[1]勝知見とは、此心は色に勝れ、色の為に縛せられず、心、能く色を転ずるが故に勝知と言ふなり、勝見とは、浄、不浄等皆己が心に於て自在にして観解成就するが故に勝見と言ふなり。此両は二禅の摂なり。若し勝処成ずる時は身尚ほ惜まず、沈んや財物他身をや。上古の賢人は位を推り国を譲り、牛を還し耳を洗ふ、皆是れ昔生経で此観を修し、自然に性を成じ、復愛染すること無きなり。此の意を得ざれば之を貪りて死に至る、何ぞ能く栄を忽にし位を棄てんや。後の四勝処は四禅の中に在りて成就す、三禅は楽多くして転変すること能はず。声聞の法に就て謂はば言ふこと此の如し、菩薩の法に於ては禅禅転変す、何ぞ無きことを得んや。「大論」に「青、黄、赤、白」と云ふは此れ実法に従ふなり「瓔珞」に「地、水、火、風」と云ふは此れ仮名に従ふなり、互に相摂することを得。此四の勝処は内外の色尽きて但八色のみ有り、唯多少の転変有りて好醜の転変有ること無きなり。
[2]十一切処は四禅の中に在り、初禅は覚観多く、二禅は喜動し、三禅は楽動ず、広く普く一切処に遍ずることを得ず、唯不動念慧則ち能く広く普し。青を以て十方に遍ずるに、十方皆青し、飴色も亦爾り、故に一切処と名く。若し一切入とは、青を以て一切に遍ずる時、黄来つて青に入り。亦一切処に遍ず、青黄の本相失せずして相入り又相濫せず。飴色の相の入ることも亦是の如し、是を一切入と名く。此れ乃ち内心より色を放つて一切処に遍ず、那ぞ外の樹葉を以て縁と為し一切処に遍ずることを得んや、内心に法無くば安ぞ能く外の樹葉を転変せんや、先に能く心を変じて方に能く葉を変ずるのみ。「大論」に優鉢羅華を取るは、人の解せざらんことを恐れて外を借りて内を喩へしなり、喩を執して正義と為すべからず。若し通明観は内に骨人無し、八色を放たず、勝処を修する時当に外縁を借るべきも或は応に爾るべし、不壊法の人は内に自ら放つ、外を須ひざるなり
[3]復次に菩薩は勝処を修して衆行を具するとは、若し依正に達せずんば貪樫を起すべし、此観若し明かなれば身も尚ほ捨てんと欲す、沈んや己の物を惜んで而して他の財を貪らんや。是れ則ち檀と名く。此の如きの観を得れば財色の為に而も戒を破せず彼財主を害して物を引きて自ら帰し、欺詐百端にして而して仝済を求むる、決して此理無し、是れ則ち尸と名く。此観を得る時、若し他触悩し、及以侵奪すれども、絡に瞋を生じ糞穢を諍はず、是れ則ち忍と名く。是観の成ずる時、不浄の屍身、不浄の国土に倚つて定心を間退せず、是れ精進と名く。此観の能く、観、練、熏、修、神通変化、願知頂等を具する、是れ則ち禅と名く。此観を得るの時、一切法の能所皆不可得にして不生不滅畢竟清浄なり、是れ則ち慧と名く。一切の道定法門、皆勝処に於て転変成就す、心定自在にして廻転去住す。諸の法門を作すに心に随つて即ち成ず、快馬は陣を破し亦自ら制住するが如し。是時明浄にして復魔事無し、心は魔を使ひ、魔も心を破すること能はざるなり。四三昧を行ずるの人、若し此法を発得すれば多く転じて五品弟子の位に入る。何が故ぞ爾るや。助道の力大にして能く疾く清凉池に近づけばなり。此に斉つて是れ観禅を発す、亦是れ摩訶衍禅を発するの相なり。若し練、熏、修は凡未は尚学することを得ざれば発の論ずべき無し、若し別は経論に出づ故に言ふことを俟たざるなり。
[4]七に慈心の発するを明さば、慈は根本の前後に倚る云云。忽ち一切衆生を縁じて其楽の相を取る、怨無く悩無く、心を悦ばして意に適ふ。或は人中の楽を得るを見、或は天上の楽を得るを見、善く修して解を得れば定心分明にして、一として衆生の楽を得ざる者無し。初は躡々として細静に、後には転た深定なり。但し所縁に三有り、若し親人を縁じて楽を得しむるを広と名け、中人を大と名け、怨人を無量と名く。又一方の衆生を縁じて楽を得しむるを広と名け、四維を大と名け、十方を無量と名く。此定に隠沒、不隠沒有り。若し心に衆生を縁ずること決定して得楽の想を作し、心、甚だ分明なれども、而も所縁の処に衆生の楽を受くること得るを見ざるは、是れ内に不隠沒にして而して外に隠沒す。復内心明浄にして外に楽を得るを見ること有るは、是を内外倶の不隠沒と為す。若し先に此定を得て後に五支の功徳を発する者は、初め衆生悉く皆楽を得ることを覚し、心と定と合して自心も亦楽しむ、善く修して解を得るを覚支と名く、得楽を分別するに或は人中、天上、無量の差品皆悉く明了なるを観支と名く、怨親平等にして復怨を畏れ親を憂ふるの苦無きを喜支と名く、喜支動息して心神愉懌し、亦所縁得楽の相の如くなるを楽支と名く、定法転た深くして心を持して動ぜざるを一心支と名く。此名は根本に同じくして而も法味は永く異り、糖蜜を水に和するに、冷なること同けれども味は別なるが如し。若し単の根本を発するは、報は止梵衆梵輔なるのみ、若し慈定を得れば則ち報は梵王と為る、其果既に勝る、因も亦大なり矣。若し先に根本を得、後に慈定を加ふれば根本益深し。
[5]又慈定の中に於て二禅を発し、内浄の四支成就す。又三禅を発して楽と倶なる五支成就す。又四禅を発して一一諸禅と相応し、支林具足して而して法味倍増す、前に喩ふるが如し。但慈心は本他の得楽を縁ず、内に楽定を受け外に他の楽を見る、此相は三禅に斉るなり。四禅は但他の得楽を見るのみにして内に楽受無し、苦楽を捨つるを以ての故なり。是は小乗の為に此の如く分別す。仏、或時、執を破し、縁の為に言はく、「慈心の福は遍浄に至り、悲心の福は空処に至り、喜心の福は識処に至り捨心の福は不用処に至る」と。但菩薩は恆に慈悲と倶なり、何の地にか而も慈悲無けん、慈悲は一切の善に熏ず、豈止三禅に斉らんや、此れ一往の語なるのみ。若し先に根本を発し、後に慈定を発するは亦是の如し。然れども皆闇証隠沒なり、或は内に不隠沒にして而して外に隠沒す云云。
[6]若し特勝、通明に依て慈定を発せば、所依の定は自ら是れ一辺、能依の慈の附起すること濫せず、此定既に観慧有れば慈定も亦隠沒せず、五支の法味倍根本より勝る。或は慈定に依て而して特勝、通明を発す。此慈定も亦不隠沒なり、禅味亦深し。
[7]或は慈定に因て小大の不浄を発す。不浄は衆生破壊の相を取れば則ち衆生の縁ず可きもの無し、誰か此楽を得ん。衆生の有漏の中の楽無しと雖も而も涅槃の楽有り、是れ法縁の慈を発するなり。問ふ、「慈は衆生の浄相を縁じて瞋悩無く、其好相を取る、不浄は破壊の衆生を観じて其悪相を取る、云何が相発せん」。答ふ、「此れ亦妨げ無し、不浄を見ると雖も又浄人端正の衣裳を見ることを妨げざるか如し。慈定を生ずと雖も不浄を妨げず、慈定も亦能く背捨等を荘厳して功徳をして倍深からしむ、単に不浄を発するより勝れたり」或は互に相発す云云。余の三の無量心の発することの更互なること、慈定に準じて知んぬ可し。
[8]若し四無量が根本に附して発するに、即ち有漏を成ず。特勝通明に附して発するは即ち亦有漏亦無漏を成ず。不浄に附して発するは即ち無漏を成ず。因縁不同なれば慈定等に深浅あること百千万種、称説すべからず。譬へば欲界の四大色、種種の地を造るに、青、黄、赤、白、高下不同なり、種種の樹木草果を造るに、甘、苦、辛、酸、薬、毒、香、臭あり、種種の人を造るに、端、醜、聡、鈍、貪、富、善、悪有り、種種の禽獣を造るに、毛、角、飛、走あり、無辺の種類、差品混ぜず、各性分に随ひ、力の能ふ所に任ずるが如し。薄福の人は但稗粟を資り、甘蔗蒲桃有ることを信ぜざるが如し。色界の浄法も亦復是の如し、支林の種種の滋味を転変して更に相添糅し而も混和せず。乃至四妲量心、弥復曠大なり。何を以ての故ぞ。衆生無量なるが故に其得楽を想ふことも亦復無量なり、諸法無量なれば諸法に附して発するの支味も亦無量にして、称計すべからざればなり。衆生薄福にして禅定を信ぜず、設ひ一法を信ずるも、無量の功徳を信ぜず。山左は珍羞を識らず、井蛙の海若を非するが如し、甚だ憐愍すべし。其能く信ずる者は聖境の思ひ難きを知りて誹謗を生ぜず云云。
[9]八に因縁の発を明さば、行人大なる功勳有らば、諸仏賜ふに禅定三昧を以てしたまふ、或は過去の宿習あつて而て因縁定の発すること前後あり云云。坐の中に於て忽然として思惟す、心所縁の処、或は善心を縁じ或は悪心を縁ず、能縁所縁即ち是れ有支、有は能く果を含む、此有は取に由る、心の善悪を取るを以て而して有有ることを得、若し取らずんば亦此有無し。故に知んぬ、有を取従り生ずと、復知んぬ、取は愛より起ると。愛の故に取る可し、色を愛して死するまで取る、愛せざれば則ち取らざるか如し。愛は受に因て生ず、善悪を領受するに由ての所以に愛生ず、若し領受無くんば愛則ち生ぜず。又愛は触に由ると観ず、六塵来つて六根に触る、故に受有ることを得る、触無くんば則ち受無し。「経」に云はく「六触の因縁は諸受を生ず」と。故に受は触に由る。又触は諸の入門に由ると知る、若は六識の六根を統ぶること無くんば、則ち諸塵に渉大して而して触を生ずること能はず。触は人に由り、入は名色に由る。若し但色有らば、色触るること能はず、死人の如し。若し但名有らば名も亦触るること無し、盲声の人の如し。色心合するが故に則ち触有り。色は則ち色陰、心は即ち四陰なり、此色を了別するを識陰と名け、此色を領納するを受陰と名け、行が貪瞋を起すを想行の両陰と名く。五陰具足す、故に触を覚すること有り、当に知るべし、触は名色に由ることを。名色は初めて託胎するの識に由る。初めて託胎するを歌羅邏と名く、此時即ち三事を具す、一には命、二には燸、三には識なり。是中、報風依風有るを名けて命と為し、精血の臭からず爛れざるを名けて燸と為し、是中の心意を名けて識と為す。識は胎に託するに由るが故に凝酥薄酪有り、六皰開張して名色和合す、当に知るべし、名色豊識に由らざらんや。識は業行に由る。過去に五戒を持するは善業なり、業は人中にして名色を受けしむ。過去に五戒を破するは悪業なり、業は三塗にして受けしむ。故に知んぬ、識は業に由ることを。業は即ち行なり、行は無明癡愛に由て衆行を造作し、識をして流転せしむ。過去従り今に来る、今の愛取が有を縁ずる従り、有能く果を含んで未来の生死を招く。三世の因縁は、空にして主有ることなきなり。
[10]是の如きの思惟、観智起る時、人我の邪計即ち破す、定心怗怗として麤従り細に入り、欲界未到、乃至根本五支の功徳次第して而して起る。因縁は空にして主有ること無しと覚するを覚支と名く。三世の流転更に相因賴ると、明に識りて差ひ無きは観支と名く。因縁智を得て深く三世を識る。豈欣幸せざらんや、(是を)喜支と名く。定法心を持して愉愉美妙なるを楽支と名く。定心湛然として縁無く、念無きを一心支と名く。此因縁三昧は是れ慧性なり、此慧明かなるが故に即ち根本を発す。或は根本と因縁と相和す、法味淳濃にして単発の五支に同からず。此三昧にも亦隠沒不隠沒有り。若し内心に但因縁の法を解して我倒を生ぜざる者は、但根本と相応す、闇にして此解有るを名けて隠沒と為す。若し三昧の発する時、其心明浄なれば、歌羅邏五皰の開張生処住処を見る、亦行業の善悪所為の好醜を見る、亦未来生死の事を見る、三世分明なり、是を不隠沒の相と為す。此二は皆空明有り、十法成就す。是を根本が因縁に由て発すと名く。乃至、特勝、通明、背捨等の隠沒、不隠沒の因縁に由て発することも亦復是の如し。
[11]若し根本に因て因縁を発する者は、忽ち定中に於て根本の諸定は皆是れ因縁の所成なりと思惟す、所成、能成、即ち是れ有なり。此麤細住は炎魔兜率天の有を含む、生有らば必ず死有り、欲界定も亦是れ因縁の有なり、有は則ち果を含む、応に化楽天の生を受くべし、生ずれば則ち死有り、未到定も亦是れ因縁の有なり、有は則ち果を含む、応に魔天の有を受くべし、初禅相応するは即ち彼有を含む。乃至、非想非非想も亦是の如し。是の如き等の有は皆取に由る、初禅の相を取ること前の二十五方便の中の如し、種種希望して其相貌を取る。故に知んぬ、有は取に由る、取は又愛に由ることを。人の初禅の功徳を説くを聞きて而して愛味を生ずるを以てなり。又知んぬ、此愛は受に由ると。彼功徳を聞きて而して之を領受し、而も愛を起すを以てなり。又知る、此受は人に由ることを。入は即ち是れ根なり、根入無くんば受くる所無し。受は又触に由る、塵触するが故に入有り。触は名色に由る、五陰合するが故に触有り。名色は初の識の三事に由る、三事は業に由て而して来り身を受く。業は無明に由て有ることを致し、識乃至老死を生ず。上非想に至り、下は麤住に至るまで、皆十二因縁を識ること一一明了なり。乃至、特勝、通明等の根本に因て発することも例して知る可し云云。
[12]此観既に我倒を破す、界方便の我を破すると意同じ、但「禅経」に依て一因縁三昧の名を受くるのみ。三世推尋するに是れ慧性なりと雖も猶ほ停心と名く、心停住することを得、密室の風無きが如くにして念処観を為すべきなり。念処観の成ずるを方に聞慧と名く、聞慧は乃ち是れ理観なり。富那の領解に云ふか如し、「我已に解し已に知る、汝何が知るや、若し無明を知らば取有を起さず」と。即ち聞慧の意なり。此因縁観は念処の前に在り、未だ是力有らず、故に事観に属するなり。此因縁の門は機に随つて同からず、「瓔珞」には十種を明し、「大集」には果報一念を明す、諸師は多く三世を伝ふ。
[13]竜枷は「中論」を作つて初に因縁品を明す、論師は「法を摂すること尽さず」と謂ひ、因縁を以て宗と為さず、但是れ世諦、因縁を破し尽すは是れ真諦なり、故に二諦を以て宗と為す。今言はく、何の品か世諦而も皆破し尽すに非ざらん、此れ乃ち通途にして別の意に非ざるなり。論の初に通じて因縁を観ず次に染染品等は別して愛取支を破す、六情品は別して苦支を破す、乃至、後の両品は別して声聞の因縁を観ずることを出す、通別等の意、皆因縁を観ずるなり、豈、因縁を以て宗と為ざらんや。北師は後の品の中の救の義を取つて、六因、四縁を宗と為す、此れ乃ち是れ生滅の因縁なり、後の両品の意は論の正宗に非ず。仏、世を去つて後、人根転た鈍に、因縁の決定の相に取著して仏意を解せず、故に此論を作つて十二因縁の観門を明したるなり。今既に因縁の法を発す、故に之に約して止観を明すに例して十意と為す云云。
[14]思議の境とは、過去の無明の心中、黒業の諸の不善行を作すは、三途の界を成ず。諸の白業及び不動業を作るは三善界を成ず。若し無明を転じて生滅の明と為さば、下智観の声聞菩提を得と名く。有漏行を転じて出世の助道の行と為さば、七種の学人の残業未だ尽ざるは猶ほ善界に生ず。若し無学は無漏の業及び真諦に著するの愛を用て、根本の無明と合し、方便土に生じ彼名色を受く、彼に於て愛瞋して而も取有を起す、是れ声聞界なり。若し無明を翻じて不生不滅の明と為さば是れ則ち中智にして縁覚の菩提を得。「請観音」に云はく、「十二因縁は夢幻芭蕉の如しと観じて縁覚道を成ず」と、意此に在るなり。有漏の行を転じて無漏の助道と為すは、結業の尽、不尽前と同じ、是を縁覚界と為す。若し無明を転じて船若と為し、不善行を転じて五度と為すは、未だ真を発せざるを以て猶ほ界内の十二因縁を具す、是れ六度界なり。若し無明を転じて空慧と為し、行を転じて六度と為し、六七地の前にして惑を断ずること未だ尽ざるは、皆前に同じ、断じ尽すは彼に生ず、福慧少しく勝るるのみ、是を中智観通教の菩提を得と名く。若し無明を転じて次第の明と為し、行を転じて歴別の行と為すは、十信住は断ずること未だ尽ず、十行向は断じ尽す、皆前に同じ、是を上智観の故に別教の菩提を得と名く。
[15]若し無明を転じて仏智の明と為すは、初発心従り十二縁は是れ三仏性なりと知る。若し通じて十二縁を観ぜば、真如の実理は是れ正因仏性なり、十二因縁を観ずる智慧は是れ了因仏性なり、十二縁を観ずる心に諸行を具足するは是れ縁因仏性なり若し別して観ぜば、無明愛取は即ち了因仏性、行有は即ち縁因仏性、識等の七支は即ち正因仏性なり。何を以ての故ぞ。苦道は是れ生死、生死の身を変ずれば即ち法身なり。煩悩は是れ闇法、無明を転じて明と為す、業行は是れ縛法、縛を変じて解脱を成ず、三道に即して是れ三徳なればなり。性得因の時不縦不横なる、三仏性と名く、修得果の時不縦不横なること世の伊字の如くなるを三徳涅槃と名く。「浄名」に云はく、「一切衆生即ち大涅槃、即ち是れ仏、即ち是れ菩提なり」と、乃ち此意なり。是を上上智観をもつて仏菩提を得と名く。若し五品は未だ断ぜずして学人に同じ、鐵輪は長く苦海を別る、無学に同じ、復変易の五根なりと雖も生福逈かに異り。「釈論」に云はく、「二乗は法性身を受けて諸根闇鈍なり、其れ仏道に於て紆廻なるを以ての故なり」と。若し別円は能く無明を破して直に苦道如実の法を開く、実法に従つて実報を得、直に行有に於て諸行を具足し依正を感得すること罣礙有ること無し、根利福深、中下に同からず。若し三賢十聖は果報に住す、悉く彼十二因縁を成就す、等覚は余して一生の因縁の在る有り。若し最後に無明の源を窮むれば愛取畢竟して尽く、故に究竟般若と名く。識等七果尽く故に究竟の法身と名く。行有尽るを究竟の解脱と名く。断じ尽すと言ふと雖も断ず可き所無し、不思議の断なり、無明愛取を断ぜずして而して円浄涅槃に入る、名色七支を断ぜずして而して性浄涅槃に入る、行有の善悪を断ぜずして而して方便浄涅槃に入る。「浄名」に云はく、「五逆の相を以て而も解脱を得、亦縛ならず脱ならず」と。此の如くにして而して推せば、十二因縁は即ち是れ一切の無量の仏法なり、是を不可思議境と名くるなり。復次に十二因縁を法華の中の十如に対せば、如是性は無明に対す。「浄名」に云はく、「若し無明の性を知らば印ち是れ明の性」と。如是相は行に対す。体は識等の七支に対す。力は愛、取に対す。作は有因に対す、又是れ無明、愛、取の習因なり。縁は行、有に対す。果は無明が智慧の習果を生ずるに対す。報は行、有の五種涅槃に対す。本は三道三種の仏性に対し、末は三徳涅槃に対す。復次に十境に対せば、十法界の陰入、病患の両境は識等の七支に対す。煩悩、見、慢等の境は無明、愛、取に対す。業、魔、禅、二乗、菩薩等は行有等の両支に対す。復次に十二因縁、十如、十境は異心の中に在らば是れ生滅思議なり、一念の心の中に在らば是れ不生不滅不可思議なり。「華厳」に云はく、「十二因縁、一念の心の中に在り」と。「大集」に云はく、「十二因縁は一人の一念に悉く皆具足す」と。此れ猶ほ略を存す、若し一人の一念に悉く皆十界、十如の十二因縁を具足するを、乃ち称して摩訶衍不可思議の十二因縁と為すべきのみ。問ふ、「十二門論」に云はく、「縁法は実に生無し、若し謂うて生と為さば一心の中に在りと為んや、衆の心の中に在りと為んや、亦一念に在りと言ふことを得べきや」と。答ふ、[華厳]に云はく、「一の中の無量、無量の中の一」と。「大品」に云はく、「一切法は無明に趣く、是趣過ぎず、乃至一切法老死に趣く」と。今説く、一心に十二因縁を具す、当に何の咎か有るべけん。復次に一念と言ふは、世人の取著する一異定相の一念と同からず、乃ち是れ一に非ず異に非らずして而して一を論ずるのみ。 譬へば眠法、心を覆ひて、一念の中に無量の世事を夢みるが如きこと、「法華」の如し云云。
[16]真正発菩提心とは、若し生滅、無生滅、仮名等の十二因縁に依て而して慈悲誓願を起す者は此れ真正に非ず、故に「華厳」に「菩提心魔」と云ふ、即ち此意なり。若し不思議の十二因縁に依て慈悲を起す、一切を覆度するは、是を真正と名く。抜苦に二有り、一には十法界の無明、愛、取、行、有の五種の因の苦を抜く、二には十法界の識、名色の七種の果の苦を抜く。慈の与楽も亦爾なり、謂はく、十法界に与ふるに、無明、愛、取を観じて慧行の正道と成し、行、有を転じて行行、助道と成す、是を楽の因を与ふと名く。十界の名色七支、皆安楽の性なり、即ち大涅槃にして復滅すべからざるを観ずるを楽の果を与ふと名く。此四義に約して四弘誓を起し、未だ度せざるを度せしめ、十界の七支の生死の苦を度せん、未だ解さざるを解せしめ、十界の無明、愛、取、行、有の五支の集を解し、未だ安んぜざるを安んぜしめ十界の無明、愛、取、行、有の正助の道に安んぜん、未だ涅槃を得ざるに識等の七支安楽の涅槃を得しむ云云。
[17]善巧安心は、巧に十界の識等の七支は即ち是れ法性なりと観じて、無明、愛、取、八倒の迷惑を起さざるを、名けて観と為し、十法界の行、有等の種種、顛倒息む、故に名けて止と為す云云。
[18]破法遍は、横破せば十界の十二因縁悉く是れ一念、一念は自ならず、他ならず、共ならず、無因ならず、当に知るべし十界悉く無生なり。豎破せば十界の行、有、見思、塵沙無知、無明の不生、乃至四十二品の不生不生を大涅槃と名く。
[19]善く通塞を知るとは因縁の真に達するを通と名け、見思の著を起すを塞と為す。真に沈むを不通と為し、因縁の事に達するを不塞と為す。三道に於て法愛を起すを塞と為し、因縁の中の理に達するを名けて通と為す。若し番番に於て無明、愛、取、行、有を起すを失と為し、若し番番に於て悉く智慧有るを得と名く。或は直に有作等の四種の苦集に就て塞を論じ、四種の道滅を通と為す。或は直に三仮に就て故に塞と為し、三仮を破して無生なるを通と為す。通惑既に爾れば、別惑も亦然なり。或は直に四見に就て十使を起すを塞と為し、見を破するを通と為す云云。
[20]善く道品を修するとは、若し通じて論ぜば十界の因縁の中の色法を皆名けて身と為し、一切の受法を皆名けて受と為し、一切の識法を皆名けて心と為し、一切の想行を皆名けて法と為す。若し別して論ぜば名色支の中、色を取り、六入の中、五入を取り、触の中、五触五受を取り、生死支に各色分を取つて、皆身念処の摂と名く。名色支の中、識分を取り、六入の中、意入を取り、生死支に各識分を取つて、皆心念処の摂と名く。無明、行、名色支の中、想行を取り、触支の中、法触を取り、愛支取支、有支、生支の中、想行を取り、死支の中も亦想行を取る、皆法念処の摂なり。或時云はく、無明は是れ過去の愛、愛は是れ汚穢の五陰なり。若し現在に論ぜば無明は法念処の摂、行は法の摂、識は心の摂、名色は身、心の両の摂、六入は六塵を縁ず、塵は法の摂、入は身の摂、触は法の摂、受は還つて受の摂、愛は汚穢身心の両摂、取は法の摂、有は行の摂、生は是れ色の起るなり。死は是れ色の滅するなり、法の摂なり。問ふ、数人の説く、「生死は皆是れ不相応行なり」と、秖応に法念処の摂なるべし。云何ぞ三念処に通ずるや。答ふ、「大経」に云はく、「此五陰滅すれば彼五陰続いて生ず、蝋印をもつて泥に印するに、印壊して文成ずるが如し」と。故に知んぬ、生死の法は五陰を離れず、此説を作すことを得るなり云云。若し通別の因縁の諸色は垢に非ず浄に非ず、能く雙べて垢浄を照すを、身念処と名く。諸の因縁の通別の諸受は、苦に非ず楽に非ず、雙べて苦楽を照すと観ずるを受念処と名く。諸の因縁通別の心識は常に非ず無我に非ず、雙べて常、無常を照すと観ずる、是れ心念処なり。諸の因縁通別の想行は我に非ず無我に非ず雙べて我、無常を照すと観ずるは是れ法念処なり。此四、能く十二因縁の中の八種の顛倒を破す、八顛倒転じて四枯四栄と成る、亦是れ非枯非栄中間にして涅槃に入り仏性を見るなり。勤めて此四を観ずるを正勤と名く、乃至八道、前に説けるが如し。根本の無の四句を観ずるに、不生不滅即ち畢竟空なり、此空に十八空を具す、十八空は秖是れ一空なり。「方等」に云はく、「小空、大空、皆一空に帰す」と。「大品」に云はく「一独空」と。是を空解脱門と名く、皆此空に入らば法性の四相を取らず、受けず、著せず、念ぜず、分別せず、新旧内外云云。若し心に依倚無くんば所見無きを以て真の仏性を見、不住の法を以て大涅槃に住す。是を無相解脱門と名く。是大涅槃は修に非ず、作に非ず、自に非ず、故に因に非ず、他に非ず、故に縁に非ず、共ならず、故に合に非ず、無因縁に非ず、故に離に非ず、修無く得も無きを、無作解脱門と名く。
[21]対治助道とは、前の道品は直に理を縁じ、無明、愛、取を転じて以て明と為す、正慧を具すと雖も、よく入ることを得ること能はず。何を以ての故ぞ。無明、愛、取は是れ理悪にして理慧と相持す、復行、有の事悪有りて理慧を助覆す、賊は多く我は一なるが如し。故に須く行、有の事善を加修して涅槃の門を助開すべし。若し慳貪の行、有を起すを転じて布施の行、有と為さば、則ち檀度の善根生ず。若し破戒の行、有起るを転じて持戒の行、有と為さば、尸の善根生ず。若し瞋恚の行、有起るを転じて忍辱の行、有と為さば、羼提の善根生ず。若し懈怠の行、有起るを転じて精進の行、有と為さば、毘梨耶の善根生ず。若し散動の行、有起るを転じて禅定の行、有と為さば、支林の功徳生ず。若し愚癡の行、有起るを転じて無常、苦、空を覚悟するの行、有と為さば、故に事慧分明にして理惑を助破す。若し、一蔽有らば則ち理を見ず、沈んや復六をや。今は但強き者を破す、弱きは則ち随つて去る。
[22]助道の力深くして一切の功徳を成弁す、諸根を調伏し六度を満足し、仏の威儀、十力、無畏、乃至相好等を具す。前に説けるが如し、自ら思ひて之を作れ。又仏の威儀とは、仏の坐道場、転法輪、入涅槃、皆十二因縁に約す。「大品」に云はく、「若し能く深く十二因縁を観ずるは、即ち是れ坐道場なり」と。道場に四有り。若し十二因縁の生滅を観じて究竟するは即ち三蔵の仏の坐道場にして樹木草座なり。若し十二因縁の即空を観じて究竟するは’通教の仏の坐道場にして七宝樹天衣座なり。若し十二因縁の仮名を観じて究竟するは、別教舎那仏の坐道場にして七宝座なり。若し十二因縁の中を観じて究竟するは是れ円教の毘盧遮那仏の坐道場にして虚空を座と為す。当に知るべし、大小の道場は十二因縁の観を出ざるなり。又諸仏は皆此観に於て而して法輪を転ず。若し寂滅道場の七処八会は、利根の菩薩の為に十二因縁の不生不滅を説くなり、亦は名けて仮名と為し、亦は中道義と名く。若し鹿苑は鈍根の弟子の為に十二因縁の生滅の相を説く、若し方等十二部経は十二因縁の生滅、即空即仮即中を説く、若し摩訶般若は十二因縁の即空即仮即中を説く、若し法華は十二因縁の即中を説く、三方便を捨つるなり。若し涅槃は十二因縁を説くに四の意を具足し、皆仏性有り、乳に醍醐の性有るが如し。四教五味同からざれども、皆是れ十二因縁に約して善巧に分別し、機に随つて示導するのみ。又復毒を乳の中に置く、是れ涅槃、十二因縁に約して不定教を明すなり。又復我れ初成道に十方の菩薩已に此義を問ふと説くは、即ち涅槃の中十二因縁に約して秘密教有るなり。所以は何ん。初め鈍根の弟子の為に十二因縁の生滅の相を説くに、別に利根の菩薩有つて座に在り、密に十二因縁の不生滅の相を聞きて即ち仏性を悟り、無生忍を得、此れ秘密の意なり。此れ乃ち同居土の中の転法輪の相なり。又諸仏皆此観に於て而して般涅槃したまふ。若し鈍根、無明滅し、乃至老死滅し、正習倶に尽るに約せば是れ三蔵の仏の有余、無余の涅槃なり。即空の観をもつて無明滅し乃至老死滅するに約せば、是れ通教の仏の有余、無余の涅槃なり。因縁仮名中道の観をもつて無明滅し乃至老死滅するに約せば、是れ別教の仏の常楽我浄涅槃なり。十二因縁、三道即ち三仏性、亦は三涅槃にして、涅槃を諸仏法界と名くるに約せば是れ円教遮那仏の四徳涅槃なり。此は是れ同居土に涅槃の相を示すなり、四種有り、「像法決疑経」に出す。方便、実報の二土の成道、転法輪、入涅槃も亦応に解すべし。是を十二因縁摂法の義と名く云云。
[23]識次位とは、三悪の軽重は皆無明悪行不善の愛取に由て致す所なり、三善の高卑も亦無明善行不動行の愛取有に由て致す所なり。若し無明愛取を翻じて生滅の智を起す者は、即ち三蔵の中の慧解脱の賢聖位行の高下なり。若し行有を転じて観、練、熏、修の行行の功徳を起すは即ち是れ三蔵の倶解脱の賢聖位行の高下なり。小大の迦羅、此に類して知る可し。五度を翻じて行有を成じ、般若をもつて無明、愛、取を翻じて諸根を調伏すれば即ち三僧祇の位有るなり。若し無明、愛、取を翻じて即ち真なりと体達し、行、有を翻じて六度を修すること空に樹を種ゆるが如くなるは、即ち四忍位行の高下有るなり。無明、愛、取を翻じて道種智を生じ、行、有を翻じて歴劫修行の諸度を成じ、神通をもつて仏国土を浄め衆生を成就するは、即ち六輪の位行高下有り。
[24]若し無明、愛、取を翻ずるに即ち是れ懺然たる三菩提の灯なるは、即ち円教六即の位行高であり。十二因縁、一人の一念に悉く皆具足す、癡も虚空の尽す可からざるが如く、乃至老死も虚空の尽すべからざるが如し、空は則ち尽と不尽と有ること無し、空は則ち是れ大乗なり。「十二門論」に云はく、「空を大乗と名く、普賢、文殊大人の乗ずる所なるが故に大乗と名く」と。「大品」に云はく、「是乗動ぜず、出ず、若し人法性実際をして出しめんと欲せば、是乗も亦動ぜず出ず」と。「大経」に云はく、「一切衆生は即ち是れ一乗なり」と。此の如き等を理即是と名く。理即是に由て名字即是有ることを得、初発心従り大乗を説くを聞きて衆生即ち是れ仏なることを知れども、心謬つて取著し、故に観行すること能はず、虫の木を食ひて偶字を成ずることを得るが如し。名字に由るが故に観行あることを得前に説く所の如き、七番の観法通達無礙なり、即ち是れ行処なり。観行に依るが故に相似あることを得。初品を発得するは止是れ円信、二品の読誦は信心を扶助す、三品の説法も亦信心を助く、此三は皆乗急戒緩なり。四品は少しく戒急に、五品は事理倶に急なり、進んで諸の三昧陀羅尼を発し、六根清浄を得、鐵輪の位に入るなり。相似に由るが故に分証有ることを得。三道即ち三徳なり、豁然として開悟す、三仏性を見、三涅槃に住し、秘密蔵に入る、清浄妙法身、湛然として一切に応ず、乃至等覚、悉く是れ分証即なり。無明を転じて智慧の明を生ず、初日の月乃至十四日の月の如し。行、有を転じて解脱を生ず、十六日の月乃至二十九日の月の如し、所有の識、名色に、法身漸漸に顕現すること、猶ほ月の体の如し。分証に由るが故に究竟有ることを得。三徳円満して究竟の般若、妙極の法身、自在の解脱、荼を過ぎて字の説く可き無し。故に知んぬ、大小の次位は皆十法界の十二因縁に約するなり。
[25] 若し寂滅真如には何の次位か有らん。初地即ち二地、地は如従り生ず、如は生有ること無し。或は如従り滅す、如に滅有ること無し。一切衆生即ち大涅槃なり、復滅す可からず何の次位高下大小か有らんや。不生不生不可説なり。因縁有るが故に亦説くことを得可し十因縁の法、生の為に因と作ること、空虚に昼き、方便して樹を種うるが如く、一切の位を説くのみ。若し人、上の諸の次位を知らずんば、謬つて取著を生じ増上慢と成らん、即ち菩薩の旃陀羅なり。
[26]安忍とは、十界の因縁を観ずるに当に種種の遮道の法を起すべし、所謂、三障、四魔、種種の違順なり。業、魔、禅、二乗、菩薩の行行等の法は皆行有の両支従り起る。若し能く安忍するは即ち能く如来の行有の功徳を成就す、所謂、六根清浄の報相なり。煩悩障発するは、所謂、貪瞋邪計、深利の諸見慢、二乗、通別三蔵等の菩薩の慧行等、悉く是れ無明、愛、取支の中より発す、若し能く了達して安忍するときは則ち仏知見を開く。報障の発するとは、所謂、種種の陰界入、種種の八風、種種の病患なり、即ち是れ七支の中より発す、若し、即ち是れ仏性なりと知らば、動転取捨せざること猶ほ虚空の如し、是れ則ち生死を断ぜずして而して涅槃に入り、陰入を破壊せずして而して真実の法身を顕すなり。能く是の如く通達すれば則ち三障に於て礙り無し。忍辱地に住し、柔和善順にして而も卒暴ならず、心亦驚かず、是を安忍の心成ずと名く。声聞の如きも、若し忍法に住すれば終に退して五逆闡提と作らず。菩薩、堪忍地に住すれば、終に障道の重罪を起さざるなり。順道法愛無しとは、一には似、二には真なり。菩薩、初の伏忍より柔順忍に入り、鐵輪似解の功徳を発して三法に染せず、所謂、相似の智慧功徳法性なり。智慧に無明、愛、取あるを以ての故に、功徳に、行、有の業有るを以ての故に、法性に名色、生死あるを以ての故に皆応に著すべからず。若し三法に於て愛を生ずれば菩薩の位に入らず、二乗に堕せず、是を頂堕と名け、亦順道と名く。無明愛、取を観じて慧行の道に順ず、行、有を観じて行行の道に順ず、識等を観じて法性の道に順じ、三道に順ずるが故に、声聞の地に堕せず、三道を愛するが故に菩薩の地に入らず。云何が愛を起すや。薝蔔林に入らば余香を嗅がざるが如し、菩薩、唯諸仏の功徳を愛して、復二乗及び余の方便道有ることを念ぜず、是を名けて愛と為す、愛の故に無明、愛、取を変じて真明と為ること能はず、行、有を変じて妙行と為すこと能はず、識、色を顕して法身と為すこと能はず、三道転ぜず、豈、菩薩の位に入らんや。若し相似の三法に著せず、順道の愛無くんば、則ち無量の衆罪除こりて清浄の心常に一なり。是の如き尊妙の人、則ち能く般若を見る、般若尚著せず、何に沈んや余法に於てをや。入理の般若を名けて住と為す、即ち是れ初発心住の時、便ち正覚を成じ、一切の真実の性を知り、慧身を具足して他に由て悟らず。般若を見るとは、真に三道三種の般若を見るなり、此従り已去、心心寂滅し、自然に、薩婆若海に流入し、無量の無明、自然にして而して破す。「大論」に云はく、「何が故ぞ、処処に無明を破する三昧を説くや。答ふ、無明の品数甚だ多し、初め初心従り金剛頂に至つて皆無明を破し、悉く法性を顕す、余り一品在り、若し此品を除かば即ち名けて仏と為す」と。如来の身は金剛の体なり、衆悪已に断じ衆善普く会す、三徳究竟して荼を過ぎて字の説く可き無し。
[27]是を、是宝乗に乗じて直に道場に至り、薩婆若の中に到つて住すと名く、余は上に説くが如し云云。
[28]第九に念仏の発を明すとは。或は念仏を発して次に諸禅を発す、或は諸禅に因て而して念仏を発す。坐禅の中に於て忽然として諸仏の功徳の無量無辺不可思議なることを思惟して信敬慚愧し、深く慕仰を生じ、諸仏の大神力有り、大智慧有り、大福徳有り、大相好有ることを存想す。是の如きの相好は此功徳より生ず、是の如きの相好は彼功徳より生ず、是の如きの相好は此の如きの福徳有り、此の如きの相好は彼如きの福徳有り、相体を知り相果を知り相業を知る、一一の法門、照達すること明了にして深く相海を解して而も疑滞無し。定心怗怗として亦動乱せず、此定に安住して漸漸に転た深し、忽ち麤細住欲界未到を発して進んで初禅等に入る、念仏根本なり。各是れ一辺、此念仏の境界を覚す、故に覚支と名く。念仏に種種の相、種種の功徳法門有る分別して皆分明に識る。是を歓支と名く。是の如く見已つて心大いに歓喜し、慶悦内に充るを喜支と名く。一心安隠にして遍体怡楽するを楽支と名く。無縁無念湛湛として深く入るを一心支と名く。是の如きの五支と念仏の法と同く起る、如来の功徳力熏じて味、余支に倍す、称説すべからず証する者自ら知る。但仏法の功徳相好無量なれば、発得する所の三昧も亦応に無量なるべし。所発の五支も亦復無量不可説不可説なり、一一の五支に皆十種の功徳眷属支林を具す。是を念仏三昧に因て諸禅乃至四空を発得すと為す。特勝、通明、不浄、背捨、慈心等も亦復是の如し云云。云何が禅に因て念仏三昧を発得するや。行者若し根本等の諸禅を発するに、定心の中に就て忽然として諸仏如来を憶念す、感動福徳は相好に由る、相好は善業に由る、三種の法門と心と相応して豁豁として明了なり。此法の発する時、禅定の五支倍其妙を増す。四禅、特勝、背捨等も亦是の如し。
[29]此念仏定に亦二種有り、一には隠沒、二には不隠沒なり。若し先に隠沒を得、仏の功徳を解すること憶識明了なり、然して後不隠沒を得、明かに光明を見、神容を瞻奉すること的的として分明なるは、此は是れ魔に非ず、能く功徳を増進し、善根を扶疏す。念仏に因て広く能く六念の法門に通達す。所謂、仏の功徳法門を念ずるは即ち是れ念法なり。弟子受行して相業体果を念じ三事和合するを念僧と名く。此れ即ち念僧を以て、念仏を以て、念法を以て、善く諸の悪念を奪す、即ち是れ念捨なり。是の如く念ずる時、信敬慚愧するは即ち是れ念戒なり。此定の中の支林の功徳は諸天と等しと念ずるは即ち是れ念天なり。三は自念、三は念他、乃至一切の法に通達して念仏門に於て摩訶衍を成ず、薩陀波崙の仏を見たてまつる時、無量の法門を得るが如く、内外皆隠沒せず。若し内に闇く隠沒して一箇の功徳法門をも識らず、而して外に光相を見ること目に溢るるは、此は是れ魔なり、善の芽莖を折り、道の華果を損す、今時の人、仏を見れども心に法門無きは皆仏に非ざるなり。若し此意を得れば但法の正を取る、色相は正に非ざるなり、若し専ら色相を取らば、魔の変作する相、泥木圖写、皆応に是れ仏なるべし、又如来の示現自在無礙なるに、何ぞ必ず一向に丈光の形と作さん、丈光の形は端正の人に示同するのみ。仏は遍く所喜の身を示し、遍く所宜の身を示し、遍く対治の身を示し、遍く得度の身を汞す。師僧、父母、鹿馬猨猴、一切の色像、見ることを得る時に随つて法門と倶に発し、又能く本の善根を増長するを、乃ち念仏三昧と名くるなり云云。
[30]十に神通の発するを明すとは。略して五と為す、天眼、他心、天耳、宿命、身通なり。無漏は下の境の中に属して説かん。唯、禅に因て通を発することを得るも、通に因て禅を発することを得ず。所以は何ん。諸禅は皆是れ定法なり、互に相発するにとを得、諸禅は是れ通の体、通は是れ諸禅の用なり、体に従つて用有り、故に通は体に附して興る、用は孤り生ぜず、安んぞ能く体を発せん。経に言はく、「深く禅定を修し五神通を得」と、即ち此意なり。
[31]若し通じて発を論ぜば、一一の禅の中、皆能く五通を発す。若し便易に就て別して論ぜば、根本は多く発することを論ぜず設び発するも亦快利ならず。特勝、通明は多く軽挙の身通を発す。背捨、勝処は多く如意転変自在の身通を発す。若し慈心定の中には、人の色貌を縁じて得楽の相を取る、色に因て心を知り、其苦楽を識る、此は多く知他心通を発す、既に色に藉りて心を知り、亦其言語音声を知れば、亦天耳通をも発す。因縁は人の三世を観ず、過去の事を照すは多く宿命通を発し、未来の事を照すは多く天眼通を発す。若し念仏定の不隠沒は多く天眼通を発す。又諸の通の若し精細なる者は、即ち是れ三明なり、但無漏の明に非ざるのみ。譬へば盲声の眼耳忽ち開けば則ち大いに歓喜するが如し。沈んや無量劫より来五根内に盲ゆ、今五翳を破して浄く五通を発す、一一の通の中、皆五支有り、眼の障破るが如し。眼根と色と対を作すを覚するは即ち覚支なり。色等の無量種の相を分別するは即ち観支なり。此通開きて即ち大いに慶悦するは是れ喜支なり、内心に楽を受くるは即ち楽支なり。無縁無念にして湛然なるは即ち一心支なり。余の四通も亦是の如し。若し諸禅の体に就かば、或は内心に解を得、或は外相明かならずして而も隠沒の義有り、神通は是れ定が家の用、用は必ず明了なり、是故に悉く是れ隠沒せざるなり。
[32]第四に止観を修することを明すとは、若し行人、諸禅を発得して方便有ること無く、禅味に貪著するは是れ菩薩の縛、禅に随つて生を受け、生死に流転す、若し出要を求めんには応当に十意を観察すべし云云。
[33]若し禅を観ずれば胡瓜の如く能く十法界の為に而も因縁と作る。初め定を発して身口を柔伏し、蛇の筒に入るが如く、禅に因て而も直しと雖も、後に観を出して境に対するに已に復還つて曲り、更に煩悩を生ず。初めは小水の如く、後は大器に盈つ、禅法既に失して戒を破し道に反して無間の業を造る。仏世に在せし時、四禅を得るの比丘、謂つて四果と為す、又熊子等も是なり云云。又勝意は禅に著して自ら高なり、喜根を謗擯す云云。又定に入れば悪無し、観を出れば悪を起して業を成ず、若し定を失すれば、悪、悪道を牽き、定を失せざれば禅の報を受くること尽きて悪業則ち興る。飛貍の身を受け、諸の魚島を噉ふ、即ち其義なり。若し禅を得ざれば名利至らず、既に禅を得已れば因て三途の法界を造る。若し禅中に在つては定相に染著し、若し観を出で已れば慈仁礼義の心を起す。若し定を失せざれば、禅報尽るに随つて則ち人道に生ず。若し禅観を用て十善を熏じ、任運に自から成つて防護を加へざるは是れ天業四禅、四空は上の両界の業なり。若し専ら根本を修するは、但人天を増長して永く出るの期無し、大通智勝仏の時、諸梵自ら云へるが如し、「一百八十劫、空しく過ぎて仏有ること無し、三悪道充満して、了かに一人も生死を出ることを得ること無し」と。若し、専ら不浄、背捨等を修するは、諦智を俟たずして能く無漏を発し、声聞法界を成ず。若し諸禅を観じて能く六蔽を破するは、蔽は是れ集、集は苦果を招く、能破は是れ道、道は能く滅に至る、亦是れ声聞法界なり、亦是れ六度の菩薩法界なり。又禅は必ず欲を棄つ、是を檀と為す。若し戒を持たずば三昧現前せず、是を尸と為す。禅を得るが故に瞋無し、是を忍と為す。禅を得るが故に雑念無し、是を精進と為す。此法自らを禅と名く。諸法皆無常なることを知るを名けて智と為す。是を禅に因て六度の菩薩法界を起すと名く。又此禅を観ずるに是れ因縁生の法、若し諸禅を観ずるは是れ有支なり。有支は取に由る、乃至老死も前に説けるが如し、是れ縁覚法界なり。又諸禅を観ずるに因縁生の法即空なり、生法即空なるは是れ無生の道諦なり是は通教の声聞、菩薩等の法界なり。又此禅を観ずるに因縁生法即空即仮即中なり、十法界は禅に従つて而して生じ、禅に従つて而して滅す。何を以つての故ぞ。若し禅に因て三途、六道の法を出生するは即ち是れ二十五有を増長し、六法界を生じ四法界を滅す。若し禅に因て背捨等の等を出生するは二十五有を伏す、亦是れ六法界を摧翳するなり。若し背捨等の無常を観ずるは是れ生滅の拙度を用て二十五有を破し、六法界を滅し一法界を生ずるなり。若し禅の因縁生法即空を観ずるは、是れ不生の巧度を用て二十五有を破し、七法界を滅し一法界を生ずるなり。若し禅の即仮を観ずるは、是れ無量の拙度を用て二十五有及び客塵煩悩を破し、八法界を滅し一法界を生ずるなり。若し禅の因縁生法即中を観ずるは、是れ一実の巧度を用て二十五有及び無明の惑を破し、九法界を滅し一法界を生ずるなり。王三昧を成じて遍く一切の三昧を摂す、根本、背捨、悉く其中に入る、流の海に帰するが如く、根本、背捨を変じて悉く摩訶衍を成ず。摂の義は流の海に入るが如く、滅の義は淡の尽るが如く生の義は鹹の成るが如し。禅波羅蜜は彼慈定を変じて無縁の慈悲と成し、彼の念仏を変じて大念仏海と成して十方の諸仏悉く現在前す、彼神通を変じて如来無謀の善権と成す。要を挙げて之を言はば、九法界の中の諸の戒定慧にして王三昧に入らば、変じて聖行と名く。聖行の契ふ所、諦理に安住するを即ち天行と名く。天行に同体無縁の慈有り、即ち梵行なり。単に悲を煩悩に同じて苦を抜かんと欲することを明すは、即ち病行なり。単に慈を小善に同じて其楽を与へんと欲することを明すは即ち嬰児行なり。是五行を以て十功徳を生ず、乃至究竟して大涅槃を成ず。是を禅に因て十法を生滅し三諦を隠顕すと名く。次第に生出し、展転して増進し、仏法を摂成し、具に即中の王三昧の内に在り。此れ乃ち思議の境なり、今の所観に非ず。
[34]不思議観とは、若し一念の定心、或は味、或は浄、乃至神通を発せば、即ち此心は是れ無明法性法界なり、十界百法、無量の定乱、一念に具足することを知る。何を以ての故ぞ。法性に迷ふに由る。故に一切の散乱の悪法有り、法性を解するに由るが故に一切の定法有り、定散既に即ち無明、無明亦即ち法性なり、迷解定散、其性二ならず、微妙にして思ひ難し、言語の道を絶す、情想圖度すれば徒らに自ら疲労す、豈、是れ凡未二乗の境界ならんや。常情を越越すと雖も而も群有を離れず、「経」に言はく、¬一切衆生即ち滅尽定」と。心に即して定と名くと雖も、而も衆生未だ始より是ならず、而も衆生未だ始より非ならず。何を以ての故ぞ。若し衆生を離るれば何れの処にか定を求めん、故に衆生未だ始より非ならざるなり。若は衆生に即して定んで衆生なるに非ず、故に衆生は未だ始より是ならざるなり。未だ是ならざるが故に即せず、非ならざるが故に離せず、即せず離せず、妙にして其中に在り、量り難きこと空の如し、唯仏と仏とのみ、乃ち能く究尽したまふ、一念の禅定既に爾れば一切の境界も亦復是の如し。若し此の如く観ずるに、豁として悟を得る者は、直に是言を聞きて煩悩の病愈ゆ、下の九法を須ひざるなり。
[35]若し観ずるも未だ悟らざれば重ねて慈悲を起せ。此理寂静なれども而も衆生迷を起す、無明の戯論は如来蔵を翳し、煩悩の林を稠す、是故に悲を起して根本の重苦を抜く。又無明即ち法性、煩悩即ち菩提、衆生をして事に即して而も真、法身顕現せしめんと欲す、是故に慈を起して究竟の楽を与ふ。是の如きの誓願、清浄真正、上に仏道を求め下に衆生を化す、雑毒ならず、偏邪ならず、依倚無く二辺を離るるを発菩提心と名く。此心発する時、豁然として悟ることを得るなり。快馬の鞭影を見て即ち正路に到るが如し。
[36]若し去らずんば当に心を止観に安ずべし、善巧に廻転し、方便して修習せよ、或は止、或は観、若し一念の禅定を観ずるに二辺寂滅なるは体真止と名け、法性は浄にして無障無礙なりと照すを即空観と名く。又禅心を観ずるに即空即仮雙照二諦にして而も真際を動ぜざるを随縁止と名け、薬病に通達、称適当会するを即仮観と名く。又、深く禅心を観ずるに、禅心の即空即仮即中にして二無く別無きを無分別止と名け、実相、如来蔵、第一義諦にして無二無別なりと達するを即中観と名く。三止三観、一念の心に在りて前ならず後ならず、一に非ず異に非ず。二辺を破せんが為に一と名け中と名け、偏に生滅に著するを破せんが為に円寂滅と名け、次第の三止三観破せんが為に三観一心と名く。実に中円一心の定相無し。此止観を以て而して其心を安んず云云。
[37]若し二法、心を研くに而も入らずんば、当に知るべし、未だ真を発せざる前に皆是れ迷乱せりと。一心三観を以て遍く横豎一切の迷乱を破せば、迷去つて慧発し、乱息んで定成ず。
[38]如し其れ悟らず、即ち塞して而して通ぜずんば、応当に更に観ずべし、何者か通ぜざる、何者か塞せざると。若し、其れ塞せずんば即ち応に是れ通なるべし、如し其れ通ぜずんば更に須く観察し、字、非字を知り、四諦の得失を識るべし。
[39]若し悟らずんば、是れ道品を調停することを解せざるなり。所以は何ん。一念の禅心に十界の五陰を具す。諸陰即空なれば界内の四倒を破して四枯を成じ、諸陰即仮なれば界外の四倒を破して四栄を成ず、諸陰即中なれば内に非ず外に非ず、栄に非ず枯に非ず、其中間に於て而も般涅槃す。此の如く四念道品の門を開く。道品は三解脱の門を開き、涅槃に入り、道定具足す。
[40]何の意あつて悟らざる。当に過去の障蔽、現に禅味に著して、棄捨すること能はざるに由るべし。今昔相扶けて共に慳蔽を成ず、道、何に由てか発せん。当に苦到に懺悔し、身命財を捨て、味禅の貪を捨て、檀度を修し、助けて慳障を治すべし。又、諸禅に味奢して即ち随道戒を破し、乃至、具足戒を破す、過現相扶けて共に破戒の蔽を成ず。応に苦到に懺悔し、事相をして謹潔ならしめ、助けて尸障を治すべし。又黒歯梵天の如き、尚自ら瞋有り、今事禅を発す、何の意ぞ瞋無からん。又禅定有りと計す、有らば無生に非ず、亦寂滅に非ず、二忍に非ざるが故に任自に是れ瞋なり、過現相扶けて共に瞋障を成ず。当に苦到に懺悔し、事慈を加修して助けて忍の障を治すべし又禅味に著するは是れ放逸なり、癡に盲ひられ散動間雑す、過現相扶けて共に懈怠を成ず。当に苦到に精進し、無間相続して助けて進の障を治すべし。又禅の中に発する所の業相、禅心を悩乱して湛一なることを得ず。若し二乗は但煩悩を断じ、業を柢ぎて而して去る、業を断ずることを論ぜず。菩薩は煩悩を断じて法性の身を受く、而も諸の法門に開不開有り、当に知るべし業の為に障せらるることを。須らく苦到に諸の善業を修すべし、法性身尚爾り、沈んや生死の身、安ぞ業無きことを得ん、善を修して助けて定の障を治せよ。又味禅の者は全く是れ無常生滅を了せず、沈んや味著不生不滅を了せんや、過現相扶けて共に癡の障を成ず。当に苦到に懺悔し、事の迷僻を治すべし。是れ略して対治を明す、広ずれば尽すべからず。行人の観法極まつて此に至る。
[41]若し悟らずんば是れ大鈍根、大遮障の罪あり、恐らくは罪障に因て更に過失を造らん、故に重ねて下の三種の意を明すのみ。識次位は内に増上慢を防ぎ、安忍は外に八風を防ぎ、除法愛は頂堕を防ぐなり。
[42]十法成就すれば速に無生に入る、一の大車を得て四方に遊び、直に妙覚に至り、二十五有を破して王三昧を証し、自行化他初後具足す。余は皆上に説けるが如し云云。