[1]第七に正修止観とは、前の六重は修多羅に依つて、以て妙解を開き、今は妙解に依つて、以て正行を立つ。膏明相賴り、目足更ひに資く。 解行既に勤むれば、三障、四魔、紛然として競ひ起り、昏を重ね散を巨いにし、定明を翳動す。随ふべからず。畏るべからず。之に随はば人を将いて悪道に向ひ、之を畏るれば正法を修することを妨ぐ。当に観を以て昏を観じ、昏に即して而も朗かにし、止を以て散を止し、散に即して而も寂ならしむべし。猪の金山に階り、衆流の海に入り、薪の火を懺んにし、風の求羅を益すが如くなるのみ。此金剛の観は煩悩の陣を割り、此牢強の足は生死の野を越ゆ。慧は行を浄くし、行は慧を進む。照潤導達、交絡して瑩飾し、一体の二手、更互に揩魔す。但、遮障を開拓して内に己が道を進むるのみに非ず、又精しく経論に通じて外に未聞を啓く。自匠、匠他、利を兼て具足するに、人師、国宝、此に非ざるもの是れ誰ぞ、而して復仏の慈悲を学び、諸の慳悋無うして止観を説き、彼に施す者は、即ち是れ門を開き蔵を傾けて如意珠を捨るなり。此珠光を放ちて而も復宝を雨ふらす。闇を照し乏しきを豐にし、夜を朗かにし窮を済ふ。二輪を馳せて而して遠きを致し、両翅を翥げて高く飛ぶ。玉のごとく潤ひ碧のごとく鮮なること、勝つて言ふ可けんや。香城に骨を粉にし、雪嶺に身を投ず、亦何ぞ以て徳に報ずるに足らん。快馬は鞭影を見て而も正路に著く。

 [2]其癡鈍なる者は毒気深く入りて本心を失するが故なり。既に其れ信ぜざるときは則ち手に入らず、聞法の鉤無きが故に、聴けども解すること能はず、智慧の眼に乏しくして真疑を別たず、身を挙げて痺癩し、動歩前まず、覚らず知らず、大罪聚の人なり、何ぞ労して為に説かん。設ひ世を厭ふ者も、下劣の乗を翫ぶは、枝葉は攀附し、狗の作務に狎れ、獼猴を敬うて帝釈と為し、瓦礫を是れ明珠なりと宗む、此れ黑暗の人なり、豈道を論ずべけんや。 又一種の禅人あり、他の根性に達せずして純ら乳薬を教ふ。体心、踏心、和融、覚覓、若は泯、若は了、斯れ一轍の意なり。障難は万途なるに紛然として識らず、纔かに異相を見て即ち是れ道なりと判ず。自ら法器に非ず、復他に匠たるに闕く、盲跛の師徒は二りながら倶に墮落す、瞽蹶の夜遊、甚だ憐愍すべし。応に上の諸人に対して此止観を説くべからず。未れ止観は高尚なる者は高尚し、卑劣なる者は卑劣す。

 [3]止観を開いて十と為す、一には陰界入、二には煩悩、三には病患、四には業相、五には魔事、六には禅定、七には諸見、八には増上慢、九には二乗、十には菩薩なり。此十境は通じて能く覆障す。陰、初に在るは二義あり、一には現前、二には経に依る。「大品」に云はく、「声聞の人は、四念処に依つて道を行ず、菩薩は初に色を観じ、乃至一切種智」と。章章皆爾り、故に経に違はや。又行人、身を受くること、誰か陰入ならずして重擔現前す。此故に初に観ず、後に異相を発すれば、別に次を為すのみ。

 [4]未れ五陰と四大と合す、若し照察せずんば紛馳を覚らず、舟を閉ぢ次に順ずるが如く、寧ろ奔迸を知らん。若し其れ廻り泝れば始めて馳流を覚る。既に陰果を観すれば則ち煩悩の因を動かす、故に五陰に次で四分を論ずるなり。

 [5]四大は是れ身の病、三毒は是れ心の病、其等を以ての故に情中覚らず、今大分倶に観ずるに脈蔵を衝撃す、故に四蛇偏起して、患ひの生ずること有ることを致す。

 [6]無量の諸業は称計すべからず、 散善微弱にして動ぜしむること能はず。今止観を修して健病虧かずば生死の輪を動ず、或は善萠すが故に動じ、悪壊すが故に動ず、善く受報を示すが故に動じ、悪来つて報を責むるが故に動す、故に病に次で業を説くなり。

 [7]悪動ずるを以ての故に悪滅せんと欲し、善動ずるを以ての故に善生ぜんと欲す。魔、境を出ることを遽ぎて諸の留離を作し、或は出道を壊す、故に業に次で魔を説くなり。

 [8]若し魔事を過ぐるときは則ち功徳生ず、或は過去の習因、或は現在の行力をもつて、諸禅競ひ起り、或は味、或は浄、或は横、或は豎なり、故に魔に次で禅を説く。

 [9]禅に観支あり、囚つて邪慧を生じて逸に法を観じ、僻つて諸倒を起し、邪弁猛利なり、故に禅に次で見を説く。

 [10]若し見を識りて非と為し其妄著を息むれば、貪瞋利鈍、二倶に起らず、無智の者は涅槃を証すと謂ふ。小乗も亦横に四禅を計して因果と為すこと有り、大乗も亦魔来りて記を与ふこと有り、並に是れ、未だ得ざるを得たりと謂ふ。増上慢の人なり、故に見に次で慢を説く。

 [11]見慢既に静かなれば先世の小習も静に因つて而も生ず、身子、眼を捨つるは即ち其事なり。「大品」に云はく、「恒沙の菩薩、大心を発し、若は一、若は二、菩薩の位に入るも、多くは二乗に堕す」と。故に慢に次で二乗を説くなり。

 [12]若し本願を憶するが故に空に墮せざる者は、諸の方便道の菩薩の境界即ち起るなり。「大品」に云はく、「菩薩ありて久しく六波羅蜜を行ぜず、若し深法を聞かば即ち誹謗を起して泥梨の中に堕す」と。此は是れ六度の菩薩なるのみ。通教の方便の位も亦謗の義有り、真道に入らば謗ぜざるなり。別教の初心は深法有ることを知る、是れ則ち謗ぜず。此等悉く是れ諸の権の善根なり、故に二乗の後に次で説くなり。

 [13]此十種の境は、始め凡未の正報より、終り聖人の方便に至る。

 [14]陰入の一境は常に自から現前す、若は発するも、発せざるも。恒に観ずることを為すことを得。余の九境は発するときは観ずることを為すべし、発せずんば何ぞ観ずる所あらん。

 [15]又八境は正道を去ること遠し、深く防護を加へて正轍に帰することを得。二境は正道を去ること近し、此位に至るときは、観無きことを応らず、薄修するに即ち正なり。

 [16]又若し諸境の互に発することを解せずんば、大いに疑網を起し、岐道に在りて従ふ所を知らざるか如くならん。先に若し之を聞かば、其変怪を恣にして心は安きこと空の若くならん。互発に十あり、次第、不次第、雑、不雑、具、不具、作意、不作意、成、不成、益、不益、久、不久、難、不難、更、不更、三障、四魔を謂ふ、九雙七隻なり。

 [17]次第とは三義あり、法、修、発を謂ふ。法とは次第浅深の法なり。修とは先世に已に曾て研習する次第なり、或は此世に次第に修するなり。発とは次に依りて修して而も次に発するなり。

 [18]不次に亦三義あり、法、修、発を謂ふ。発は則ち不定、或は前に菩薩の境を発し後に陰入を発す、次第ならずと雖も十の数宛ら足る。修とは若し四大違返すれば則ち先に患病を修す、若し四分増多なれば則ち先に煩悩を修す、是の如く一一強き者に随つて先に修すなり。法とは、眼、耳、鼻、舌、陰、入、界、等皆是れ寂静門なり、亦是れ法界なり、何ぞ此を捨て、彼に就くを須ひん。「宝篋経」に出づ「云云」と。当に知るべし、法界の外、更に復法有りて而して次第を為す無きを。煩悩即ち法界なり、「無行経」に云ふが如し、「貪欲は即ち是れ道なり」と。「浄名」に云はく、「非道を行じて仏道に通達す」と。仏道既に通ず、復次第無きなり。病患是れ法界なるは、「浄名」に云はく、「今我病は真に非ず有に非ず、衆生の病も亦真に非ず有に非ず」と。此を以て自ら調へ、亦衆生を度す。方丈の託疾、雙林の病行、即ち其義なり。業相を法界と為すとは、業は是れ行陰なり、「法華」に云はく、「深く罪福の相に達し、遍く十方を照す。微妙浄法身、相を具すること三十二」と。業は縁従り生ず、自ら在るにさらざるが故に。空なりと達すれば、此業能く業を破す。若し、衆生応に此業を以て得度すべきに、諸の業を示現するは、此業を以て業を立つ。業と不業と縛脱得ること叵し、普門示現して雙べて縛脱を照す、故に、深達と名く、何ぞ啻方等の師と為すに堪へんや。魔事を法界と為すとは、「首楞厳」に云はく、「魔界の如と仏界の如は一如にして二如無し」と。実際の中にして尚仏を見ず、況んや魔あるを見んや。設ひ魔ある者も、良薬を屣に塗れば乗御に堪任せん云云。禅を法界と為すとは、能く心性を観ずるを名けて上定と為す。即ち首楞厳、昧せず乱せず、王三昧に入らば、一切の三昧悉く其中に入る。見を法界と為すとは、「浄名」に云はく、「邪相を以て正相に入り、諸見に於て動ぜずして而も三十七品を修す」と。又、動じて修し、動ぜずして修し、亦は動じ亦は動ぜずして修し、動に非ず不動に非ずして三十七品を修す。見を以て門と為し、見を以て侍と為す。慢を法界と為すとは、還つて是れ煩悩なるのみ、慢、無慢、慢、大慢をば慢に非ず不慢に非ずと観じて秘密蔵を成じ、大涅槃に入るなり。二乗を法界と為すとは、若は但空を見て不空を見ず云云。智者は空及与び不空を見る、声聞の法を決了するに是れ諸経の王なり、聞き已つて諦かに思惟すれば無上道に近づくことを得。菩薩境を法界と為すとは、底悪の生死、下劣の小乗も尚即ち是れ法界なり、況んや菩薩法、寧ろ仏道に非ざらん。又菩薩方便の権は、権に即して而も実、亦即ち権に非ず実に非ず、秘密蔵を成じ、大涅槃に入るなり。是一一の法は、皆即ち法界なり、是を不次第の法の相と為す。

 [19]雑、不雑とは、一境を発し已つて更に一境を発す、歴歴として分明なり、是を不雑と為す。適陰入を発するに復煩悩を起す、煩悩未だ謝せざるに復業、復魔、禅、見、慢等、交横並沓す、是を雑発と為す、雑なりと雖も十種を出でず。

 [20]具、不具とは、十の数足るを具と名け、九より去つて不具と名く。次、不次、雑、不雑、皆具、不具を論ず。又総じて具、総じて不具、別して具、別して不具あり。十の数の足るは是れ総じて具、十の数の委悉ならざるは是れ総じて不具なり。九数欠くるは是れ別して不具なり、九数の中、委悉なるは是れ別して具、又横具、横不具、豎具、豎不具あり。例するに、四禅を発して非想に至るは是れ豎具、不用処に至るは是れ豎不具、通明、背捨等を発するは是れ横具、止七背捨を我するは是れ横不具なるが如し。又初禅を我して四禅に至るは是れ豎具、三禅より来は是れ豎不具、又初禅の九品は是れ豎具、八品より来は是れ豎不具、又一品に五支足は是れ横具、四支より已来は是れ横不具なり。其余の法は此に例して知るべし云云。

 [21]修不修とは、作意して陰界入を修するに、界入開解するは是れ修発、作意せずして陰界入自から発し、色心に通達するは是れ不修発、乃至菩薩境も亦是の如し、応に四句有りて根本と為し、句句三十六を織成すべし、例せば下の煩悩境の中に説くが如し。

 [22]成、不成とは、若し一境を発するに究竟して成就するは成就し已つて謝し、更に余境を発す、余境も亦究竟して成ず。若し一種を発し、乍ち起り乍ら滅するは、但品数欠少するのみに非ず、分分の中に於て亦曖昧として明らかならず。前の具、不具には止頭数を明す、此中には体分の始終を論ずるなり。

 [23]益、不益とは、或は悪法を発するも止観に於ては益巨く明静なること転た深し、或は善法を発するも、止観に於ては大いに損す其静照を損す。或は静を増し照を損し、或は静を損し照を増す。倶に増し倶に損す。

 [24]難発、不難発とは、或は悪法の難と易、或は善法の難と易。倶に難、倶に易なるをいふ。

 [25]久、不久とは、自ら一境に有りて久久に去らず、或は一境に有りて即ち起り、即ち去る云云。

 [26]更、不更とは、自ら一境に有りて一更、両更、乃至多多。自ら一境に有りて一たび発して即ち休し、後復発せず、是の如き等、種種に同じからで、善く共意を識れ、謬つて去取すること莫れ。然るに皆止観を以て之を研め滞り無からしむ。

 [27]三障、四魔とは、「普賢観」に云はく、「閻乗提の人は三障重きが故なり」と。陰入病患は是れ報障、煩悩見慢は是れ煩悩障、業魔禅二乗菩薩は是れ業障なり。止観を障へて明静ならず、菩提の道を塞ぎ、行人をして通じて五品、六根清乗の位に至ることを得ざらしむ、故に名けて障と為す。

 [28]四魔とは、陰入は正しく是れ陰魔、業禅二乗菩薩等は是れ行陰、名けて陰魔と為す。煩悩見慢等は是れ煩悩魔。病患は是れ死の因なれば死魔と名く。魔事は是れ天子魔なり。魔は奪者と名く、観を破するは命を奪ふと名け、止を破するを身を奪ふと名く。又魔を魔説と名く、」観を磨し、訛して黒闇ならしめ、止を磨し、訛して散逸ならしむ、故に名けて魔と為す云云。

 [29]問ふ、何の意ぞ、互に発する。答ふ、皆二世の因縁に由るなり。昔漸観の種子有らば、今修行の雨を得て即ち次第に発するなり。昔頓観の種子有らば、即ち不次第に発す。昔不定の種子有らば、即ち雑発す。昔修する時数具すれば、即ち具発す。昔修する時に数具せざれば、即ち具発す。昔曾て証得するは、今発すれば則ち成ず。昔但修して証せざるは、今発するに成ぜず。昔の因強ければ、今修せずして而も発す。今の縁強ければ、修を待つて而して発す。昔の因、今の縁、二倶に善巧にして上道に廻向するは、今発するに則ち益す。昔の因縁の中に毒を雑するは、是れ則ち損を致す。発の所、因の処弱ければ、則ち久しからず。発の因の処強ければ、是則ち久し。麤細住、乃至四禅、伝伝して強弱を判ず云云。善く発し易きは遮の軽きに関り、善く発し難きは遮の重きに由る。悪の発し艱きは根の利なるに由り、悪の発し易きは根の鈍なるに由る。悪の滅せんと欲して而も告謝し、善の生ぜんと欲して而も相知らしむるは、則ち一にして而も更にせず。善の滅せんと欲して而も救を求め、悪の興らんと欲して而も受を求むるは、則ち更更更更なり。此中、皆口決を須ひ、智慧を用て籌量せよ、心を師として謬つて是非を判ずることを得ざれ。爾、其れ之を慎め、之を勤めよ、之を重んぜよ。

 [30]私に料簡せば、法は塵沙の如し、境、何ぞ定んで十ならん。答ふ、譬へば、大地の一にして能く種種の芽を生ずるが如し、数法は広略せず、義をして明了にし易からしめんが故に十と言ふのみ。

 [31]問ふ、十境の通別や云何。答ふ、受身の始め、身有らざること無し、諸経に観を説くこと、多くは色従り起る、故に陰を以て初めと為すのみ。陰を以て本と為すは、陰の因、陰の患、陰の主、善の陰、又陰の因、別の陰等云云。通じて煩悩と言ふは、見慢は同じく煩悩なり、陰入病は是れ煩悩の果なり、業は是れ煩悩の因、禅は是れ無動業、業は即ち煩悩の用なり、魔は即ち欲界を統ぶ、即ち煩悩の主なり、二乗、菩薩は即ち別煩悩の摂なり云云。通じて病患と称するは、陰界入は即ち病の本なり、煩悩見慢等は即ち是れ煩悩の病なり。「浄名」に云はく、「今、我病は皆前世の妄想諸煩悩より生ず」と。業も亦是れ病なり。「大経」に云はく、「王、今病重し」と。即ち五逆を指して病を為すなり。魔は能く病を作す、三災は外の過患と為り、喘息喜楽は是れ内の過患なり。禅に喜楽あるは即ち病患なり、二乗、菩薩は即ち是れ空病、空病も亦空なり。通じて業と称するは、陰入は是れ業の果なり、煩悩見慢は是れ業の本なり。病は是れ業の報なり、魔は是れ魔業なり。禅は是れ無動業なり。二乗、菩薩は是れ無漏業なり。通じて魔と称するは、陰入は即ち陰魔、煩悩見慢は即ち煩悩魔、病は是れ死魔、魔は即ち天子魔、余は皆是れ行陰魔の摂なり。通じて禅定と称するは、禅は自ら是れ其境、陰入、煩悩、見慢、業等は悉く是れ十大地の中心数定の摂なり。魔は是れ未到定の果、亦是れ心数定の摂なり。二乗、菩薩は浄禅の摂、叉三定に之を摂す。上定に菩薩、二乗を摂し、中下二定に八境を摂す云云。

通じて見と称するは、陰入は即ち我見、衆生見なり。煩悩は五見を具す。病は寿者命者見、業、禅等は作者見、亦是れ戒取見なり。魔は是れ使作者、使受者、使起等の摂なり。又生死は即ち辺見の摂なり。慢は即ち我見の摂なり。二乗方便菩薩等は皆曲見の摂なり。通じて慢と称するは、陰入は我慢の摂、煩悩は即ち慢慢の摂。病患は不如慢の摂。業は憍慢の摂、憍に由るが故に業を造るなり。魔は即ち大慢の摂。禅は即ち憍慢の摂。見も亦大慢の摂。二乗、菩薩は増上慢の摂なり。通じて二乗と称するは、四念応、四諦の法に九境を摂するなり。通じて菩薩の境と称するは、四弘誓を以て九境を摂得す。問ふ、境法と名と倶に通ぜば、行人も亦通ずるや不や。答ふ、「大経」に云はく、「云何ぞ未だ発心せざるに而も名けて菩薩と為すや」と。前の九境の人、亦通じて菩薩と称するなり。通じて是れ二乗なるは、則ち四種の声聞あり、増上慢の声聞に下の八境の人を摂得し、仏道の声聞に菩薩の人を摂するなり。問ふ、通じて是れ無常なりや不や。答ふ、「宝性論」に云はく、「菩薩は無漏界の中に住して無常の倒有り」と。問ふ、通じて是れ有漏なりや不や。答ふ、湍の義は則ち通ず、有の義は小しく異なり。問ふ、通じて是れ偏真なりや不や。答ふ、偏の義は則ち通ず、真の義は小しく異り。

 [32]問ふ、通の義領すべし、別や復云何。答ふ、十境同じからず、即ち別の義なり。復、亦通亦別あり、陰は是れ受身の本、又是れ観慧の初めなり、所以に別して其首に当つ、此一境も亦通亦別なり、後の九境は、異相を発するに従へて名を受く、但、是れ通是れ別なることを得、是れ通亦別なることを得ざるなり。若し爾らば煩悩も亦是れ諸法の本なり、元より惑を治せんが為なれば、亦是れ観の初めなり、病身の四大も亦是れ事の本なり、元、病を治せんが為なれば、亦是れ観の初めなり、何の意ぞ亦通亦別なることを得ざらん。答ふ、若し身、煩悩に囚るは前世に属す、若し今の世の煩悩は身に由つて而も有り、病は恒に起らず、本と為すこと事弱ければ、諸の経論、病を以て観の首めと為さず、故に亦通亦別ならざるのみ。非通非別は皆不思議なり、一陰一切陰、一に非ず一切に非ず。問ふ、九境の相起るに、更に別の名を立てば、陰入の解起るに応に別の名を立つべし。答ふ、陰の解起る時、條然として別なるに非ず、還つて是れ陰入の摂なり、若し此弁を執すれば即ち見に属す。若し解に愛恚を起すに約すれば煩悩に属す。病を招き、魔を来す、事に随つて別に判ず。若し解の発すること朗然として九境の相無くんば、此れ則ち止観の気分なり。但、通別なることを得るも、亦通亦別なることを得ざるのみ。問ふ、十境は倏然として別なりや不や。答ふ、四念応は是れ陰の別、空聚を観ずるは是れ入の別、無我は是れ界の別、五停心は煩悩の別、八念は病の別、十善は業の別、五繋は魔の別、六妙門は禅の別、道品は見の別、無常、苦、空は慢の別、四諦、十二因縁は二乗の別、六度は菩薩の別なり。

 [33]問ふ、五陰倶に是れ境ならば、色心の外、別に観有るや。答ふ、不思議の境智は陰に即して是れ観なり。亦分別すべし、不善無記の陰は是れ境なり、善の五陰は是れ観なり、観既に純然すれば悪無く無記なし。唯、善陰のみあり、善の陰は転じて方便の陰と成り、方便の陰は転じて無漏の陰と成り、無漏の陰は転じて法性の陰と成る、無等等の陰と謂ふなり。豈陰の外、別に観有るに非ずや。小乗尚爾り、況んや不思議をや。問ふ、若し陰を転じて観と為さば、報陰も応に輅ずべきや 不や。答ふ、「大品」に云はく、「色浄なるが故に受想行識浄、般若も亦浄なり」と。「法華」に云はく、「顔色鮮白、六根清浄なり」と。即ち其義なり、陰は転ずと雖も観境宛然たり云云。問ふ、十境と五分と云何。答ふ、五分は禅を判ず、十発は境に約す、今当に之を会すべし。若し次、不次一たび発して後に至るは則ち進分なり。九に斉る已来は住分なり。作意矜持するは護分なり。一たび発して即ち失するは退分なり。達分は知んぬべし。若し境境に於て皆五分を作さば、意を以て推すべし。分別することを俟たざれ。然るに五分十境は皆是れ法相なり、互に其義有ることを得べし、六即十地は行位の浅深なり、相類することを得ず。

 [34]問ふ、念性離れ、縁性も亦離る、若し縁無く念無くば亦数量も無けん、云何ぞ十法界を具せんや。答ふ、思議すべからず、無相にして而も相、観智宛然なり。他の解に、須弥は芥に容り、芥は須弥を容る、火、運華を出し、人、能く海を渡る、希有の事に就て不思議を解す。今解するに心無く念無し、能行無く能到無し、不思議の理、理は則ち事に勝る。問ふ、十法界の互に相有るは、因とせんや果とせんや。答ふ、倶に相有り、而して果は隔てて顕はし難く、因は通じて知り易し。慈童女の地獄界を以て仏心を発するが如し。未得記の菩薩は得記の者を軽んするが如し。若し悔を生ぜんば罪を出づるの期無し。更に諸の例を引かば、凡聖皆五陰を具す、聖陰は凡陰の如しと言ふべからや。又仏は五眼を具す、豈人天の果報を以て仏眼を釈すべけんや。仏は五行を具す、病行は是れ四悪界。嬰兒行は是れ人天界、聖行は是れ二乗法界、梵行は是れ菩薩法界、天行は是れ仏法界なり。問ふ、一念に十法界を具するは、作念して具すと為んや、任運に具すと為んや。答ふ、法性自爾なり、作の成す所に非ず、一微塵に十方の分を具するが如し云云。

 [35]第一に観陰入界境とは、五陰、十二入、十八界を謂ふなり。陰とは善法を陰蓋す、此れ因に就て名を得たるなり。又陰とは是れ積聚、生死重杳す、此れ果に就て名を得たるなり。入とは渉入なり、亦輸門に名く。界とは界別を名け、亦性別を名く。「毘婆沙」に三科の開合を明す。若し心に迷ふには心を開いて四陰と為し、色を一陰と為す。若し色に迷ふには色を開いて十入及び一入の少分と為し、心を一の意入及び法入の少分と為す。若し倶に迷ふには開いて十八界と為すなり。「数人」の説かく、「五陰は同時なり、識は是れ心王、四陰は是れ数なり」と。有門に約して義を明す、故に王数相扶け、同時にして而して起る。「論人」の説かく、「識が先」に了別し、次に受が領納し、憩が相貌を取り、行が違従を起し、色が行に由つて感ず」と。空門に約して義を明す、故に次第に相生ず。若し能生所生に就かば、細従り麤に至る、故に識前に在り。若し修行に従はば麤より細に至る、故に色前に在り。皆数を以て王を隔つることを得ず。若し四念処を論ずれば則ち王中に在り、此は言説の便と為すに就くのみ。又分別するに九種あり、一期の色心を果報の五陰と名く、平平の相受は無記の五陰なり、見を起し愛を起すは両の汚穢の五陰なり、身口の業を動ずるは善悪両つの五陰なり、変化示現は工巧の五陰なり、五善根の人は方便の五陰なり、四果を証するは無漏の五陰なり、是の如くの種種、源は心従り出づ。「正法念」に云はく、「昼師の手の五彩を昼き出すが如し、黑、青、赤、黄、白、白白なり。昼手は心に譬へ、黑色は地獄の陰を譬へ、青色は鬼を譬へ、赤は畜を譬へ、黄は修羅を譬へ、白は人を譬へ、白白は天を譬ふ」と。此六種の陰は正界内に斉る。若し、「華厳」に「心は工なる昼師の種種の五陰を昼くが如し」と云ふに依らば、界内、界外一切世間の中、心従り造らざるは莫し。世間の色心尚窮盗し叵し、況んや復止世においてをや、寧んぞ凡心をもつて知る可けん。凡眼、翳あつて尚近きをも見ず、那ぞ遠きを見ることを得ん。弥生曠劫に界内の一隅を観ず、況んや復界外の辺表をや。渇鹿の炎を逐ひ、狂狗の雷を齧むが如き、何ぞ得るの理有らん。縦令ひ解悟すとも終に小乗にして大道に非ず。故に「大集」に云はく、「常見の人は異念断と説き、断見の人は一念断と説く」と。皆二辺に堕して中道に会せず。況んや怖、世を去りたまひて後、人根転た鈍にして名を執し諍を起す、互に相是非して悉く邪見に堕す。故に「竜樹」は五陰の一異同時前後を破すること、皆炎幻響化の如し、悉く得べからず、寧ぞ更に王数の同時異時を執せんや。然るに界内外の一切の陰入は皆心に由り起る。仏、比丘に告げたまはく、「一法に一切の法を摂す、所謂心是なり」と。「論」に云はく、「一切世間の中、但名と色とのみ有り、若し実の如く観ぜんと欲せば、但当に名色を観ずべし、心是れ惑の本、其義是の如し。若し観察せんと欲せば、須らく其根を伐れ、病に灸するに穴を得るが如くすべし。今当に丈を去つて尺に就き、尺を去つて寸に就くべし。色等の四陰を置いて但識陰を観ず、識陰とは心是なり。

 [36]観心に十の法門を具す、一には観不思議境、二には起慈悲心、三には巧安止観、四には破法遍、五には識通塞、六には修道品、七には対治助開、八には知次位、九には能安忍、十には無法愛なり。既に自ら妙境に達すれば、即ち誓を起して他を悲しむ、次に行を作して願を填つ、願行既に巧なれば破するに遍からざること無し、遍く破する中精しく通塞を識り遊品をして進行せしむ、又、助を用ひて道を開す、道の中の位、己他皆識る、内外の榮辱を安忍して中道の法愛に著すること莫し、故に疾く菩薩の位に入ることを得、譬へば毘首羯磨は得勝堂を造るに疎ならず密ならず、間隙綖を容る、巍巍昂昂として上天に峙つ、拙匠の能く揆り則る所に非ざるが如し。又、善昼の其匡郭を圖するが如し、像を写すこと真に偪つて骨法精靈、生気飛動す、豈埖彩の人の能く点綴する所ならんや。此十重の観法は、横豎収束し、微妙精巧なり。初は則ち境の真偽を簡び、中ろは則ち正助相添へ、後は則ち安忍無著なり。意円に法巧みに、該括周備す。初心に規短し、行者を将遊して、彼薩雲に到らしむ。暗証の禅師、誦文の法師の能く知る所に非ざるなり。蓋し如来の積劫の勤求する所に由る、道場の妙悟する所、身子の三び請ずる所、法譬の三び説く所、正しく茲に在る乎。

 [37]一に、心は是れ不可思議の境なりと観ずるとは、此境説くこと難し、先に思議の境を明して、不思議の境をして顕れ易からん。思議の法とは、小乗にも亦「心は一切の法を生ず」と説くは、六道の因果、三界の輪環を謂ふなり。若し凡を去つて聖を欣はば、則ち下を棄てて上出し、灰身滅智す、乃ち是れ有作の四諦にして、萓し思議の法なり。大乗にも亦「心は一切の法を生ず」と明すは、十法界を謂ふなり。若し心は是れ有なりと観ずれば、善あり、悪あり、悪は則ち三品、三途の因果なり、善は則ち三品、修羅、人、天の因果なり。此六品を観ずるに無常生滅す、能観の心も亦念念住せず、又、能観、所観悉く是れ縁生、縁生即ち空、並に是れ二乗の因果0法なり。若し此寤有二辺に堕落して寤に況み有に滞るを観じて而して大慈悲を起し、仮に入りて物を化す。実には身無きに仮に身を作し、実には空無きに仮に空を説きて而も之を化導するは、即ち菩薩の因果の法なり。此法の能度、所度を観ずるに、皆是れ中道実梢の法にして畢痣清乗なり。誰かは善、誰かは悪、誰かは有、誰かは無、誰かは度、誰かは不度ならん、一切の法、悉く是の如し、是れ仏の因果の法なり。此十法の邐迆浅深は皆心従り出づ、是れ大乗なりと雖も無量の四諦の揖する所にして、猶是れ思議の境、今の止観の所観に非ざるなり。

 [38]不可思議境とは、「華厳」に云ふが如し、「心は工なる昼師の種種の五陰を造るが如し、一切世間の中、心従り造らざるは莫し」と。種種の五陰とは、前の十法界の五陰の如きなり。

 [39]法界とは三義あり、十数は是れ能依、法界は是れ所依、能所合せ称するが故に十法界と言ふ。又此十法は各各の因、各各の果、相混濫せず、故に十法界と言ふ。又此十法は、一一の当体皆是れ法界なり、故に十法界と言ふ云云。

 [40]十法界、通じて陰入界と称するも、其実は同じからず。三途は是れ有漏の悪の陰界入なり、三善は是れ有漏の善の陰界入なり。二乗は是れ無漏の陰界入なり。菩薩は是れ、亦有漏亦無漏の陰界入なり。仏は是れ、非有漏非無漏の陰界入なり。「釈論」に云はく、「法の無上なる者は、涅槃是なり」と。即ち非有漏非無漏の法なり。「無量義経」に云はく、「仏は諸の大と陰と界と入と無し」とは、前の九の陰界入無きなり。今有りと言ふは、涅槃常住の陰界入有るなり。「大経」に云はく、「無常の色を滅するに因つて、常の色を獲得す、受想行識も亦復是の如し」と。常楽重沓するは即ち積聚の義なり。慈悲覆蓋するは即ち陰の義なり。十種の陰界、同じからざるを以ての故に、故に五陰世間と名く。五陰を攬つて通じて衆生と称するも、衆生同じから亊、三途の陰を攬らば罪苦の衆生なり。人天の陰を攬らば受楽の衆生なり。無漏の陰を攬らば真聖の衆生なり。慈悲の陰を攬らば大士の衆生なり。常住の陰を攬らば尊極の衆生なり。「大論」に云はく、「衆生の無上なる者は、仏是なり」と。豈凡下と同じからんや。「大経」に云はく、「歌羅羅の時名字異り、乃至、老の時名字異り。芽の時名字異り、乃至、果の時名字亦異り」と。直に一期に約して十時差別す、況んや十界の衆生、寧ぞ異らざることを得んや。故に衆生世間と名くるなり。十種の所居、通じて国土世間と称するは、地獄は赤鐵に依つて住す、畜生は地水空に依つて住す、修羅は海畔海底に依つて住す、人は地に依つて住す、天は宮殿に依つて住す、六度の菩薩は人に同じく地に依つて住す、通教の菩薩の惑未だ尽きざる者は人天に同じく依住す、惑を断じ尽せる者は方便土に依つて住す、別円の菩薩の惑未だ尽ざる者は人天方便等の住に同じく、惑を断じ尽せる者は実報土に依りて住し、如来は常寂光土に依つて住す。「仁王経」に云はく、「三賢、十聖は果報に住し、唯、仏一人のみ浄土に居す」と。土土同じからざるが故に、国土世間と名くるなり。此三十種の世間は悉く心従り造る又十種の五陰は、一一各十法を具す。謂はく、如是相、性、体、力、作、因、縁、果、報、本末究竟等なり。先づ総じて釈し、後に類に随つて釈す。総釈とは、未れ相は以て外に據る、覧て而して別つべし。「釈論」に云はく、「知り易きが故に名けて相と為す、水、火の相異れば則ち知るべきこと易きが如し」と。人の面色に諸の休否を具するが如し、外相を覧し即ち其内を知る。昔、孫劉は相顕はに、曹公は相隠る、相者声を挙げて大いに哭す、四海三に分れ、百姓荼毒せんと。若し相有りと言ふも、闇き者は知らず、若し相無しと言ふも、占者は洞かに解す。当に善さ相者に随つて人の面外に一切の相を具することを信ずべし。心も亦是の如く、一切の相を具す、衆生は相隠る、弥勒は相顕はるなり、如来は善く知りたまふが故に遠近皆記す。善く観ぜざる者は、心に一切の相を具することを信ぜず、当に宝の如く観ずる者に随つて、心に一切の相を具することを信ずべし。如是性とは、性は以て内に據る、総じて三義有り、一には不改を性と名く。「無行経」に「不動性」と称す、性は即ち不改の義なり。又性は性分と名く、種種の義、分分同じからず、各各改む可からず。又、性は是れ宝性なり、宝性は即ち理性、極宝にして過ること無し、即ち仏性の異名なるのみ。不動性は空を扶け、種性は仮を扶け、宝性は中を扶く、今明す内性は改む可からず。竹の中の火の性は見る可からずと雖も無と言ふことを得ず、燧人、乾草、遍く一切を焼くが如し。心も亦是の如く、一切五陰の性を具す、見る可からずと雖も無と言ふことを得ず、智眼を以て観ずるに一切の性を具す。世間の人笑ふ可し、其偏聞を以て円経を判ず。「涅槃」に「仏は衆生に仏性有りと知りたまふ」と明すを判じて極常と為し、「法華」に「仏は一切法の如是性を知りたまふ」と明すを判じて無常と為す。豈少知を以て常と為し、多知を無常と為すべけんや。又、「法華」に云はく、「仏は一切の法は皆是れ一種一性なりと知りたまふ」と、此語も亦少し、何が故ぞ判じて無常と為ん。又有師は、「法華」の十如を判ずるに、「前の五如は凡に属し、是れ権なり、後の五は聖に属す、宝と為す」と。汝が判ずる所に依らば、凡は則ち宝無く、永く聖と成ることを得ず、聖は権無し、正遍知に非ず、此れ乃ち専輒の説なり、仏を誣ひ、凡を慢るのみ。又、「涅槃」に「一切衆生悉く仏性有り」と明す、而して是れ常と言ひ、「浄名」に「一切衆生は即ち菩提の相なり」と云ふを、是れ無常と判ず。若し、仏性と菩提の相と異らば、一は常、一は無常なるべし。若し異らずんば、此判、大いに誤りならん。占者が王の相、王の性を見るに、倶に極まるところに登ることを得んが如し。仏性と菩提の相と何が故ぞ同じからざらん。如是体とは、主質の故に体と名く。此十法界の陰入は、倶に色心を用て体質と為すなり。如是力とは堪任の力用なり。王の力士の千万の技能も、病めるが故に無しと謂ふ、病差ゆれば用有るが如し。心も亦是の如し、具に諸の力有るも、煩悩の病の故に運動すること能はず、実の如く之を観ずれば一切の力を具するなり。如是作とは、運為建立を作と名く。若し心を離るれば更に所作無し、故に知んぬ、心に一切の作を具することを。如是因とは、果を招くを因となす。亦は名けて業と為す。十法界の業は、心より起る、但、心有らしむれば諸業具足す、故に如是因と名く。如是縁とは、縁は縁由を名く、業を助くるは皆是れ縁の義なり、無明、愛等は能く業を潤す、即ち心を縁と為すなり。如是果とは、剋獲を果と為す。習因は前に習続し、習果は後に剋獲す、故に如是果と言ふなり。如是報とは、因に酬ゆるを報と日ふ。習因、習果、通じて名けて因と為す。後世の報を牽く、此報は因に酬ゆるなり。如是本末究竟等とは、相を本と為し、報を末と為す、本末悉く縁より生ず、縁生の故に空なり。本末皆空、此れ空に就て等と為すなり。又相は但字のみ有り、報も亦但字のみ有り、悉く仮りて施設す、此れ仮名に就きて等と為す。又、本末互に相表幟す、初の相を覧て後の報を表じ、後の報を覘て本の相を知る。施を見て富を知り。富を見て施を知るが如し。初後相在り、此れ仮に就て等を論ずるなり。又、相、無相、無相にして而も相、非相非無相、報、無報、無報にして而も報、非報非無報、一一皆如実の際に入る。此れ中に就て等を論ずるなり。

 [41]二に類解とは、十法を束ねて四類と為す。三途は苦を表するを以て相と為し、定悪聚を性と為し、摧析の色心を体と為し、刀に登り鑊に入るを力と為し、十不善を起すを作と為し、有漏の悪業を因と為し、愛取等を縁と為し、悪の習果を果と為し、三悪趣を報と為し、本末皆癡なるを等と為す。三善は楽を表するを相と為し、定善聚を性と為し、升出の色心を体と為し、楽受を力と為し、五戒、十善を起すを作と為し、白業を因と為し、善の愛取を縁と為し、善の習果を果と為し、人天の有を報と為し、応に仮名に就て初後の相在なるを等と為すべきなり。二乗は涅槃を表するを相と為し、解脱を性と為し、五分を体と為し、無繋を力と為し、道品を作と為し、無漏の慧行を因と為し、行行を縁と為し、四果を果と為し、既に後有田の中に生ぜざるが故に報無し云云。菩薩、仏の類は、縁因を相と為し、了因を性と為し、正因を体と為し、四弘を力と為し、六度篤行を作と為し、智慧荘厳を因と嶌し、福徳荘厳を縁と為し、三菩提を果と為し、大涅槃を果と為す云云。閃縁に逆順有り。生死に順ずる者は有漏の業を因と為し、愛取等を総と為す。生死に逆らふ者は無漏の正慧を以て因と為し、行行を縁と為す、倶に生を損し惑を破す。界外の生死に順ずるは。亦無漏の慧を以て因と為し、無明等を縁と為す。若し生死に逆はば、即ち中道の慧を以て因と為し、高行を縁と為す。倶に変易の生死を損するが故なり。因縁既に爾なり、余者の逆順も此に準じて知るべし。若し声聞に依らば、但、九にして十無し。若し大乗三仏の義に依らば、仏に報身あり。若し惑を断じ尽すの義に依らば、則ち後の報無し。九と十と斟酌して解すべし。

 [42]衆生世間、既に是れ仮名にして体の分別すべきもの無し、実法を攬つて仮に施設するのみ、所謂悪道衆生の相、性、体、力、究竟等と云云。善道の衆生の相、性、体、力、究竟等、無漏の衆生の相、性、体、力、究竟等、菩薩、仏法界の相、性、体、力、究竟等、準じ例して皆解すべし。

 [43]国土世間も亦十種の法を具す。所謂悪の国土の相、性、体、力等云云。善の国土、無漏の国土、仏、菩薩の国土の相、性、体、力云云。

 [44]未れ一心に十法界を具し、一法界に又十法界を具す、百法界なり。一界に三十種の世間を具し、百法界に即ち三千種の世間を具す。此三千は一念の心に在り、若し心無くんば而已なん、介爾も心有らば即ち三千を具す。亦一心前に在り、一切の法後に在りと言はず。亦一切の法前に在り、一心後に在りと言はず。例せば、八相、物を遷すが如し、物、相の前に在らば、物、遷されず、相、物の前に在らば亦遷されず、前も亦不可なり、後も亦不可なり、秖物に相の遷るを論じ、秖相の遷るを物に論ずるなり。今の心も亦是の如し、若し一心従り一切の法を生ぜば、此れ即ち是れ縦なり、若し心、一時に一切の法を含まば、此れ即ち是れ横なり、縦も亦可ならず、横に亦可ならず、秖、心は是れ一切の法、一切の法は是れ心なるなり。故に縦に非ず、横に非ず、一に非ず、異に非ず、玄妙深絶にして諸の識る所に非ず、言の言ふ所に非ず、所以に称して不可思議境と為す。意此に在るなり云云。

 [45]問ふ、心起るには必ず縁に託す、心に三千の法を具すと為んや、縁に具すと為んや、共じて具すと為んや、離して具すと為んや。若し心に具せば心起ること縁を用ひず、若し縁に具せば縁に具して心に関らず、若し共じて具せば、未だ共ぜざるとき各に無くして共するの時安んぞ有らん、若し離して具せば既に心を離れ縁を離る、那ぞ忽ち心に具せん。四句尚不可得なり、云何ぞ三千の法を具せんや。答ふ、「地人」の云はく、「一切の解惑真妄は法性に依持す、法性は真妄を持し、真妄は法性に依るなり」と。「摂大乗」に云はく、「法性は惑の為に染せられず、真の為に染せられず、故に法性は依持に非ず。依持と言ふは阿黎耶是なり、無沒無明、一切の種子を盛持す」と。若し地師に従はば則ち心に一切の法を具す。若し摂師に従はば即ち縁に一切の法を其す。此両師は各一辺に據る。若し法性が一切の法を生ぜば、法性は心に非ず。縁に非ず、心に非ざるが故に而も心が一切の法を生ぜば、縁に非ざるが故に亦応に縁が一切の法を生ずべし。何ぞ独り法性は是れ真妄の依持なりと言ふことを得んや。若し法性は依持に非ず、黎耶が是れ依持なりと言はば、法性を離れて外、別に黎耶の依持有らば、即ち法性に関らず、若し法性、黎耶を離れずば、黎耶の依持は即ち是れ法性の依持なり、何ぞ独り黎耶が是れ依持なりと言ふことを得ん。又、経に違す。経に言はく「内に非ず、外に非ず、亦中間に非ず、亦常に自ら有なるに非ず」と。又、竜樹に違す。竜樹の云はく、「諸法は自より生ぜず、亦他従り生せず、共ならす、無因ならず」と。更に譬に就て検するに、常に心に依るが故に夢あり、眠に依るが故に夢あり、眠法心に合するが故に夢あり、心を離れ眠を離るが故に夢あるべしと為ん。若し心に依つて夢あらば、眠らざるも応に夢あるべし。若し眠に依つて夢あらば、死人の眠るが若きも応に夢あるべし。若し眠心の両つ合して而して夢あらば、眠る人、那ぞ夢みざるの時あらん。又、眠心各夢あらば合しても夢あるべし、各既に夢無ければ合しても応に有るべからず。若し心を離れ眠を離れて而も夢あらば、虚空は二を離れたり、応に常に夢あるべし。四句に夢を求むるも尚不 可得なり、云何ぞ眠夢に於て一切の事を見ん。心は法性を喩へ、夢は黎耶を喩ふ、云何ぞ偏に法性黎耶の一切法を生ずるに據らん。当に知るべし、四句に心を求むるも不可得なり、三千の法を求むるも亦不可得なり。既に横に四句に従つて三千の法を生ずること不可得なれば、応に一念の心の滅従り三千の法を生ずべきや。心の滅は尚一法をも生ずること能はず、云何ぞ能く三千の法を生ぜんや。若し心の亦滅亦不滅従り三千の法を生ぜば、亦滅と亦不滅は其性相違ずること猶水と火の二倶に立たざるか如し。云何ぞ能く三千の法を生ぜんや。若し心の非滅非不滅が三千の法を生ずと謂はば、非滅非不滅は能に非ず所に非ず、云何ぞ能所として三千の法を生ぜんや。亦縦亦横に三千の法を求むるも不可得なり。非縦非横に三千の法を求むるも亦不可得なり。言語の道断え、心行の処滅ず、故に不可思議境と名く。「大経」に云はく、「生生説く可からず、生不生説く可からず、不生生説く可からず、不生不生も説く可からず」と、即ち是義なり。

 [46]当に知るべし、第一義の中には一の法をも不可得なり、況んや三千の法をや、世諦の中には一心に尚無量の法を具ず、況んや三千をや、仏、徳女に告げたまふが如し。「無明は内に有りや不や」、「不なり」、「外に有りや不や」、「不なり」、「内外に有りや不や」、「不なり」「非内非外に有りや不や」、「不なり」、仏の言はく、「是の如きの有」と。竜樹の云はく、「自ならず、他ならず、共ならず、無因ならずして生ず」と。「大経」に云はく、「生生説く可からず、乃至、不生不生も説ぐ可からず、因縁有るが故に亦説くことを得べし」と。四悉檀の因縁を謂ふなり。四句冥寂なりと雖も、慈悲憐愍して名相無き中に於て名相を仮て説くなり。

 [47]或は世界を作して説かく、「心に一切の法を具す」と。聞く者歓喜す。「三界に別の法無し、唯是れ一心の造なり」と、言ふが如き、即ち其文なり。或は説かく、「縁は一切の法を生ず」と。聞く者歓喜す。「五欲は人をして悪道に墮せしむ。善知識は是れ大因縁なり、所謂化導して仏を見たてまつることを得しむ」と、言ふが如き、即ち其文なり。或は言ふ、「因縁共じて一切の法を生ず」と。聞く者歓喜ず。「水銀、真金に和して能く諸の色像を塗る」と、言ふが如き、即ち其文なり。或は言ふ、「離して一切の法を生ず」と。聞く者歓喜す。「十二因縁は仏の作に非ず。天人修羅の作にも非ず、其性自爾なり」と言ふが如き、即ち其文なり。此四句は、即ち世界悉檀に心が三千一切の法を生ずることを説けるなり。云何が為人悉檀なる。「仏法は海の如し、唯、信のみ能く入る。信は則ち道の源、巧徳の母なり、一切の善法は之に由つて生ず。汝但三菩提心を発せば、是れ則ち出家の禁戒具足ず」と言ふが如し。聞く者信を生ず、即ち其文なり。或は説かく、「縁は一切の法を生ず」と。「若し仏に値はずんば当に無量劫に於て地獄の苦に堕すべし。仏を見るを以ての故に無根信を得、伊蘭より栴檀を出生するが如し」と言ふが如し、聞く者信を生ず、即ち其文なり。或は説かく、「合して一切の法を生ず」と。「心水澄清にして殊相自から現ず、慈善根の力は此の如きの事を見る」と言ふが如き、聞く者信を生ず、即ち其文なり。或は説かく、「離して一切の法を生ず」と。「内観して是智慧を得、乃至、非内非 外観して是智慧を得るにも非ず、若し住著するところ有らば、先尼梵志も小の信をすら尚得べからず、況んや邪を捨て正に入らんや」と言ふが如き、聞く者信を生ず、即ち其文なり。是を為人悉檀の四句に、心が三千一切の法を生ずと説くと為すなり。云何が対治悉檀に説く。「心は一切の悪を治す」と。「一心を得る者は万邪滅す」と言ふが如き、即ち其文なり。或は説かく「縁は一切の悪を治す」と。無上大慧の明を聞くことを得て、心定まること地の如く、勳ずべからず」と説くが如き、即ち其文なり。或は説かく、「因縁和合して一切の悪を治す」と。「一分は思従り生じ、一分は師従り得」と言ふが如き、即ち其文なり。或は説かく、「離して一切の悪を治す」と。「我れ道場に坐するの時、一切の法を得ず、空拳、小兒を誑し、一切を誘度す」と、即ち其文なり。是を対治悉檀に、心二切の悪を破すと為す。云何が第一義悉檀に心、理を見ることを得る。心開け意解して豁然として道を得ると言ふが如し。或は説かく、「縁能く理を見る」と。「須臾も之を聞かば即ち三菩提を究竟ずることを得」と言ふが如し。或は説かく、「因縁和合して道を得」と。快馬は鞭の影を見て即ち正路を得るが如し。或は説かく、「離して能く理を見る」と。「無所得は即ち是れ得、已に是れ無所得を得」と言ふが如し。是を第一義の四句に理を見ると名く、何に況んや心、三千の法を生ずるをや。

 [48]仏旨は尽く浄くして、因縁共離に在らず、世諦に即して是れ第一義なり。又四句倶に皆説く可し、因も亦是なり、縁も亦是なり、共も亦是なり、離も亦是なりと説く。若し盲人の為に乳を説かんには、若は貝、若は秣、若は雪、若は鶴をもつてす、盲、諸の説を聞きて即ち乳を解することを得。世謗に即して是れ第一義謗なり。当に知るべし、終日説き終日説かず、絲日説かず終日説く、其日雙べ遮し経日雙べ照す、即ち破即ち立、即ち立即ち破、経論皆爾なり。天親、竜樹、内鑒冷然たり、外は時の宣しきに適ひ、各権に據る所あり。而も人師は偏に解し、学者苟くも執し、遂に矢石を興して各一辺を保つ、大いに聖道に乖くなり。若し此意を得れば、倶に説く可からず倶に説く可し。

 [49]若し便宜に随はば、応に無明は法性に法つて一切の法を生ずと言ふべし。眠法が心に法れば則ち一切の夢事あるが如し。心と縁と合すれば、則ち三種の世間、三千の相性、皆心より起るなり。一性少なりと雖も而も無ならで、無明多なりと雖も而も有ならず。何となれば、一を指して多とすれば多は多に非ず、多を指して一とすれば一は少に非ず、故に此心を名けて不思議境と為すなり。

 [50]若し、一心一切心、一切心一心、非一非一切、一陰一切陰、一切陰一陰、非一非一切、一入一切入、一切入一入、非一非一切、一界一切界、一切界一界、非一非一切、一衆生一切衆生、一切衆生一衆生、非一非一切、一国土一切国土、一切国土一国土、非一非一切、一相一切相、一切相一相、非一非一切、乃至一究竟一切究竟、一切究竟一究竟、非一非一切なりと解すれば、遍く一切に歴て、皆是れ不可思議境なり。若し、法性無明合して一切法陰界入等有らば即ち是れ俗諦なり、一切の界入是れ一法界ならば即ち是れ真眇なり、非一非一切は即ち是れ中道第一義諦なり。是の如く遍く一切の法を歴るに、不思議の三諦に非ざること無し云云。一法一切法なるがごときは即ち是れ因縁所生の法、是を仮名と為す、仮観なり。一切法即ち一法なるがごときは我説即是空、空観なり。若し非一非一切ならば即ち是れ中道観なり。一空一切空、仮、中として而も空ならざる無く、総て空観なり。一仮一切仮、空、中として而も仮ならざる無く、総て仮観なり。一中一切中、空、仮として而も中ならざる無く、総て中観なり。即ち「中論」に説く所の、不可思議の一心三観なり、一切の法に歴るも亦是の如し。若し因縁所生の一切法とは、即ち方便随情道種権智なり。若し一切法一法、我説即是空とは、即ち随智一切智なり。若し非一非一切、亦名中道義とは、即ち非権非実一切種智なり。上に例するに、一権一切権、一実一切実、一切非権非実なり、遍く一切に歴て、是れ不思議の三智なり。若し、随情は即ち随他意語、若し随智は即ち随自意語、若し、非権非実は即ち非自非他意語なり。遍く一切の法に歴て漸頓不定不思議の教門に非ざること無きなり。若し、頓を解すれば即ち心を解す、心尚不可得なり、云何ぞ当に趣、非趣あるべけんや。若し漸を解すれば即ち一切の法、心に趣くことを解す。若し、不定を解すれば即ち是趣の過ならざることを解す。此等、名異にして義同じ、行人に軌則たるを呼んで三法と為し、所照を三諦と為し、所発を三観と為し、観成ずるを三智と為し、他を教ふるを呼んで三語と為し、宗に帰するを呼んで三趣と為す、斯意を得て類すれば一切皆法門を成ずるなり。種種の味、煩を嫌ふこと勿れ云云。

 [51]如意珠の如きは天上の勝宝なり、狀芥栗の如くして大なる功能あり、浄妙の五欲、七宝の琳琅、内に蓄ふるに非ず、外より入るに非ず、前後を謀らず、多少を択ばず、麤妙を作さず、意に称ひて豐儉なり、降雨穰穰たり、添ず尽ず、蓋し是れ色法も尚能く此の如し、況んや心神の靈妙、寧ろ一切の法を具せざらんや。又三毒の惑心、一念の心起るに尚復身辺利鈍八十八使、乃至、八万四千の煩悩あり。若し、先より有なりと言はば那ぞ忽ち縁を待たん。若し、本より無なりと言はば縁対するに即ち応ず。有ならず無ならず、定有は即ち邪、定無は即ち妄なり。当に知るべし、有にして而も有たらず、有ならずして而も有なり。惑心も尚爾り、況んや不思議の一心を耶。又、眠夢に百千万の事を見るも、豁寤すれば一も無し、況んや復百千をや、未だ眠らざれば夢みず、覚せず、多ならず、一ならず、眠力の故に多と謂ひ、覚力の故に少と謂ふが如し。荘周は夢に蝴蝶と為つて翩翩すること百年なるも、寤むれば蝶に非ず亦歳を積みしに非ざることを知る。無明が法性に法つて一心一切心なり、彼昏眠の如し、無明即ち法性と達して一切心一心なり、彼醒寤の如し云云。又、安楽行を行ずる人、一たび眼るに、初めて発心し、乃至、仏と作り、道場に坐して法輪を転じ、衆生を度して涅槃に入ると夢みるも、豁寤すれば秖是れ一夢の事なり。若し三の喩を信ぜば則ち一心を信ぜん、口の宣ぶる所に非ず、情り測る所に非ず。

 [52]此不思議境に何の法か収めざらん。此境、智を発す、何の智か発せざらん。此境に依つて誓を発す、乃至、法愛無し、何の誓か具せざらん、何の行か満足せざらん耶。

 [53]説く時は上の次第の如し、行ずる時は一心の中に一切の心を具す云云。

 [54]二に真正の菩提心を発するとは、既に深く不思議境を識りて、一苦一切苦なるを知り自ら昔の苦を悲む。惑を起して麤弊の色声に耽湎し、身口意を縦にして不善業を作し、悪趣に輪環して諸の熱悩に縈り、身苦しみ、心苦しみて而して自ら毀傷す。而も今、還つて愛の繭を以て自ら纒ひ、癡の灯に害せらる。百千万劫、一と何ぞ痛ましきや。設使三途を捨てんと欲するも、五戒十善を欣ひて相心に福を修すれば市易博換の如し、飜つて更に罪を益す、魚の笱の口に入り、蛾の灯の中に赴くに似たり、狂計邪黠、逾迷ひ、逾遠し、渇して更に鹹を故む、竜鬚身を縛し、水に入りて転痛む、牛皮体に繋けて日に向ふに弥堅し、盲の棘林に入り、溺れて洄澓に堕つ。刄を把り炬を抱く、痛那ぞ言ふ可けん、虎尾蛇頭、悚焉として悼慄す。自ら惟るに此のごとし、他を悲しむことも亦然なり。仮令、隘路より叛きて怨国を出づるも、備さに辛苦を歴て絶えて而も復蘇へる、往きて貧里に至り、傭賃すること一日、草庵に止宿して肯へて前準せず、楽ひて鄙事を為す。信ぜず識らず、悲しむ可し、恠しむ可し。彼我を思惟し、自他を鯁痛す。

 [55]即ち大悲を起し、両の誓願を興す、衆生無辺誓願度、煩悩無数誓願断なり。衆生は虚空の如しと雖も、空の如きの衆生を度せんと誓ひ、煩悩に所有無しと知ると雖も、所有無きの煩悩を断ぜんと誓ふなり。衆生の数は甚だ多なりと知ると雖も、而も甚多の衆生を度せん、煩悩に辺底無しと知ると雖も、而も無辺底の煩悩を断ぜん。衆生の如は仏の如の如しと知ると雖も、而も仏如の如きの衆生を度せん、煩悩は実相の如しと知ると雖も、而も実相の如きの煩悩を断ぜん。何となれば、若し但苦の因を抜きて苦の果を抜かずんば、此誓は毒を雑ふ、故に須らく空を観ずべし。若し、偏に空を観ずるときは、則ち衆生の度すべきを見ず、是を著空者と名く、諸仏の化せざる所なり。若し偏に衆生の度す可きを見るは、即ち愛見の大悲に堕す、解脱の逧に非ざるなり云云。今は則ち毒に非ず偽に非ず、故に名けて真と為す。空辺に非ず有辺に非ず、故に名けて正と為す。鳥の空を飛びて終に空に住せず、空に住せずと雖も、跡諄ぬ可からざるが如し。空と雖も而も度す、度すと雖も而も空なり。是故に誓つて虚空と共に鬪ふと名く、故に真正発菩提心と名く。即ち此意なり。

 [56]又、不可思議の心、一楽心一切楽心を識る。我及び衆生、昔、楽を求むと雖も、楽の因を知らず、瓦礫を執つて如意珠と謂ひ、妄に螢光を指して呼んで日月と為すが如し。今方に始めて解す、故に大慈を起し、両の誓願を興す、謂はく、法門無量誓願知、無上仏道誓願成なり。法門は永寂にして空の如しと知ると雖も、永寂を修行せんことを誓願す。菩提は所有無しと知ると雖も、所有無きの中、吾故に之を求む。法門は空の所有無きが如しと知ると雖も、昼繢して虚空を荘厳せんことを誓願す。仏道は成、所成に非ざることを知ると雖も、虚空の中に樹を植えて 華果を得しむるが如し。法門及び仏果は、修に非ず不修に非ずと知ると雖も、証に非ず得に非ず、証得する所無きを以て、而も証し而も得。是を偽に非ず毒に非ず、名けて真と為し、空に非ず見愛に非ず名けて正と為すと名くるなり。

 [57]此の如きの慈悲誓願と不可思議の境智とは、前に非ず後に非ず同時に倶に起る。慈悲は即ち智慧、智慧は即ち慈悲、無縁無念にして普ねく一切に覆ひ、任運に苦を抜き、自然に楽を与ふ。毒害に同じからず、但空に同じからず、愛見に同じからず。是を真正発心菩提の義と名く、自ら己を悲しみ、衆生を悲しむの義、皆上に説けるが如し。観心は解す可し。

 [58]三に善巧安心とは、善く止観を以て法性を安んずるなり。上に深く不思議境の淵奥微密なるに達し、博く慈悲を運んで亘蓋すること此のごとし。須らく行じて願を填つべし、行は即ち止観なり。無明癡惑も本是れ法性、癡迷を以ての故に、法性変じて無明と作り、諸の顛倒善不善等を起すなり。塞の来つて水を結び、変じて堅氷と作すが如く、又、眠の来つて心を変じ、種種の夢有るが如し。今当に諸の顛倒は即ち是れ法性なり、一ならず異ならずと体すべし。顛倒起滅すと雖も旋火輪の如し、顛倒起滅を信ぜず、唯此心は但是れ法性なりと信ず。起は是れ法性の起、滅は是れ法性の滅、其を体すれば実に起滅せざるに、妄りに起滅すと謂ふ。秖妄想恥指すに悉く是れ法性、法性を以て法性に繋け、法性を以て法性を念ず、常に是れ法性なり、法性ならざるの時なし。体達既に成ずれば妄想を得ず、亦法性を得す、源に還り本に返り、法界倶に寂なり、是を名けて止と為す、此の如く止する時、上来の一切の流動皆止む。観とは、無明の心は上は法性に等しく本来皆空、下は一切の妄想善悪に等しくして皆虚空の如く、二無く別無しと観察するなり。譬へば劫の尽るときは、地従りして上は初禅に至り、炎炎として是れ火に非ざること無きが如く、又虚空蔵菩薩の所現の相は一切皆空なるが如く、海慧の初めて来つて現ずる所は一切皆水なるが如し。介爾の念起るに、所念の念は即空ならずといふこと無く、空も亦不可得なり。火を前むるに木の能く薪を然えしめ、亦復自ら然ゆるが如し。法界洞朗として咸く皆大いに明かなり、之を名けて観と為す。止は秖是れ智、智は秖是れ止なり。不動止は秖是れ不動智、不動智は秖是れ不動止なり。不動智は法性を照す、即ち是れ観智にして安を得、亦是れ止安なり、不動は法性に於て相応ず、即ち是れ止安にして、亦是れ観安なり、二無く別無し。

 [59]若し倶に安を得ずんば、当に復云何がすべき。未れ心神冥昧にして椶利悦倆たり、汨かに起り汨かに滅し、執持す可きこと難し、倏ち去り倏ち来りて関禁し易からず、復之を止すと雖も馳すること颶炎より疾し、復之を観ずと雖も闇きこと漆墨に逾えたり、功を加ふること苦至なるも散惑倍隆んなり。敵は強く力弱く、鷸蚌相扼む、既に進むことを得ず、又退く可からず。当に命に殉ひ道を奉じ、薦るに肌骨を以てし、誓つて巧みに心を安んじ、方便廻転して相応ずることを得、観行の位を成ぜしむべし。

 [60]安心を両つと為す、一には教他、二には自行なり。教他を又両と為す、一には聖師、二には凡師なり。聖師は慧眼の力ありて法薬に明かに、法限の力ありて病障を識り、化道の力ありて、病に応じ薬を授け服行することを得しむ。麹多、弟子応に信を以て悟るべしと知つて樹に上らしめ、応に食を以て悟るべきには乳酪を服せしめ、応に呵責を以て悟るべきには化して女像と為り、一一開暁して毫差も有ること無し、時を待たず、時を過さず、言発すれば即ち悟るが如し。仏の世を去りたまうて後、是の如きの師は甚だ得ることを難しと為す。盲亀何に由つてか上つて乳孔に値はん、墜芥豈下つて針鋒に貰くことを得んや、難し難し云云。二には凡師、三力無しと雖も亦化を施すことを得。譬へば良医の精しく薬病を別ち、色を解し声を解し脈を解し、薬を逗ずるに即ち瘥ゆ、命の尽くること有る者は亦死を起すこと能はず。辰を解せざるは、医、病相を問ひ、語に依つて方を作すに亦挑脱して瘥ゆることを得るがごとし。身于の聖徳も亦復機を差ふ、凡未の具縛も病の導師と称するをや。今、聖師を論ぜず、正しく凡師が他に教ふるの安心を説くなり。

 [61]他に二種あり、一には信行、二には法行なり。「薩婆多」に明す、「此二人の位は見道に在り。聞に因つて入る者、是を信行と為し、思に因つて入る者、是を法行と為す」と。「曇無徳」に云はく、「位は方便に在り、自ら法を見ること少く、円の力に憑ること多きは、後時要ず法を聞きて悟ることを得べし、名けて信行と為すなり。聞の力に慂ること少く、自ら法を見ること多きは、後時要ず思惟して悟ることを得べし、名けて法行と為すなり」と。若し見道の中、無相の心利ならば、一たび発するに即ち真なり、那ぞ信法の別を判ずることを得んや。然るに数は行成に據り、論は根性に據る、各所以あり、相非することを得ず。今師は遠く源由を討ぬ、久劫に聴学し久劫に坐禅するを信法の種子と為すことを得。世世に熏習すれば則ち根性を成じ、各聞思に於て開悟するのみ。若し根の利鈍を論ずれば、法行は利なり、内に自ら法を観ずるが故に。信行は鈍なり、他に藉りて聞くが故に。又信行は利なり、一たび聞きて即ち悟るが故に。法行は鈍なり、法に歴て観察するが故に。或は倶に利、倶に鈍、信行の人は聞慧利にして修慧鈍なり、法行の人は修慧利にして聞慧鈍なり。

 [62]已に前人根性の利鈍を説き竟る、何をか心を安んずると云ふや。師、応に問うて言ふべし、「汝、定慧に於て何等をか志すと為さんや」と。其人若し「我仏の説を聞くに、善知識は月の形光の漸漸に円著なるが如く、又、梯嶝の漸漸に増高きが如し、巧に説きて人の心を転ず、得道の全因縁なりと。志し欣んで渇故す、犢の母を逐ふが如し」と言はば、当に知るべし是れ則ち信行の人なり。若し、「我仏説を聞けり。明鏡は体若し動かざれば色像分明なり、浄水に波無ければ魚石自から現ずと。欣んで悪覚を捨つること重擔を棄つるが如し」と言はば、当に知るべし是れ則ち法行の人なり。

 [63]既に根性を知る、 一人の所に於て八番に心を安んず。咄し善男子、無量劫より来狂散の毒を故み、五塵に馳逞、三界に升況すること。猴猛臓の兜羅 (きん)を吹き、大熱の沸鑊に豆を煮るに升況するが如し。苦従り悩に至り、悩従り苦に至る、何ぞ心を息めて本に達し、以て其意を一にせざる。意若し一ならば何の事か弁ぜざらん。苦集も一を得れば則ち輪廻せず、無明も一を得れば行に至らず、乃至、老死に至らず、大樹を摧折して故きを畢へ新らしきを造らず。六蔽、一を得れば則ち彼岸に度る、唯此を快しと為す。善巧の方便の種種因縁、種種の譬喩、広く止を讚し其情を発悦す、是を楽欲に随つて止を以て心を安んずと名くるなり。

 [64]又善男子、天、亢旱すなば河池悉く乾き、万卉焦枯し、百穀零落す、娑伽羅竜王、七日雲を構へて四方に雨を注げば、大地霑洽して一切の種子皆萌芽し、一切の根株皆開発し、一切の杖葉皆蔚茂し、一切の華果皆敷榮するが如し。人も亦是の如し、散逸を以ての故に応に生ずべきの善復生ぜず、已生の善も還つて退失す、禅定の河乾き、道品の樹滅す、万善焦枯し、百福殘悴す、因華道巣復成熟せず。若し能く閑林に意を一にして内に出でず、外に入らざるは静雲の興るなり、諸の禅定を発するは即ち是れ雨を降らすなり、功徳の叢林、暖頂の方便、眼智明覚、信忍順悪、無生寂滅、乃至、無上菩提、悪く皆克獲す。善巧の方便、種種の縁喩、広く止を讚し其善根を生ず、是を随便宜に止を以て心安んずと名くるなり。

 [65]又。善男子、未れ散心は悪の中の悪なり、鉤無き醉象の華池を踏壊し、穴鼻の駱駝の負駄を飜倒するが如し。掣電よりも疾く、毒は蛇舌に逾えたり。重沓せる五翳、曜靈を挨靄す、睫の近き霄の遠き倶に皆見ず。若し能く定を修すれば密室中の灯の能く亘闇を破するが如し。金錍をもつて膜を把るに空色朗然たり、一指二指三指皆了かなり。大雨は能く囂塵を淹し、大定は能く狂逸を静む、止は能く散を破し虚妄滅す。善巧の方便、種種の縁喩、広く止を讃し其睡散を破す、是を対治に止を以て心を安んずと名くるなり。

 [66]又、善男子、心若し定に在れば能く世間生滅の法相を知り、亦出世不生不滅の法相を知る。如来も道を成じて猶尚定を楽ふ、況んや諸の凡未をや。禅定有る奢は夜電光を見て即ち道を見ることを得るが如し、無数億憫然の悪を破し、乃至、一切種智を成ずることを得。善巧の方便、種種の縁喩、広く止を譛し即ち真如に会す、是を随第一義に止を以て心を安んずと名くるなり。

 [67]其人若し「我、寂滅を聞くに都て壊に入らず、若し分別を聞かば聴受して厭ふこと無し」と言はば、即ち応に為に、「三悪焼然、駝驢の重楚、餓鬼の飢渇も名けて苦と為さず。癡闇無聞にして方隅を識らず、乃ち是れ大苦なり。多聞分別の楽、見法法喜の楽、善を以て悪を攻むるの楽、無著の阿羅漢、是を名けて最楽と為す」と説くべし。多聞の人に従つて甘露の楽を聞き、教の如く観察して道非道を知り、坑坎を遠離して直ちに去つて廻らず。善巧の方便、種種の縁喩、広く観を讃し其情を発悦す。是を随楽欲に観を以て心を安んずと名く。又善男子、月は運華を開き日は作務を興す。商は応に主に随ふべく。彩昼は謬を須ふ、坯は火に邁はずんば須臾の用無し、盲は導きを得ざれば一歩も前まず、行に観智無きも亦復是の如し、一切種智は観を以て根本と為し、無量功徳の荘厳する所なり。善巧の方便、種種の縁喩、広く観を讃し其功徳を生ず、是を随便宜に観を以て心を安んずと名く。

 [68]又善男子、智者は怨を識りて怨害すること能はず、武将は謀ありて能く強敵を破る。風に非ずんば何を以てか雲を巻かん、雲に非ずんば何を以てか熱を遮らん、水に非ずんば何を以てか火を滅せん、火に非ずんば何を以てか闇を除かん、薪を析るの斧、縛を解するの刀、豈智慧に過ぎんや。善巧の方便、種種の縁喩、広く観を讃し其をして悪を破せしむ、是を対治に観を以て心を安んずと名くるなり。

 [69]又善男子、井中の七宝、闇室の瓶盆は娶ず日の明くるを待つ、日既に出で已れば皆明了なることを得。須く智慧の眼をもつて諸法の実を観知すべし、一切諸法の中、皆等観を以て入る。般若波羅蜜最も照明と為す。善巧の方便、種種の縁喩、広く観を讃し悟解することを得しむ、是を第一義に観を以て心を安んずと名く。

 [70]是の如くの八番、信行の人の為に安心を説くなり。

 [71]其人若し「我息心を楽ふに、黙し已つて復黙し、之を損して又之を損し、遂に無為に至る、分別を楽はず、坐馳するは益無し」と云はば、此れ則ち法行の根性なり。営に為に止を説くべし、「汝、外に尋ぬること勿れ、但内に一を守れ、攀覚流動は皆妄より生ず、旋火輪も手を輟むれば則ち息み、洪波の鼓怒するも風静まれば則ち澄むが如し」と。「浮名」に云はく、「何をか攀縁と謂ふや、三界を縁ずるを謂ふ、何をか攀縁を息むと謂ふや、心、所得無きを謂ふ」と。「瑞応」に云はく、「其れ一心を得る者は則ち万邪滅す矣」と。竜樹の云はく、「実法は顛倒ならず、念想の観已に除く、言語の法皆滅し、無量の衆罪除こる、清浄の心常に一なり」と。是の如き尊妙の人は則ち能く般若を見る、未れ山中の幽寂なるは神仙の譛ふる所なり、況んや涅槃の澄浄、賢聖の尊崇したまふをや。「仏話経」に云はく、「比丘、聚に在りて身口精勤するは、諸仏咸く憂ふ。比丘、山に在りて事を息めて安臥するは諸仏皆喜びたまふ」と。況んや復結跏し、手を束ねて唇を緘み、舌を結びて実相を思惟し、心源一たび止つて法界同じく寂たり、豈要道に非ずや、唯此を貴しと為す、余は及ぶこと能はず。善巧の方便、種種の因縁、種種の譬喩、広く止を譛し其心を発悦す、是を楽欲に随つて止を以て心を安ずと名く。

 [72]其人若し「我れ法相を観ずるに、秖紛動を増し、善法用かならや」と云はば、当に為に止を説くべし。止は是れ法界、平正の良田なり、何れの法か備はらざらん。止は攣縁を捨す、即ち是れ檀。止の体は悪に非ず、即ち是れ戒。止の体は動ぜず、即ち是れ忍。止は間雑すること無し、即ち是れ精進。止は則ち決定なり。即ち是れ禅、止法も亦無く止者も亦無し、即ち是れ慧。止に因つて非止、非不止に会す、即ち是れ方便。一止一切止なり、即ち是れ願。止は愛を止し、止は見を止す、即ち是れ力。此の止は仏止の如く、二無く別無し、即ち是れ智。止は一切の法を具す、即ち是れ祕蔵。但止に安んず、何を用てか別に諸法を修せんや。善巧の方便、種種の縁嗔、善根を生ぜしむ、即ち是れ随便宜に止を以て心を安んずるなり。

 [73]若し「我れ法相を観ずるに散睡除かず」と言はば、当に為に、止に大いに功能有ることを説くべし。止は是れ壁定、八風、悪覚の入ること能はざる所なり。止は是れ浄水、貪婬の八倒を蕩かすこと、猶し朝露の陽を見れば則ち晞くが如し。止は是れ大慈、怨親倶に愍み、能く恚怒を破す。止は是れ大明咒、癡疑皆遺る。止は即ち是れ仏なり、障道を破除ず。阿伽陀薬の遍く一切を治するが如く、妙良医の枯を咒し、死を起すが如し。善巧の方便、種種の縁喩、其をして悪を破せしむ、是を対治に止を以て心を安んずと名く。

 [74]共人若し「我れ観察する時、開悟することを得ず」と言はば、当に為に止を説くべし。止は即ち体真なり、照にして而も常に寂、止は即ち随縁なり、寂にして而も当に照、止は即ち不止止なり、雙べ遮し雙べ照らす、止は即ち仏母なり、止は即ち仏父なり、亦即ち父即ち母なり、止は即ち仏の師なり、仏の身なり、仏の眼なり、仏の相好なり、仏の蔵なり、仏の住処なり、何ぞ具せざる所あらん、何ぞ除かざる所あらんや。善巧の方便、種種の縁喩、広く止を讚す、是を第一義に止を以て心を安んずと為す。

 [75]彼人若し、「止の状は況寂なり、我悦楽ずるところに非ず」と言はば、当に為に観を説くべし。道理を推尋するに、七覚の中に択覚分あり、八正の中に正見あり、六度の中に般若あり、法門の中に於て主為り導為り、乃至、成仏、正覚、大覚、遍覚、皆是れ観慧の異名なり、当に知るべし、観慧を最も尊妙なりと為す。是の如く広く讃す、是を随楽欲に観を以て心を安んずと為す。若し、観を勤修すれば能く、信、戒、定、慧、解脱、解脱知見を生じ、病を知り、薬を識り、化道大いに行はる、衆善普く会すること、復観に過ぐるもの莫し。是を随便宜に観を以て心を安んずと為す。

 [76]観は能く闇を破し、能く道を照し、能く怨を除き、能く宝を得、邪山を傾け愛海を竭す、皆観の力なり。是を随対治に観を以て心を安んずと為す。観は法を観ずる時、能所を得ず、心応虚豁にして、朦朧として開けんと欲すれば、但当に観を勤めて開示悟入すべし。是を第一義を用て、観を以て心を安んずと為す。

 [77]是を八番に法行の人の為に安心を説くと為すなり。

[78]復次に、人根は不定、或は時に廻転す。「薩婆多」は、鈍を転じて利と為すと明し。「成論」は、数習へば則ち利なりと明す。此れ乃ち始終に利鈍を論ず、一時に弁ずることを得ざるなり。今明す、衆生の心行は不定なり、或は須臾にして而も鈍、須臾にして而も利なり、任運自爾なり、棍転に関はるに非ず、亦数習ならず。或は観を作すに徹せず、聴に因つて即ち悟る。或は久しく聴きて解せず、暫らく思ひて即ち決す。是故に更に転根の安心を論ず。若し法行転じて信行と為れば其根棒に逐ひ、八番の悉檀を用ひて安心を授く。若し、信行転じて法行と成れば、亦棍転に逐ひ、八番の悉檀を用て而も安心を授く。此意を得れば広略自在に之を詭く。転、不転、合して三十二の安心有るなり。

 [79]自行の安心とは、当に此心を観察すべし、何の楽ふ所をか欲する。若し妄を息めて念想をして寂然ならしめんと欲せば、是れ法行を楽ふなり。若し聴聞して無明の底に徹せんと楽はば、是れ信行を楽ふなり。寂を楽ふ者は、妄は心従り出づと知る、心を息むれば則ち衆妄皆静なり。若し照知せんと欲せば、須らく心源を知るべし、心源不二なれば則ち一切の諸法皆虚空に同じ、是を楽欲に随ふ自行の安心と為す。其心広く心及び諸法を分別すと雖も、而も信念、精進、毫善も生ぜずんば、即ち当に凝停して動ずること莫かるべし。諸善功徳は静に因つて而も生ず。若し凝停する時、運更に況寂にして都て進、忍無くんば当に校計籌量し之を策うつて起らしむべし。若し念念住せず、汗馬の奔逸するが如くならば、即ち当に止を以て馳蕩を対治すべし。若し静黙無記にして睡と相応せば、即ち当に観を修して諸の昏塞を破すべし。止を修すること既に久しくして開発すること能はずんば、即ち応に観を修すべし。一切の法を観ずるに、礙り無く、異り無し怙怙明利にして漸く覚すること空の如し。観を修すること若し久しくして闇障除かずんば、宣しく更に止を修すべし、諸の縁念を止するに、能無く所無く、所我皆寂にして空慧将に生ぜんとす。是を自ら法行の八番を修し、善巧に布厝して心の安きを得しむと為す云云。

 [80]信行の安心とは、或は寂定は須弥の八動を畏れざるか如きものなることを聞かんと欲せば、即ち応に止を聴くべし。利観は諸の煩悩を破すること日の闇を除くが如きものなることを聞かんと欲せば、即ち応に観を聴くべし。観を聴くこと。多く久しくして、日の芽を焦すが如くならば、即ち応に止を聴きて、潤すに定水を以てすべし。或は定を聴くこと俺久にして芽の爛れて生ぜざるが如くんば、即ち応に観を聴きて、風日をして発動せしめ、善法をして現前せしむべし。或は時に馳覚して一念住し叵くんば、即ち応に止を聴きて以て散心を治むべし。或は況昏濛濛として霧に坐せば、即ち応に観を聴きて此陲熟を破すべし。或は止を聴きて豁豁たらば、即ち専ら止を聴け、或は観を聞きて朗朗たらば、即ち専ら観を聴け、是を賁ら信行の八番を修して巧みに安心すと為すなり。

 [81]若し法行の心転じて信行と為り、信行の心転じて法行と為らば、皆其宣しき所に随つて巧みに之を鑚研せよ。

 [82]自行に三十二有り、化他にも亦三十二有り、合して六十四の安心と為るなり。

 [83]復次に信法孤り立たず、須らく聞思相資くべし。法行の者の如き、一句を聞くに随つて寂を体すること湛然、夢妄皆遣る、還つて坐して思惟し心に歓喜を生ず。又止を聞き已つて還つて更に思惟して即ち禅定を生ず。又は止を聞きて還つて即ち思惟して妄念皆破す。又、止を聞き已つて還つて更に思惟して朗然として悟らんと欲す。又、観を聞き已つて還つて更に思惟して心に大いに歓喜す。又観を聞き已つて還つて更に思惟して善を生じ、悪を破し、悟らんと欲す、等、前に準じて知んぬべし。此れ乃ち聴少く思多きを名けて法行と為す、都て法を聴かざるには非ざるなり。信行端坐して寂滅を思惟するに欣踊未だ生ぜず、起ち已つて止を聞きて観喜甘楽す。端坐して善を念ずるに、善発する能はず、起ち已って止を聞きて信、戒、精進倍更に増多なり。端坐して悪を治するに、悪、遣ること能はず、起ち已つて止を聞きて散動破滅す。端坐して真に即するに真道啓けず、起ち已って止を聞きて豁如として寂を悟る。是を信行の坐少なく聞多しと為す、都て思惟せざるには非ず。前に一向の根性を作り、今は相資の根性を作る、相資の中に就いて復転不転を論ず、亦三十二の安心有り、化他の相資にも交三十二の安心有り、合して六十四、前に合して一百二十八の安心と為すなり。

 [84]未れ心地は安んじ難し、違すれば苦しみ、順ずれば楽しむ、其願ふ所に随つて逐って而して之を安んず。譬へば生を養ふに或は故し或は食して身に適して命を立つるが如し。法身を養ふも亦爾り、止を以て故と為し、観を以て食と為す、薬法も亦爾り、或は丸或は散、以て冷熱を除く。無明の病を治するに止を以て丸と為し、観を以て散と為す。陰陽の法の如き、陽は則ち風月、陰は則ち雲雨、雨多ければ則ち爛れ、日多ければ則ち焦る、陰は定の如く、陽は慧の如し、慧定偏なる者は皆仏性を見ず。八番の調和、貴ぶこと意を得るに在り。

 [85]一重の禅師は観を作すことを許さず、唯専ら止を用ふ、偈を引きて云はく、「思ひ思ひて徒らに自ら思ふ、思ひ思ひて徒らに自ら苦しむ、思ひを息むれば即ち是れ道、思ひ有らば終に観ず」と。又、一の禅師は止を作すことを許さず、専ら観に在り、偈を引きて云はく、「止め止めて徒らに自ら止む、昏闇にして所以無し、止を止むるは即ち是れ道なり、観を観ずれば理に会することを得」と。両師は各一門従りして而して入り、己が益を以て他に教ふ、学ぶ者則ち意を見ず、一向に乳を服す、漿も猶得ること難し、況んや復醍醐をや、若し一向に解を作さば、仏、何んが故ぞ種種に説きたまふや、天は常に晴れず、医は散を専らにせず、食は恒に飯ならず、世間も尚爾らずや、況んや出世をや。今、根に随ひ病に随ひて廻転し、自行化他に六十四有り。

 [86]若し三番の止観に就かば則ち三百八十四あり。又、一心の止観に復六十四有り、合して五百一十二あり。三恚檀は是れ世間の安心、世医の治する所なり、差え已つて復生ず、一悉檀は是れ出世の安心、如来の治する所なり、畢竟して発せず、世、出世の法、互に相成顕す。若し三諦を離れては安心の処無し、若し止観を離れては安心の法無し。若し心、諦に安んずれば一句に即ち足る、如し其れ安んぜざれば巧みに方便を用ひて心をして安んすることを得しめよ。一目の羅はよく鳥を得ること能はざるも、鳥を得る者は稙の一目のみ。衆生の心行は各同じからず、或は多人にして同一の心行、或は一人にして多種の心行、一人の為にするが如く衆多も亦然り、多人の為にするが如く一人も亦然り、須らく広く法網の目を施して心行の鳥を捕ふべきのみ。