通の功益豈に大ならずや、故に提婆達は記を受く、文殊は意を以て知る可し云云。第一に三有り、一に往昔の師弟の持経の相を明す、二に古今を結会す、三に勧信。第一に長行と偈頌有り、長行に四有り、一に法を求むる時節を明す、二に於多劫中の下は正しく求法を明す。三に時有仙人の下は法師を求め得たることを明す、四に王聞の下は法を受けて奉行することを明す。
[7]第一は文の如し。
[8]於多劫中の下、第二に復二あり、一に発願を明す。為欲満足の下、二に修行を明す、行中復二あり、一に檀那を満ぜんと欲して布施を勤行することを明す、文の如し。二に時世人民の下は、般若を満ぜん為めに妙法を推求することを明す。
[9]偈に七行半有り、上の長行を頌す、初め二句は、第一の求法の時節を頌す。次に雖作の下、第二に一行半は、第二の正しく法を求むることを頌す。次に時有阿私の下、第三に一行半は、第三の説法の師を得ることを頌す。時王聞仙言の下、第四に二行半は、法を受けて奉行することを頌す。後に亦不為己の下、第五に一行半は証を結して勧信す。
[10]告諸比丘王者の下、第二に古今を結会す、復二あり、一に正しく古今を結会す、文の如し。
[11]由提婆の下、第二に師弟の功報倶に満ずるを明す、満の中に復二あり、先に弟子の因報已に満ずるを明す。次に仏告四衆の下、第二に法師の妙果当に成ずべきを明す、弟子の中に復三あり、先に因満を明す、次に三十二相の下は果円を明す、後に皆因提婆の下は、結して通経者の益するに由ることを証す。
[12]初めに具足六波羅蜜とは、度の義甚だ多し、大論に説くが如し、依正を捨つるを檀と名け、七支を防止するを戒と名け、打罵するに報ぜざるを忍と名く、事を為すに始終なるを精進と名く、四禅八定を禅と名く、地を分て諍を息むるを般若と名くと。
[13]又若し十善を束ねて六と為さば、不殺より不妄語に至るまでは是れ檀、不両舌は是れ尸、不悪口は是れ忍、不綺語は是れ進、不貪瞋は是れ禅、不邪見は是れ般若なり。
[14]菩薩善戒第十に云く、六波羅蜜に三種有り、一に対治とは、謂く慳・悪・瞋・怠・乱・癡なり云云。二に謂く相生とは、謂く捨家持戒し、辱めに遇へば忍を須ひ、忍び已て精進す、進已て五根を調へ、根調ひて法界を知るなり。三に謂く、果報とは、富で色・力・寿・安・辯を具すと。又、余経に云く、施の報は富、戒の報は善道、忍の報は端正、進の報は神通、禅の報は生天、智の報は破煩悩なりと。
[15]是の如き等の例は皆是れ三蔵もて六度の相を明すなり。
[16]若しは施・受・財物の三事の皆空なるを檀と名く、持犯を見ざるを戒と名く、能忍と所忍不可得なるを忍と名く、身心動ぜざるを精進と名く、不乱不味を禅と名く、智に非ず愚に非るを般若と名く、此の如きの流例は即ち通教の中の六度の相なり。
[17]若しは檀に十利有りと言ふは、慳煩悩を伏し、捨心相続す、衆生と資産を同うす、豪富の家に生じ、生々に施心現前す、四衆愛楽し、衆に処して怯畏せず、勝名遍布し、手足柔軟、乃至道場に詣し、恒に善知識に値ふ。戒に十利有りとは、一切智を満じ、仏の学する所の如し、智者も毀せず、誓願して退せず、行に安住し、生死を棄捨し、涅槃を慕楽し、無纏の心を得、勝三昧を得、信財に乏しからず。忍に十利有りとは火刀毒水も皆害する能はず、非人に護られ身相荘厳し、悪道を閉ぢ梵天に生ず、昼夜常に安じ、身は喜楽を離れず。精進に十利有りとは、他も折伏する能はず、仏に摂せられ、非人に護られ、法を聞き忘れず、未だ聞かざるを能く聞き、辯才を増長し、三昧の性を得、病悩少く、食するに随て能く銷し、優鉢花の増長するが如し。禅に十利有りとは、儀式に安住し、慈の境界を行じ、悔熱無く、諸根を守護し、無食の喜を得、愛欲を離れ、修禅空しからず、魔羂を解脱し、仏の境に安住し、解脱成熟するなり・般若に十利有りとは、施相を取らず、戒に依らず、忍力に住せず、身心の精進を離れず、禅に所住無く、魔も擾する能はず、他の言論も動ずる能はず、生死の底に達し、増上の慈を起し、二乗地を楽はざるなり。四事応に檀を修すべし、一に道を修する者は慳貪を破するが故に、二に菩提を荘厳するが故に、三に自他の利益、施さんと欲し、施す時施し已て、皆歓喜するを自利と名く。飢渇の者は除くを得るは、是れを利他と名く。四に後世の大善果を得、後世に大尊貴饒財を獲。四事応に戒を持すべし、自ら善法を修し、悪戒を滅す、菩提を荘厳して衆生を摂す、臥覚安じて悔恨せず、衆生に於て害心無し、後に人天を受け、涅槃等の楽を得。四事応に忍を修すべし、忍を修し不忍を除く、菩提を荘厳して衆生を摂す、彼此に怖畏を離れ後世に瞋無く、眷属を壊せずして苦悩を受けず、人天の涅槃の楽を得。四事応に須らく精進を修すべし、進は懈怠を破す、菩提を荘厳して衆生を摂す、善法を増すは是れ自利、他を悩まさざるは是れ利他、後に大力を得て菩提を致す。四事応に禅定を修すべし、定は乱心を破り、菩提を’荘厳して衆生を摂し、身心寂静なるは是れ自利、衆生を悩まさざるは是れ利他、後に清浄の身を受け、安隠にして涅槃を得。四事応に般若を修すべし、智慧は無明を破し、菩提を荘厳して衆生を摂す、智慧あって自ら楽しむるは是れ自利、能く衆生を教ふるは是れ利他、能く煩悩及び智障等を壊するは是れ大果なり。此の如きの流例は是れ別教もて六度の相を明すなり。
[18]月蔵第一に云く、若し衆生あり唯読誦に依て菩提を求むれば、是人は世俗に著すと為す、尚ほ己が煩悩を調せず、何ぞ能く他を調せん、是の人は嫉妬・名利・富貴に著し、高心にして自ら是とし、軽慢にして他を毀る、尚ほ欲界の善根すら得ず、況んや色、無色の善根をや、況んや二乗の菩提をや、況んや無上の菩提をや。星火は海を乾かす能はず、口気は山を動かす能はず、藕絲は岳を称る能はざるが如しと、何となれば、世俗は菩提を満す能はず、何者か是れ第一義なる、謂く一切の福事を造し、若は修身・修心・修慧は第一義を以て熏修すれば、則ち速に六波羅蜜を満ず、若しは行若しは坐も攀縁の想を捨れば是れ檀、攀縁を捨てて犯さざるは是れ尸、境界に於て瘡疣を生ぜざるは是れ羼、離を捨てざるは是れ精進、事の中に於て放逸ならざるは是れ禅、諸法の体性に於て無生なるは是れ般若なり。復次に陰に於て捨るは是れ檀、陰を計念せざるは是れ尸、陰に於て我想無きは是れ羼、陰に於て怨想を起すは是れ進、陰に於て熾然ならざるは是れ禅、陰に於て畢竟して棄るは是れ般若なり。界に於て捨るは是れ檀、界に於て擾濁せざるは是れ尸、界に於て因縁を捨るは是れ羼、界に於て数々捨るは是れ進、界に於て起発せざるは是れ禅、界に於て如幻の想あるは是れ般若なり。是の如き等を是れを第一義諦善巧方便甚深法要と名く。能く六波羅蜜を満ず、此法を以て自ら為し他を為さしむ、三世の菩薩は悉く是法を修して菩提を成ずるが故に世俗に非ざるなり。此法は能く衆生の煩悩道苦道を息めて菩提道に安置す。華厳の七地は方に念々に十波羅蜜を具し、一切の仏法を修習することを明す。仏道を求むる善根を以て一切の衆生に与ふるは是れ檀、能く一切煩悩の熱を滅するは是れ尸、一切の衆生に於て傷ふ所無きは是れ忍、善を求めて厭ふ無きは是れ進、道を修して心に散ぜず、常に一切智に向ふは是れ禅、諸法の不生門を忍ずるは是れ般若なり、能く無量の智門を起すは是れ方便、転勝智を求るは是れ願、魔邪も阻むこと能はざるは是れ力、一切の法相に於て実の如く説くは是れ智なり。是十波羅蜜を具するが故に、四摂道品三解脱の一切の助菩提法を念々の中に於て皆具足す、諸地に皆念々に具足す、此地勝るるが故なり、此の如きの例は是れ円教の六度の相なり。
[19]次に三十二相の下は果の円なるを明す。三十二相とは、足平なること奩の底の如し、足趺隆きこと亀の背の如し、両相共に一修なり、堅固に布施すればなり。千輻輪は但だ一修、恐怖の者を安慰すればなり。足跟長きと、手足の指長きと、円直の身との三相は共に一修にして、謂く不殺戒なり、七処満じ、肩頸臂脚は一修にして、謂く恒に施主と作る、手足合縵及び柔軟の両相は一修にして、謂く四摂なり。足跟直きと、踝現せざると、毛右旋するとの、三相は共に一修にして、恒に善法を以て衆生を饒益すればなり。鹿膊腸の相は一修にして経書を以て人に教へて悋まざればなり、皮膚は塵垢を受けざるの相は一修にして問の如くにして而して答ふればなり。黄金色相は一修にして、忍辱にして好衣を施す。陰馬蔵の相は一修なり、諍訟を和合すればなり。梵身円等の相と手もて膝を摩する相は共に一修なり、慈等の心もて教導すればなり。肩円と頂光と師子臆の三相は共に一修なり、恒に増長を施し得しむればなり。万字の相は一修なり、衆生を悩まさざればなり。紺眼と牛王睫の二相は共に一修なり、恚せずして衆生を愛視すればなり。頂髻・青髪の二相は共に一修なり、諸の功徳は人の前に在ればなり。一孔一毛と白毫の二相は共に一修なり、妄語せざればなり。四十歯の白斉の二相は共に一修なり、両舌せざればなり。広長舌と梵音声の二相は共に一修なり、麁悪語せざればなり。師子頬は一修なり綺語せざればなり。四牙は一修なり、邪命を離るればなり。一切衆生の功徳は仏の一毛に等し、仏の諸の毛の功徳は一好に等し、諸好は一相に等しく、諸相は白毫肉髻に等し。白毫肉髻の百千万億は乃ち梵音声を成ず。三十二相は因は各々なりと雖も、其真因を論ずれば、持戒・精進なり、精進にして戒無ければ、尚人天の身を得ず、況んや余相をや。此れ則ち三蔵教の相の本なり。空無生は是れ通教の相の本、道種智は是れ別教の相の本、実相は是れ円教の相の本なり。
[20]八十種好とは、二十指と手足の表裏の八処平満と踝膝髀の六処好妙と肩肘腕の六処満と両髂奇の中の三処好と髖尻の二処と馬蔵の一と両膊の二と腰臍の二と脇腋乳の六と腹胸背項の四と上下の牙と上下の唇齶と両頬と両鬢と両目と両眉と両鼻の孔と額と両肞と両耳と頭円となり、若し四種の好の義を分別せば、相に準じて知る可し。
[21]告諸四衆の下、第二に師の妙果当に成ずべきを明す、師の中に復三あり、初めに正しく果成ずることを明す。分陀利経に云く、調達は作仏して提和羅耶と号す、漢には天王と言ふ、国をば提和越と名く、漢に天地と言ふと。時天王仏住世二十の下、第二に化度を明す。時天王仏般涅槃の下、第三に滅後の利益を明す。仏告比丘の下、第三に勧修、文の如し。蓮華化生とは、胎経に云く、蓮華生とは、胎卵湿化の化生に非るなり。化に非ずして而も化と言ふのみ、実には四生中の化生の如くならざるなりと。請観昔に云く、蓮華に化生するを父母と為すと。無量寿観に云く、華台に処すること久しき者を胎生と為す、実には胎に非るなり、例するに蓮華生の者亦湿卵と称す、而して湿卵に非ず云云と。
[22]於時下方とは、第二に今日の文殊の通経の利益を明す、復二あり、初めに文殊の通経を明す、二に文殊言我於海中より下は利益を明す、第一に復五あり、一に智積の請退を一明す。分陀利経に云く、下方の仏の所従の菩薩を般若拘羅と名く、漢に智積と言ふと。
[23]二に釈迦の下は、釈尊の之を止めて通経利益の証を待たしむるを明す、智積謂へらく、多宝は経を証せんが為めの故に出でたまふ、物を勧めて流通すること既に訖る、是故に還らんことを請ふ、釈迦の止るは迹門の事訖ると雖も本門未だ彰れず、故に文殊に託在して以て多宝を留むるなり、仏の密意は菩薩の知る所に非ず。
[24]爾時文殊より下、第三に文殊尋で来るなり。
[25]四に智積菩薩の下は、智積、所化の幾如なるかを問ふなり。
[26]五に文殊師利言の下は、文殊、口の宣ぶる所に非るを答ふるなり、第五に就て復七あり、一に利益の甚だ衆きを答ふ。所言未の下は第二に益を蒙る者集りて証す。此諸菩薩の下は第三に皆是れ文殊の所化なり。本声聞人の下は第四に本声聞の人にして、先に権教を禀け二乗道に住す。分陀利経に云く、蓮華の池より出づるとは、木と菩薩心を発すれば其華は空中に在て摩訶衍の事を説く、本と声聞心を発すれば華は空中に在て但だ断生死の事を説くと。今皆修行より下は、第五に今実教を聞て悉く大乗の法に住するなり、文殊謂智積の下は第六に文殊の益を結するなり。爾時の下は七に智積の偈をもて歎ずるなり。
[27]文殊言我於海中より下は第二に利益を明す、文九と為す、一に文殊自ら叙す、二に智積の問、三に答、四に
智積は別教を執して疑を為す。
[28]五に龍女は円を明して疑を釈す。六に身子三蔵の権を挟んで難ず。七に龍女は一実を以て疑を除く。八に時衆聞見して益を得。九に智積と身子と黙然として信伏す。第五の龍女の円を明して疑を釈するに、初めに経家、現じて敬を申ぶることを叙す。次に三行半の偈有て三と為す、初めに半行は持経得解を明す、次に二行は二身を成就するを明す、後に一行は仏を引て証と為す。罪福とは七方便に約して伝作す、今の偈は深く無罪無福に達して一実相に入るを名けて深達と為すなり。十方は即ち十法界にして同じく実慧を以て之を朗にす、故に遍照と言ふなり。具三十二相とは深く法身の理を得れば即ち相好を備ふ。大品に明すが如し、一切の法を得んと欲せば当に般若を学すべし、如意珠を得るが如くなりと。二乗は但だ空を得、空は相好無きなり云云。
[29]第六に身子復難ず、先に総じて難信、後に五礙を釈出す。
[30]第七に龍女現に成じて明証するに復二あり、一には珠を献じて円解を得るを表はす。円珠は其円因を修得するを表はす、仏に奉るは是れ因を将て果を剋するなり。仏の受けたまふこと疾きとは果を獲ること速かなるなり、此れ即ち一念に道場に坐して成仏すること虚しからざるなり。二に正しく因円果満を示す、胎経に云く、魔梵釈女は皆身を捨てず身を受けずして、悉く現身に於て成仏することを得と、故に偈に言く、法性は大海の如く、是非有りと説かず、凡夫賢聖人、平等にして高下無し、唯心垢を滅するに在り、証を取ること掌を反すが如しと。
[31]第八に爾時娑婆の下は時衆の見聞を明す、復二あり、先に見聞を明す、二に人天歓喜して彼此益を蒙る。南方は縁熟すれば、宜しく八相を以て成道すべし、此土の縁は薄ければ秖だ龍女を以て教化す、此れは是れ権巧の力にして一身一切身の普現色身三味を得るなり。
◎持品を釈す。
[1]二万の菩薩、命を奉じて経を弘む、故に持品と名く、重ねて八十万億那由他を勧めて経を弘む、故に勧持品と名く。問ふ、何が故に爾るや。答ふ、二万は是れ法師品の初の別命の数なり、故に旨を奉じて受持す、八十万億那由他等は、前に別命無し、止だ是れ通じて覓む、今仏眼もて視て其をして誓を発し、此土に経を通ぜしむ、通経の証験は深重にして仏意は殷勤なり、是故に勧を蒙て而も弘む、故に二意有るなり。
[2]文に就て二と為す、先に受持を明し、後に勧持を明す、初の文に復三あり、一に二万の菩薩、命を奉じて此土に経を持す、二に五百八千の声聞も誓を発して他国に流通す、三に諸尼は記を請ひたてまつる。
[3]問ふ、此諸の声聞は已に大士と成る、何故に此土に経を弘むること能はざるや。答ふ、初心始行の菩薩は未だ悪世に苦行して経を通ずること能はざるを引かんが為めなり。復安楽行品を開かんと欲するなり。
[4]第二に勧持に長行と偈頌有り、長行に五有り、一に仏眼視、二に菩薩は告を請ふ、三に仏黙然したまひ、四に菩薩は意を知る、五に誓を発して経を通ず。
[5]眼に視たまひ黙勧して而も告げて言はざるは、上来に別して命ぜずと雖も、而も持経の功徳深厚なるを挙げて引証すること分明なり、多宝、分身は遠く来て勧発す、此の殷勤の事義は已に足ぬ、命に応ぜんと欲すること有らば宜しく即ち誓を発すべし、煩はしく復言ふこと無し、又声聞の他方の願を将護するが故に称揚せざるなり。
[6]偈に二十行有り、経を護持せんことを請ふ、復細に分たず、文を尋ねて解す可し、前の十七行は忍衣を被て経を弘む、次に第二に一行は、室に入て経を弘む、次に第三に一行は座に坐して経を弘む、次に第四に一行は総結して知らしめたまへと請ふ。
[7]中阿含第六に云く、阿蘭若、此に無事と翻ず、頭陀、此に抖擻と翻ずと、宝雲経第六に云く、阿練兒処の比丘は王王子婆羅門及び一切の人の来るを見て、比丘唱へて善く来る、此坐に就く可し、彼即ち共に坐せよ、彼坐せずぱ比丘亦坐せず、当に為めに法を説て歓喜せしむべしと。
[8]仏の滅後の末悪世に式に応ぜざる比丘に戒法を説て而も活を得と雖も、而も戒法に於て行ぜんことを楽はず、五分法身余の一切の道法に歴て亦是の如く説くも、齆鼻人の栴檀を説くに既に自ら香無く亦自ら聞がざるか如く、天人龍神鳩槃荼も終に無戒の人を供養せず。余の四分も亦是の如く説くも、能く妙法を将て来る有ること無し。必らず浄戒の起る所に由れ、余の四も亦是の如し。若し死に垂んとする最重病に遇ひ、痛悩逼迫して極めて無聊ならんも、念仏三昧を常に捨てざれば、一切の苦切にして其心を奪はん、彼人は自ら是法を解するが故に、則ち一切の諸法の空なることを知る。
[9]忍辱鎧とは、中阿含第五に云く、黒歯比丘仏に訴へて云く、舎利弗は我れを罵て我に説くと、仏疾く舎利弗を喚びたまひ、実に罵説するやいなやと、舎利弗言く、心定まらざれば或は説罵せんも、我が心は已に定る、云何ぞ説罵せん、折角牛の人に触嬈せざるが如く、残童子の恥て彼を悩まさざるが如し、我が心は地水火風の如く、浄と不浄と大小便利と涕唾と受て而も罵らず、心は掃箒の如く、浄と不浄と倶に掃ふ。又破器に脂を盛り之を日中に置くに、渧々として恒に漏るが如し、自ら九孔を観ずるに常に不浄を漏らす、云何ぞ他を罵説せん。又死したる蛇狗等を、浄き童子の頸に繋けたるが如し、慚恥して自ら愧ぢ他を罵説せずと。仏の問ひたまふ、是の如きの悪人を汝云何が観ずると。答ふ、人に五有り、一に身善口意不善は但だ其善を念じて不善を念ぜず、納衣の比丘は糞聚の弊帛を見て、左に捉り右に舒べ、不浄を截り棄てて而も浄を取るが如し、念じて其身の浄を用ひ、以て我が身を規す、其口意を棄て、以て我が口意を誡む。又口行浄身意不浄は、亦其口を念じて其の身意を棄つ、熱渇者の多草池に値ひ、草を披て水を掬し、身を涼して渇を止むるが如し。又意浄身口不浄は亦其意を念じて其身口を用ひず、行路熱渇するに、唯牛跡水少く、我れ若し手を用ひて掬せば水則ち渾濁せん、応に両膝もて説き両手もて憑り、口に就て之を吸ひ以て熱渇を除くべきが如し。又三業皆不浄の者、用ふ可き無しと雖も、当に痛く之を念ずべし、路に病人を見て安置して隠かならしむるが如し。此不浄を念じて、善知識に値て其三業を治するを得て、三途に堕落せしむる勿らしむ。又三種皆浄、当に是人を念じて以て自ら訓じて況し、斉しからんことを念じ斉しからんことを願ふ、清凉池に諸の花草多く、熱渇のもの中に入れ以て自ら蘇息するが如し。常に境界を念じて以て我が悪を去ると。此れは是れ三蔵教の中に苦無常不浄無我空を用ひて鎧と為すなり。
[10]毘婆沙第八に云く、罵は是れ一語、余は皆喚ぶ声なり、終日喚声すとも我れに於て何をか為んと念ず。又此方には是れ卑陋の語他方には是れ称讃の語なり、我れ若し此卑語を念ぜぱ楽を得るに処無けん。又此字の罵、若し此字を顛倒すれば即ち讃と成ると観ず。又罵は是れ一界の少分、一入の少分、一陰の少分なり、罵は少く不罵は多し、又誰か罵を成就する、罵る者成就す、成就することは自ら彼なり、我れに於て何をか為ん。又罵は是れ一字、一字は罵を成ぜず、二字もて罵を成ず。一時に二字を称する者有ること無し。若し後の字を称すれば前の字は已に滅す。又能罵所罵は一時に同一刹那に倶に滅す、我れに於て何をか為んと、是の如き等は空を用ひて鎧と為すなり。
[11]十七に云く、凡聖倶に三受有り、云何が差別する、凡夫は苦受に於て二有り、一に身に苦を受く。二に心に憂悲を受く。三の毒箭の如く、楽を失へば則ち瞋り、楽を得れば則ち喜ぶ、苦ならず楽ならざれば則ち癡なり。聖人は但だ身受のみ有て而して心受無し、苦に於て瞋らず、楽に於て愛せず、不苦不楽に於て癡ならず、三使も使ふこと能はず、使に於て解脱を得、故に凡聖の異有りと。此の如き等の有無差降は、此れ別教を用ひて鎧と為すなり。
[12]今経に鎧を明すは、念仏を以て鎧と為す、是れ法仏を念やるなり。第一義の仏は即ち是れ法の故なり。文に云く、仏の告勅を念ずとは即ち法なり、仏は即ち是れ僧、僧は即ち事理倶に和す、毘盧遮那は一切処に遍するなり、此の如きの鎧は一鎧一切鎧なり、即ち円教の鎧なり。
◎安楽行品を釈す。
[1]此品を釈するに三と為す、依事と附文と法門となり。
[2]事とは身に危険無きが故に安し、心に憂悩無きが故に楽なり、身安じて心楽し、故に能く行を進む。
[3]附文とは、如来の衣を著れば則ち法身安じ、如来の室に入るが故に解脱の心楽し、如来の座に坐するが故に般若もて行を導て進む、此れは上の品の文に附して釈するのみ。忍辱地に住するが故に身安じ、而も卒暴ならざる故に心楽し、諸法実相を観ずるが故に行進む。
[4]又法門とは、安は不動に名く、楽は無受に名く、行は無行に名く。
[5]不動とは、六道の生死、二聖の涅槃も動ずる能はざる所なり、既に二辺を縁ぜざれば則ち身に動搖無し、上の文に云く、身体及び手足、静然として安じて動ぜず、其心常に憺怕にして、未だ曾て散乱有らずと、則ち安住して動かざること須弥頂の如く、常任不動の法門なり。
[6]楽とは不受三昧広大の用なり、凡夫の五受を受げず、乃至円教の中の五受に見を生ずるも亦皆受けず、受有れば則ち苦有り、受無ければ則ち苦無し、無苦無楽を乃ち大楽と名く。
[7]無行とは、若し所受有れば即ち所行有り、受無ければ則ち所行無し、凡夫の行を行ぜず、賢聖の行を行ぜず、故に無行と言ふ、而して中道を行ず、是故に行と名く、即ち法門なり。
[8]今更に事解を広ふせば、夫れ安楽とは即ち大涅槃なり、果に従て名を立つるなり、行とは即ち涅槃の道にして、因に従て名を得るなり。諸余の因果は倶に苦なればなり、常見の外道は苦行を行じて還て苦果を得るが如し。若し因楽にして果苦なるは、断見の外道の情を恣にして楽を取り、後に苦報を得るが如し。若し因苦にして果楽なるは、析法の二乗の無常の拙度もて功を加へ苦至りて方に涅槃に入るが如し。今安楽行と言ふは、因果倶に楽なり、即ち是れ大品の如実の巧度なり。大経に云く、定苦行とは諸の凡夫を謂ふ。苦楽行とは声聞縁覚、定楽行とは諸の菩薩を謂ふなり。七方便の麁因麁果に絓るは皆安楽行に非ず、独り此妙因妙果を安楽行と称するなり。
[9]更に文に依て釈するを広くせぱ、安楽行は是れ涅槃道なり、涅槃に三義有り、三徳秘蔵を謂ふ。
[10]行に三義有り、謂く止行と観行と慈悲行となり。
[11]止行とは、三業柔和にして違従倶に寂なり、即ち是れ法身を体するの行、即ち上の文の如来衣なり。観行とは一実相の慧、無分別の光なり、即ち般若を体するの行、即ち上の如来座なり。慈悲行とは、四弘誓願もて広く一切を度す、即ち解脱を体するの行、即ち上の文の如来室なり。
[12]此三行を総て涅槃の道と為す、三徳を総て行の境と為す。
[13]境を安楽と称し、道を称して行と為す。
[14]大論に云く、菩薩は初発心より常に涅槃を観じて道を行ずと。
[15]因の時に此三の行法を用て三業を導て行と為す、三業浄き故に即ち是れ六根を浄む、六根若し浄ければ、相似の解を発して而して真に入ることを得、果の時を仏眼耳等と名く。
[16]因を止行と名け、果を断徳と名く、因を観行と名け、果を智徳と名く、因を慈悲行と名け、果を恩徳と名く。
[17]又因を三業と名け、果を三密と名く、因の時に慈悲もて三業を導て他を利し、果の時を三輪不思議の化と名く。
[18]此の如く観ずる時は復分別無し、一切諸法の中に悉く安楽の性有り、一切衆生は即ち大涅槃なり、復滅す可らず、非道を行じて仏道に通達す、此れ即ち絶待に安楽行を明すなり。
[19]此行と涅槃と義合す。彼云く、復一行有り、是れ如来行なり、如来は是れ人、安楽は是れ法、如来は是れ安楽の人、安楽は是れ如来の法なり、総じて之を言はゞ其義異らずと。
[20]別も亦異らず、此には寂滅忍と法空の座と如来の室を明す、彼は金銀宝樹を明す、宝樹は即ち無漏の宝林なり、無漏と空寂滅忍と合す、金沙大河直に西海に入るとは即ち一実の慧にして諸法空と合す。得道の女人は則ち諂曲無しとは、此は無縁の大慈にして、如来の室と合す。彼は呼で無余の義と為し、此には呼んで無上道と為す。又五行の義も亦衣座室と意同じなり。
[21]問ふ、 大経は国王に親附し、弓を持し箭を帯し悪人を摧伏するを明す、此経は豪勢や遠離し、謙下慈善なり、剛柔碩きに乖く、云何ぞ異ならざらん。答ふ、大経は偏へに折伏を論ず、一子地に住す、何ぞ曾て摂受無らん、此経は偏へに摂受を明す、頭を七分に破るとは折伏無きに非ず、各々一端を挙ぐるは時に適ふのみ。理は必らず四を具す、何となれば、時に適ひ宜しきに称ふは即ち世界の意、摂受は即ち為人の意、折伏は即ち対治の意、悟道は即ち第一義の意なり。
[22]法門の釈を広ふせば、応に不動門不受門不行門を明すべし、略して記せざるなり。
[23]此品は是れ迹門の流通の第四の意なり、若し二万八十億那由他の命を受けて経を弘むるは、深く権実を識り、広く漸頓を知る。又機縁に達して神力自在にして、濁世の悩乱も通経ぞ障へず、更に方法を示すを俟たず。
[24]若し初依の始心円行を修して濁に入て経を弘めんと欲するに濁の為めに悩まされ、自行立たず、亦化の功無し、是人の為めの故に、須らく方法を示して安楽行を明すべし、故に此品来る有るなり。
[25]此安楽行に何の次第が有る、然るに法華の円行は、一行無量行にして思議す可らず、何ぞ前後を定めん。
[26]今且らく一緒をいはば、法師品には略して弘経を示す、則ち他を益するを以て本と為せば、先に室に入ることを明す。此中には悪世の弘経を辯ず、諸の逼悩を安ずれば、先に如来の衣を著するなり。前後互に現ずるのみ。
[27]若し行の次に約せば、諸法は本より已来、常に自ら寂滅の相なり。若し寂に乖て相を起さば、応に先に般若を以て累を蕩すべし、則ち初めに座に坐す、諸法は不生なれども而も般若生ず、同体の慈悲もて衆を愍むが故に道を行ず。次に如来の室に入るなり。既に慈悲を以て世を化すれば、必らず違従に渉る、決して須らく安忍すべし。次に如来の衣を著す。
[28]此次を作すと雖も、説は行の時に非ず、行の時に空に入らば、即ち一切の法を具す、況んや慈忍をや。
[29]四安楽行とは、旧云く、一に仮実二空を体と為す、二に説法を体と為す、三に過を離るるを体と為す、四に慈悲を体と為すと。基師云く、一に空、二に憍慢を離る、三に嫉妬を除く、四に大慈悲なりと。龍師云く、一に身に諸悪を遠ざかり漸く空理に近く、二に口過を除く、三に意嫉を除く、四に慈悲を起すと。
[30]南岳師云く、一に無著の正慧、二に口に過を説かず、三に上を敬ひ下を接す、四に大慈悲なりと。
[31]天台師云く、止観の慈悲は三業及び誓願を導く、身業に止有るが故に、身の麁業を離る、観有るが故に、身を得ず、身業を得ざれば能く離るを得ず、所得無きが故に凡夫に堕せず、慈悲有るが故に身業を勤修し、広く一切を利して二乗地に堕せず。
[32]止行有るが故に忍辱衣を著す、観行有るが故に如来座に坐す、慈悲有るが故に如来の室に入る。
[33]止行もて過を離るれば即ち断徳を成ず、観行もて著無ければ即ち智徳を成ず、慈悲もて他を利すれば即ち恩徳を成ず。
[34]恩徳は智徳を資成す、智徳は能く断徳に通達す、是れを身業安楽行と名く。
[35]余の口意誓願も亦是の如しと。
[36]品の文に問有り答有り、問の中に先に前品の深行の菩薩の能く此の如く経を弘むることを歎ず、後に浅行の菩薩は、云何に悪世に是経を宜説せんと問ふ。
[37]仏告の下、第二に答の中に三有り、一に四行の章門を標し、二に修行の方法を解釈す、三に総じて行成の相を明す。
[38]初めに章を標す、文の如し。
[39]一者安住の下、第二に方法を解釈す、即ち四別と為す、初の文に又二あり、一に方法を釈す、二に行成を結す。修行に長行と偈頌有り、長行に又二なり。
[40]初めに一者の下は行と近とを標す。
[41]次に文殊の下は、行と近とを釈す、初めに双標、文の如し。次に釈の中又二あり、謂く行処と近処となり。
[42]或ひと云く、内凡の初行を行処と名く、若し久習純熟し、漸く能く理に近くを近処と名く、前の品の近果の行を引て例と為すなりと。或は云く、行処は因に約す、近処は果に約す、行処は智を明し、近処は境を明すと。瑤師の云く、七住已上は、心に理を体するを行処と為す、已に分段を過ぐるなり、此れより已還、無生未だ現前すること能はす、漸く理に近くを近処と為す、同じく是れ分段なり。此二は是れ行の始めにして、通じて一の安楽行と為すなりと。
[43]私に謂く、初家は行を以て浅と為す、大経に云ふが若き、十地の菩薩は、行を以ての故に見ること了了ならずと、当に知るべし、行は則ち浅からざることを、後家は近を以て浅と為す、浄名に無等等の仏の自在の慧に近くと云ふが若きは、此れは則ち近は更に深と成る。若し両行倶に深きは、則ち前品の菩薩の弘経の行を成じて、初心の方法に関せざるなり。
[44]若し両行倶に浅きは、即ち七方便の人の所行なり、何ぞ円行の方法に関らん、故に偏へに深浅に拠る可らず。
[45]然るに行は進趣に名く、近は親習に名く、親習の故に進趣す、進趣の故に親習す、復何ぞ浅深あらん。
[46]又行と近とは是れ上の方法、行処は是れ如来の衣、近処は是れ如来の座なり、座と衣と既に浅深ならず、行近何ぞ優劣を得ん。
[47]又忍辱は必らず内に至理を懐き、縁に歴て事に耐ゆ、之を目けて行と為す、空座に必らず外縁に体達して真境に棲息す、之を目けて近と為す、蓋し事理互に現ずるなり、復何ぞ浅深あらん。
[48]若し爾らば何故ぞ行と近とを分つや、理に詣て略して説くを行処と名く、事に附して広く説くを近処と名く。
[49]説に広略有れども理に浅深無し。
[50]今三法に約して行処を明す。
[51]一に直に一諦を縁ず、一諦は一切の為の所帰なり、一切の為に本と作り、而して遍ねく分別無し。
[52]一切所帰とは即ち忍辱地なり、地は即ち中道なり、諸法は之に帰す、故に名けて地と為す、衆行休息す、故に忍辱と名く。此れ即ち行不行の行なり。
[53]為一切作本とは、万物は地を得て而して生ずるが如し、衆行は理を得て而も成ず。若し理の本を得れば、剛に在て能く柔、逆に在て能く順、暴に在て能く治、驚に在て能く安なり、無量の功徳は中道の地より生ず、地は生ずる所無くして而も功徳を生ず。即ち不行行の行なり。
[54]遍無分別とは、則ち不行と行との差別の相を分別せず、故に又復不行不分別等と云ふなり、即ち是れ行に非ず不行に非ざるなり。
[55]三行無くして而して三行あり、故に名けて行と為す、同じく一実諦の故に名けて処と為す。
[56]此の如きの行処を上の経文に合せば、衆行を休息するは如来の衣に合す、随て功徳を生ずるは如来の室に合す、遍ねく分別無きは如来の座に合す。
[57]是れを一法に行処を釈すと名く、是れ弘経の方軌なり。
[58]二に二法に約すれば、即ち生法の二忍なり。
[59]二忍は即ち生法の二空なり。
[60]二空は二乗に異なる、何となれば、人法二空は、真俗仮実に約して二空二忍を明し、悉く中道を見る、故に二乗に同じからず。
[61]若し更に開かば即ち四忍なり。若し五忍と作さば、善の字を指して信忍と為す、若し六忍と作さば、和の字を指して和従忍と為す。若し地に対すれば、即ち四十二忍を開す、一地に尚四十一地の功徳有り、一忍に寧ぞ四十一忍の法無からんや。
[62]今且らく四忍に約して文を消す。
[63]謂く伏・順・無生・寂滅忍なり。
[64]此四忍は別教と異なり、彼前の二忍は是れ生忍にして位則ち浅し、後の二忍は是れ法忍にして、位則ち深し。
[65]今の円の生法は悉く通じ、四忍も亦通す、何となれば、二空の理は即ち是れ中道なり、初住に四忍を修して中に人て二空の理を見る、乃至後心も亦二空の理を窮む。
[66]大経に云く、発心と畢竟と二別ならず。
[67]若し無浅深に約して四忍を判ぜば、初発心に円かに五住を伏するより、金剛頂に至るを皆伏忍と名く、初後悉く実相に違せざるを順忍と名く、初後悉く二辺の心を起さざるを無生忍と名く、初後悉く衆行を休息するを寂滅忍と名く。
[68]生死を聞て怱卒に苦を畏れず、涅槃を聞て怱卒に楽を証せず、仏の常と無常と、二乗の作仏と不作仏とを聞き、生死涅槃の異と不異とを聞き、仏道の長短難易、非長非短、非難非易等を聞て、皆驚怖せず。
[69]此行を行ずる者は、始めより終に至るまで、二空の理を以て諸法を忍す、即ち如来の衣を著す、二空の理に安住するは即ち如来の座に坐す、諸の衆生を愍むは即ち如来の室に入る。
[70]二空四忍を名けて行と為す。
[71]理は即ち是れ処なり、是れを二法に約して行処を明し、弘経の方軌と為すと名くるなり。
[72]三に三法に約す。
[73]三法は即ち不思議の三諦なり。
[74]住忍辱地とは、総じて三諦を論ず、地の拠る可き有るが如く、方に能く忍辱するなり。柔和善順とは、善く真諦に順じて、能く虚妄の見愛寒熱等を忍ぶ、故に善順と言ふなり。而不卒暴心不驚とは、俗諦に安んじて衆の根縁を忍び、機宜に称適す、故に不卒暴と云ふ。違従を体忍するが故に心驚かざるなり。於法無所行等とは、即ち中諦に安んじて能く二辺を忍ぶ、故に無所行と云ふ。正しく中道に住す、故に観実相と云ふ、亦中実を得ず、故に不分別と云ふ。
[75]此れは則ち三諦の地に拠るを処と名く、五住の辱を忍ぶを行と名く。
[76]行も亦三と為す、謂く止行は即ち行不行、観行は則ち非行非不行、慈悲行は即ち不行行なり、上の衣座舎等に合す。
[77]是れを三法に約して行処を明し、弘経の方軌を辯ずと為すなり。
[78]龍帥の云く、住忍辱地とは、総じて生法の二忍を挙ぐ、下に別して二忍を明す。柔和善順とは身業を明すなり。而不卒暴は是れ口業なり、心亦不驚とは是れ意業なり、此れ三業に就て生忍を修することを明す。於諸法無所行とは、有相を行ぜざるなり。而観如実相とは、空平等を行ずるなり。亦不行不分別とは、無相を行ぜざるなり、有無両つながら亡じて中道に会す、此三句は法忍を修することを明す、是の二忍を得るを結して行処と為す。
[79]彼は二忍を明すも未だ何に約するかを知らず、三教の二忍の若きは全く法華の義に非ず、若し円教に約せば、応に隔別不融なるべからず云云。
[80]云何名近の下、第二に近処なり、文三と為す。
[81]十悩乱に遠かるは、遠に即するが故に近を論ず、亦是れ戒門に附して観を助く。修摂其心とは、近に即するが故に近を論ず、亦是れ定門に附して観を助くるなり。一切法空を観ずるは、非遠非近に即して近を論ず、亦是れ慧門に附して観を助く。
[82]上には直に理を縁じて忍辱地に住す、今の戒門は広く衆辱の縁を出す、応に遠離を修すべし。刀杖を持するに非ず、亦棄捨せず、但だ正慧を以て而して之を遠離す、当に知るべし、遠近は上の行所不行を広することを。上には直に暴驚ならざることを明す、今の定門は、広く修定の心、修定の処、修定の要門を出す、定力を以ての故に、暴に在て而して治、驚に在て而して安なり、当に知るべし、近に即して近を論ずるは、上の不行行を広うすることを。上には直に無所行を明す、今は広く一切空を観じ、具に諸境に歴、無量無辺無礙無障なり、当に知るべし、非遠非近は、上の非行非不行を広うすることを。
[83]初めに就て十種の応に遠ざかるべき者有り、一に豪勢、二に邪人法、三に兇険戯、四に旃陀羅、五に二乗衆、六に欲想に遠かる、七に不男に遠かる、八に危害を遠かる、九に譏嫌を遠かる、十に畜養等を遠かるなり。路伽耶、此には悪論と云ふ、亦破論と云ふ。逆路とは、君父に逆ふの論なり、又路を名けて善論と為す、亦師破弟子と名く。逆路を悪論と名く、亦は弟子破師と名く。那羅延とは上伎戯、亦綵画と云ふ、其身変異を作す、又云く、幢に縁て擲倒するの属なりと。
[84]十種を分て二辺と為す、九は是れ生死、一は是れ涅槃なり、二倶に遠離すべし、即ち寂滅の異名たるのみ。
[85]観心に十種を釈す云云。
[86]近近処に三意有り云云。